・文明の光を領主邸まで引こう! - みんなで飲んでもうた -
アグニアさんの工房はあれから様変わりした。
何せ高炉を作った当時からかれこれ2年が経っている。
手探りだったあの頃から変わって当然だった。
カナン王国は製鉄事業を成功に導いたアグニアという外国人技術者に、その功績にふさわしい立派な工房と市民権を与えた。
さらには莫大な報奨金が彼女に支払われたとも聞いている。
国はアグニアさんの国外流出を恐れたのだろう。
「ああ、あんときのゼニかー? もうちょぴっとしか残ってへんでー」
「えっ……?」
「みんなで飲んでもうたーっ! ほな、中へどーぞ、王子様!」
「の、飲んだって……。ほとんどが、お酒とおつまみに消えたってこと……?」
「せや! 1人で使いきれなかったら、みんなで使えばええ!」
すごい……。
なんというダイナミックな思考回路だろう。
経済にやさしい羽振りのよさだろう。
貯金とか安定とか、そういう概念が彼女の中には存在していなかった。
「やっぱりアグニアさんには敵わないよ……」
「そら光栄やな」
「きっと兄上にとってアグニアさんは、僕にとってのリアンヌなんだろうね……。やることに予想が付かない」
その工房は仰々しい灰色の塀に囲まれていた。
しかしそれは、開放的で明け透けなアグニアさんの趣味にはちょっと見えない。
「ははははっ、あのお姫さんには負けるでー。壁吹っ飛ばしたー、って聞いたときは酒吹き出したでーっ!」
「お茶じゃなくて、お酒なところがアグニアさんらしいね……」
その塀の内側には、ざっと30人くらいはバーベキューに呼べそうな庭園がある。
これもアグニアさんの趣味には到底見えなかった。
失礼かもしれないけど、彼女にしては趣味が優雅だ。
俺はたたずまいに兄上の関与を感じながらも彼女に導かれて、工房の玄関を抜ける。
するとなんとそこに、華やかな外側に反してあまりに無骨な作業場が現れた。
「なんだか、中の方が落ち着く」
「ははは! 外はどこかの見栄っ張りの趣味や!」
室内には万力とかドリルとかプレス機とか、一見ではよくわからない工作台や大型工具が並んでいる。
鉄と油が混じった独特の匂いもして、なんだかそれにホッとした。
好みはあるけど、俺はいい匂いだと思う。
「ほな、話合おか。ワインでええかー?」
「いや、その……朝からお酒はちょっと……。なんて自由な人なんだ……」
散らかった工房の、特に散らかったテーブル席に腰掛けた。
机というものは物であふれるのが自然だ。
片付けなど論外だ。
ワインボトルは必ず常備だ。
客人の前で平気で自分だけ酒を飲むのも可だ。
そういうアグニアさんなりの哲学かいま見せられながら、硫黄の蒸留について彼女と話し合った。
・
黄鉄鉱を粗く砕くことになった。
俺たちが欲しいのは硫黄だけで、黄鉄鉱を精錬して鉄を手に入れたいわけではない。
よって鉄の融点である1500度まで炉の温度を上げる必要はない。
黄鉄鉱は酸化鉄ではないので、還元のための木炭も必要ない。
そこで粗く砕く。
黄鉄鉱の表面積を上げて、硫黄が気化しやすい条件を作る。
1500度の炉から出た気体を、800度以下に冷やすのは大変だ。
けれど800度の炉から出た気体を、硫黄が液化するまで冷やすのならロスが少ない。
残った黄鉄鉱は産業廃棄物として処分する。
「水冷式やと、川の方に建てることになるなぁ?」
「そうだね。用水路の水を使うことも考えたけど、農家の人たちが納得しないと思う」
「硫黄ゆーたら、ふつーに毒やしな。ほな、建設用地は任せたで、領主様。うちはアリクはんのアイデアを元に、設計図を引いとくわ」
「わかった、今から探してくるよ」
「話早くてええな!」
「一応ここの代官だし、危険な施設だからね。用地は自分の目で確かめないと」
「せやな。アリクはんと組んで正解やったわ。毎日飲んだくれて暮らせるし、おまけにこないな物作れる。最高や!」
そう決まると、俺は蒸留装置の設計をアグニアさんに任せて、グリンリバーの川沿いに向かった。
川沿いの大通りと川は近い。
それは川沿いの製剤所で板を作り、工業区画でそれを加工するのが、古くよりのここの営みだったからだ。
大橋の騒がしい建設現場を左手に、工業区画の道を気ままにあるいた。
木工職人たちが陽気な挨拶をしてくれた。
アリク王子の橋建設のおかげで儲かっているって、木工職人たちは機嫌がとてもよかった。
さらに歩いて工業区画を抜けると、6歳くらいの女の子が無邪気に寄ってきた。
「あそぼー、ありくさまー!」
「え? あ、うん、少しならいいよ」
だけどそこにその子にお母さんが飛んできて、俺に頭を下げることになった。
階級社会の寂しさを感じた。
王子に転生して得をしたつもりだったけど、そうではない部分も多かった。
やがて川沿いの道までたどり着くと、建設中の大橋の方には向かわずに、反対側の北部へと歩く。
子供の気ままな足でゆっくりと進むと、小さな商店をちらほら見かけた。
「おや、アリク様。お散歩ですか?」
その辺りを歩いていると、商店のお兄さんに声をかけられた。
「あ、うん……」
「アリク様のおかげでうちも繁盛しています、ありがとうございます」
彼の店は舶来品を売る雑貨屋のようだ。
しかし大橋ができたら、この辺りは寂れることになる。
一応、アイギュストス側からの旅人がくるだろうけど、局所的な不景気に陥るだろう。
「でも、橋が完成したら……僕のことを恨みたくなるかもしれないよ?」
「客足のことですか? なら店を移せばいいだけのことですよ。殿下が気にすることはありません」
「そう……? なら、そうだな……。店を大橋側に移せるように、ここ一帯の商店に融資を――」
「アリク様、それは人が良すぎます。店を移せない商人は、淘汰されて当然かと」
「ううーん……そうかな? 政治って難しいよ……」
大橋が完成すれば、都の商会がこちらにこぞって支店を出すはずだ。
電球の白いに照らされた眠らない町が生まれれば、その動きはさらに加速する。
そこで地元商人が負け組になるような形には、俺はしたくない。
「これからもがんばって下さい、アリク様! 我ら緑川商人一同、殿下を応援していますので!」
「ありがとう、がんばるよ」
彼の意見ももっともだ。
けれど助成は必要だ。
俺が作った橋で、地元の人間が不幸になるのは避けたい。
だが問題は父上とジェイナスだ。
2人はいわゆる革新派だ。
こういう政策に予算を出してくれるか、どうもわからなかった。