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・無血の戦争

 トーマが俺たちの前から下ろうとすると、母上は公務に出なければならないと言って、その足で離宮から立ち去っていった。

 そこで俺とトーマは屋敷に戻り、2日ぶりの自室に落ち着くことになった。


「ふぅ……」


 ベッドには横にならず子供用の学習机に腰掛けて、借りっぱなしだった本に目を通した。

 掃除の行き届いた爽やかで快適な環境で、窓辺の明かりを頼りに文字を追う。


 ときおり蛍光灯に白く輝くスベスベの上質紙が恋しくなるけれど、こちらの世界の荒く黄ばんだ紙も手作りの味わいがあって乙なものだった。


 そうやってしばらくくつろいでゆくと、小姓の長であるジェイナスが部屋の扉をノックした。

 どうぞと俺が答えると、彼は扉を開いていつもの仰々しいお辞儀をする。


「失礼いたします、アリク殿下。本日のお加減はいかがでしょうか」

「え、お加減……?」


「はい。見たところお元気そうでこのジェイナス、安心いたしました」

「もしかして、ジェイナスも僕のことを心配してくれていたの……?」


「当然でしょう。心より貴方のお気持ちを案じておりましたよ」


 ジェイナスは鋭く恐い人だけれど、俺、アリク王子にはいつだってやさしい人だった。

 彼からすれば生まれた頃から面倒を見ている子供だから、きっとかわいくて当然なんだろうけれど。


「ありがとう、ジェイナス。でも僕は平気。それより父上からの呼び出しなんだよね?」

「は、政務室までご同行下さい。ロドリック陛下と、ギルベルト殿下がお待ちです」


 ジェイナスに手を引かれて離宮を離れ、そのさきの王宮に入った。

 王宮は行政の中心であり、貴族諸侯の社交場でもある。


 そんな中を颯爽とジェイナスが歩むと、大物諸侯ですら道を譲ってくれる。

 ヒソヒソと女官やどこかのご令嬢たちが僕たちを遠巻きに盗み見て、勝手な噂話に華を咲かせる。


 美しき宦官ジェイナスと、男らしく精悍なロドリック王は、異世界の腐女子たちの妄想の絶えないところだろう。


 そのジェイナスが王の息子を溺愛する光景は、さらに面白おかしく映るに違いない。


「アリク殿下をお連れしました」

「入れ」


 父上の政務室と、その周囲の緊張した雰囲気にもそろそろ慣れてきた。

 きっとそれはジェイナスのおかげだ。


 政務室に入ると父上は書斎机に腰掛けていて、ギルベルド兄上はその書斎前にイスを運んで何かを話し合っていた。


「アリク、大変だったようだな」


 ジェイナスに手を引かれて書斎机の前に立つと、ギルベルド兄上が立ち上がってそう言ってくれた。


「ありがとう、兄上。僕よりも大公様の方が堪えていたけどね」

「昨日の顛末は既に耳にてしている。アイギュストス大公はお前に深く感謝していた」


 兄上は弟を心配しながらも、『よくぞ大公に取り入った、上出来だ』とでも言い出しそうに口元を歪めた。


「うむ。アリクよ、お前のおかげで我らの同盟はより堅固な物となった。我々も肝が冷えたがな……」


 今回の事件は俺がリアンヌのスキルをいじっていなかったら、かなり危ない事態だった。

 両家の婚姻同盟が崩壊し、俺も大公様も悲しみに暮れていた。


「父上、大公様から親書をお預かりしています」

「うむ、受け取ろう」


 様式に則って親書を父上に向けて差し出すと、父上も様式に則ってジェイナスにそれを受け取らせた。


「温厚な大公様だけど、今回ばかりは凄く怒っていたよ。昨日はまだ落ち着いていたけど、一晩明けたら怒りがぶり返してきたのかな……。敵に怒り心頭だった」


 父上はジェイナスと共に親書に目を通し、兄上にそれを渡した。


 その内容はというと、王家と大公家の結び付きを強化することを誓うと同時に、ウェルカヌスおよびジュノー国に対する厳しい対応を要請する物だった。


「アリクよ、今朝我々の元にもジュノー国大使からの勧告があった」

「リアンヌを浚っておいて、勧告……?」


 さすがにその話には俺もイラッときた。

 誘拐という卑劣なカードを切っておいて、どの口で外交を語る。恥知らずめ。


「大使は我に言ったよ。『塩田を放棄しなければ、他国との交易は望めぬものと思え』とな」

「ふんっ、思い上がりもいいところだ」


 よっぽどその大使が不快だったのか、兄上は吐き捨てるようにそう言った。

 しかし父上とジェイナスは難しい顔をしていた。


「敵はカナン王国を経済封鎖で干し上げるってこと?」

「はい。ジュノーは塩と鉄、食料を諸国に輸出する経済国です。どの国もジュノーとの貿易関係を失いたくはないでしょう」


