・1年ぶりのグリンリバーにて - 事象・NTR -
あの懐かしい政務室に入ると、書斎机の辺りから兄上の残り香がした。
そこで自分には大きなその机に寄ってみると、その上に革張りのバインダーを見つけた。
応接テーブルに移動して、そのバインダーに目を通してみると、それは恐ろしく丁寧につづられた引き継ぎの書類だった。
「兄上はやっぱり凄いな……」
瞬間記憶スキルのある俺には、さっと目を通せば十分だった。
俺は護衛のトーマをそれに渡して、リアンヌと遊ぶ前に政務を片付けるとにした。
「何も到着早々に働く必要はないかと思うのですが……。そういったところはギルベルド様に似ておられますね」
「違うよ、兄上に影響されただけ。この書類から匂い立つ、出来る男の残り香にね」
必要な書類に自分の印を押して、詳細な指示が必要な案件には文をしたためた。
トーマは未決済の書類を仕訳したり、決済済みの物をまとめたり、必要な物には油紙巻いて封筒に入れてくれた。
「カナにはリアンヌ様と遊びに行くように指示しておきましょう」
「それがいいね、お願い」
「しかし見違えてしまいましたね。まさかあのオンボロ屋敷がこんなに立派になるとは」
「兄上からすれば、自分が滞在しやすいように手を入れさせただけだろうけどね」
言ってしまえばこの領主のお屋敷は以前の物とは別物。半分以上が兄上の命令で作り替えられていた。
いや建物だけじゃない。兄上は近隣の土地を買い上げて、ここの敷地を倍に広げた。
それは良い判断だと思う。
だってグリンリバーの土地の価値は、この先どんどん高まってゆくのだから。
トーマは仕分けを終えると、書類を持って政務室を出て行った。
ペンの滑る音、印を押す音、製鉄所からの遠い金音だけが耳に残る。
それから物音にふと窓辺に寄ると、リアンヌがカナちゃんを連れて屋敷を出て行く姿を見下ろせた見。
勘の鋭いリアンヌは俺の視線に気付いて、古くさい感情表現『あっかんべー』をこちらに送ってから、カナちゃんと笑いながら敷地を出て行く。
まともに管理もされていなかったあの庭園には、王太子の仮住まいに少しでもふさわしいようにと、果樹と花々が植えられ、今も艶やかに咲き誇っている。
離宮でもなじみの深い東屋も建てられている。
きっと兄上とアグニアさんは、あそこでイチャイチャしていたんだろうなと、空想が広がった。
「やっぱり一緒に行けばよかったかな……」
そうつぶやくと、トーマが政務室に戻ってきていた。
「寂しいなら、今から後を追っても遅くないかと思いますが?」
「ううん、こうしてトーマが一緒にいてくれるから大丈夫」
「光栄にございます、殿下」
「トーマ、いちいち床にひざまずかなくていいよ」
俺は3つ上の男装のお姉ちゃんの手を引っ張って立たせると、自分の仕事に戻った。
「昼食までに終わらせちゃおう」
「賢明かと。それ以上はリアンヌ様に外に引っ張り出されるのがオチかと」
だけど橋建設の労働者の書類やおふれだけは、この午前のうちに作ってしまいたい。
労働者がいなければなんにも出来ないんだから。
俺とトーマは仕事に集中した。
与えられた予算から雇う労働者人数、橋の工事日数を決めた。
労働者の半数は地元と近隣から集める。
もう半数は王都の建築ギルドを頼ろう。ギルドをハブるとそれはそれで、面倒なことになるし。
・
「ふぅ……っ、終わりましたね、殿下」
「兄上のおかげだよ。引き継ぎ作業がこんな簡単に終わるとは思わなかったな」
「あくまで書類上の、でございますがね。……おや?」
ノックの音が響き、トーマは剣に片手をかけながらその扉を開けた。
するとそこに懐かしい顔があった!
「ターニャさん!」
町長の娘さんのターニャさんだった。
1年合わないうちに凄く大人っぽくなっていてとても驚いた。
「殿下、お食事の準備ができました」
「え、ここで働いているの……?」
「はい、去年からずっと。当時はご迷惑をおかけしました」
「え、ええ……っ!? ど、どうしちゃったのっ、ターニャさんっ!?」
トーマは詳しい事情を知っているみたいだ。
それにトーマは明らかに、ターニャさんへ排除の姿勢を示していなかった。
「ターニャ様は少し大人になられたのです」
「どういうこと……? ていうか、トーマまでどうしちゃったの……? あんなにいがみ合ってたのに!」
なんか急に寂しくなった……。
俺が城に閉じ込められている間にターニャさんが大人になって、丁寧だけどよそよそしい言葉を使うようになった。
しかもその事情を知らないのは俺だけ。
……まあ、勝手なことして謹慎処分された、俺の自業自得だけど。
「あらためまして、この領主邸を任されているターニャと申します。『ギルベルド様』とアリク様に尽くせて私、光栄です」
俺の気のせいでなかったら今、兄上の名前だけ発音が強く張りがあったような……。
「……あの、ところで、ギルベルド様♪ の姿が見えないのですが、どちらに……?」
「殿下、そういうことにございます」
なるほど、うん、よくわかった……。
今ターニャさんは、俺ではなくギルベルド兄上にお熱なんだね。
だけどそうなると、ちょっと言いにくいな……。
「ギルベルド様は代官代理の役目を終え、王都に戻られた。残念だったな、ターニャ」
「そん……っ、な……っっ!! もうお戻りに、なられないのですか……っ!?」
気のせいかな、なんかムネがムズムズするや……。
この感覚……ギルド職員アリクだった頃に、感じたことがある……。
これは……これはそう……ネトラレによる傷心だ……!
一年振りに玉の輿狙いの町娘と出会ったら、その子のハートは既に兄上に奪われていた!
だからトーマはターニャさんに対する態度を変えたんだ……。
「頻度は落ちるけど、時々滞在はするんじゃないかな……」
ターニャさんではなく、アグニアさん目当てで……。
カナン王国の希望アリク王子は、齢10歳にしてネトラレのしょっぱい味わいを噛みしめた……。