 カナン王国への経済封鎖は可能。

 ジェイナスは俺の質問に、落ち着き払った様子で答えてくれた。


「アリク、心配は要らん。お前を辱めた敵の言葉を、父上も俺も飲む気などない」

「僕の名誉はさておいて、リアンヌを浚ったやつらに屈服するのは僕もイヤだよ、兄上」


「ふんっ、良い顔をするようになってきたな」

「母上には凄く不評だけれどね……」


 ただ恐い人だとばかり思っていた兄上だけど、それが俺のことでこんなに怒ってくれるなんて思っていなかった。

 まだ恐いけど味方にすると頼もしい人だった。


「再びカナン王国の政情を乱すことにもなるが、我も塩田を放棄した果てに未来があるとは思えぬ。次にお前が鉄を作れば、今度は鉄を放棄しろと言い出すだろう」

「バカバカしい……! 近隣の塩を独占しているからって、大陸の盟主にでもなったつもりか!」


 実際、カナン王国からすればジュノー国はかなりの格上なのだろう。

 国土や軍事力でこちらが勝っていたとしても、経済力や影響力の差が著しい。


「私たちが塩田開発を成功させた時点で、この紛争は起こるべきして起きたことなのでしょう。そしてなりふり構わずに脅しをかけてくるくらいには、敵は私たちカナンを恐れているかと存じます、陛下」


 婚約者の無事を喜んで楽しい一晩を過ごしたのつかの間、俺たちの前には経済封鎖と孤立の危機が立ちはだかっていた。


 そしてすぐに俺は理解した。

 本気でジュノー国と経済戦争をするつもりならば、鍵は俺、アリク王子のもたらすミラクルにあると。


「アリクよ、我々はお前の藻塩を近隣諸国に売り込もう。塩田の拡張はしばしアイギュストス大公に任せ、お前には新たなる仕事を命じたい」


 塩さえ手に入るなら屈服には乗らない。そう考える国もあるだろう。

 どれだけをカナン王国側に引き込めるかは、父上たちの弁舌や外交手腕次第だ。


「つまり僕は、鉄の国産化を進めればいいのかな……?」

「そうだ。アイギュストス領に隣接する王家の天領に、グリンリバーと呼ばれる町がある」


 グリンリバー……緑川。

 いかにも風光明媚な名前だけれど、そこに寄ったことは一度もない。


「殿下、こちらを」

「え、なあに、ジェイナス……?」


 ここは政務室だというのに、ジェイナスがやさしく微笑んで、僕の胸にエメラルドが四角錐に輝く勲章を付けてくれた。


「それは代官の身分を証明する物だ。今日よりお前は、グリンリバーの代理領主アリク・カナンだ」

「え……、ぼ、僕が領主……っっ?!」


 代理とはいえ、8歳の自分がいきなり領主になる展開なんて予想もしていなかった。

 しかもそこは、リアンヌのいるアイギュストスの隣だという。


「ふっ……」


 兄上は驚く弟に、どこか楽しげに笑った。


「アリク・カナンよ。これよりお前はグリンリバーを製鉄の拠点とし、我が国と諸国に鉄をもたらせ。我らは塩と鉄をもって、遙か遠方の敵国ジュノーを打ち負かす。よいな?」


 これから父上たちは、苛烈な陰謀家として敵にえげつない反撃をするのだろう……。

 その泥沼の醜い戦いを早期に終わらせるには、塩と鉄を量産し、下らない経済戦争を降着させるしかない。


 豊かになるために塩を作り始めたのに、それがこんな醜い戦いになるなんて、人間ってやっぱりバカだ……。


「ところで父上、報告をかねた相談があるんだけど……」

「なんだ?」


「さっきトーマのスキルをちょっといじってね、【気配察知・小】ってスキルを【物理耐性◎】と一つにしたんだ」

「ほう、それが本当ならば、お前の身という懸念がまた1つ薄まる」


「うんっ、そうなんだ! だからトーマがいれば、僕もそろそろ城下町を自由に歩いても――」


 期待を込めて俺はそう持ちかけたんだけど、父上とジェイナスが揃って首を左右に振った。

 兄上は同情するように弟の肩を叩いてくれた。


「あの過保護な母親が応じるはずがない。それは諦めろ」

「すまぬ……。我はこれ以上、リドリーの機嫌を損ねたくはない……」

「もう少し貴方が大きくなったら、私からリドリー様に相談いたしますので、今はご自愛を」


 自由に外の世界を歩きたい。

 その願いはまだまだ叶いそうもなかった……。

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[気になる点] 人を誘拐する意の「さらう」は「浚う」ではなくて「攫う・拐う」です
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