・後日譚 - アリク王子9歳 -
反逆者トリスタン・ブルフォードは逃げた。
風色が悪くなったと気付くなり、この哀れなピエロは決起に加わってくれたかつての家臣たちすら見捨てて、ある日突然夜逃げした。
それはアリク王子9歳の誕生パーティを目前にした頃のことで、俺は俺に練兵所で訓練を付けてくれている兄上の口から教わった。
「ふっ、まあ夜逃げの手引きをしてやったのは、外でもない俺なのだがな」
「え……っ、あ痛っ?!」
「注意散漫だ。物理耐性があるからと気を抜くな。お前は自分のスキルに頼り過ぎる癖がある」
「ご、ごめんなさい、兄上……。でも、なんで……?」
兄上は俺によく笑ってくれるようになった。
それはグリンリバーという、共通の宝物が出来て、やっと俺たち兄弟がわかり合えたからだと思う。
「ヤツの反逆は国内どころか、国外諸侯も注目していた。ヤツという風見鶏が情勢の悪化に感付いて、尻尾を巻いて逃げた。これほどカナンの勝利を印象付けるのに有効な結末があるか?」
わざと逃亡を幇助するだなんて、自分にはとても思い付かない方法だ。
やっぱり兄上はこの国になくてはらない人だ。兄上こそが誰よりも王に相応しい人物だと思った。
「トリスタンを保護した他国が、彼を侵略戦争のカードにするって可能性も、あると思うけど……?」
「抜かりはない。そうはならぬように手を打った」
「え……。ぁ……そ、そう……」
兄上はトリスタン・ブルフォードのその後についてはそれ以上何も言わなかった。
何も言わないということは、そういうことなのだろう……。
重要なのは戦わずに逃げた、という事実だけ……。彼の末路は重要じゃない……。
「民を傷つけることなく、こうして鮮やかに勝利出来たのはお前の功績だ。お前の塩と鋼鉄とアオハガネが経済封鎖を破ったのだ。俺は誇らしいぞ」
「ふふっ、そこは兄上とアグニアさんのがんばりのおかげだよ」
アグニアさんの名前を出すと、兄上は眉をしかめて喉を低くうならせた。
アリク王子が謹慎を命じられて以来、兄上が正式にグリンリバーの現場を見てくれるようになった。
「僕が行けない分、時々でいいからこれからも兄上には、グリンリバーを見に行ってもらいたいんだけど、こんなわがままはダメかな……?」
「む……よかろう、この兄に任せておけ。俺とお前と……あのクソ女とで、グリンリバーを王都に負けぬ大都市にしよう」
兄上はなんだかんだ嬉しそうにそう答えて、それからアグニアさんのことを思い出したのか、小さく笑った。
これは少し前にジェイナスから聞き出したことだけど、鋼鉄に続いてアオハガネが国外諸侯に献上されることになると、彼らは次々と手のひらを返したり、中立をほのめかし始めた。
中にはウェルカヌスの交易商人を閉め出す国まで現れて、そういった国は積極的な貿易を求めてきた。
カナン王国は国々に塩と鉄の安定供給を約束する代わりに、大小の経済同盟を結んでもらった。
そこにトリスタン・ブルフォードの逃亡が加われば、もはやこの経済戦争に勝ったも同然だ。
「僕は二人を応援するから」
「な、何を勘違いしている……っ。あんな品も遠慮もない女に興味などないっ!」
「そう? 僕はとてもお似合いだと思うけど?」
「んな……っ?!」
「だった兄上みたいな立場の人は、自分の奥さんまで疑わなきゃいけない宿命にあるでしょ? その点、アグニアさんなら裏表なん――わぁぁっっ?!」
兄上は武力で反論をしてきて、俺はそれをもうじき9歳の身体でどうにかやり過ごした。
怒りか恥じらいか、顔を赤くする兄上の姿は新鮮で、それに親しみがいがあった。
「王太子殿下、出立の準備ができやしたぜ。それとアリク様、あんま兄貴をからかうもんじゃありやせんぜ?」
「僕はただ応援したいだけだよ」
「それが余計なお世話だ……っ!」
「だって僕としては、信用出来ない人を義理の姉にするより、アグニアさんの方がわかりやすくてずっといいもん」
練兵所に八草さんとカナちゃんがやってきた。
二人はそれぞれ馬の手綱を引いていて、カナちゃんは馬の首をやさしく撫でている。
あの日、八草さんは首を捧げる覚悟でこのお城に現れて、父上と母上に即座に許されて拍子抜けさせられて、そして公式にアリク王子の家臣として登用された。
ただアリク王子はこの通り謹慎中なので、それが明けるまでは、八草さんには兄上の護衛になってもらった。
「八草よ、道すがら俺の愚痴を聞いてくれ。まったくこの弟ときたら、見た目はこんなにかわいいのに、何から何までませていて困る……っ」
「ハハハ、俺の目には良い兄貴と弟に見えやすぜ。カナ、アリク殿下の見張りは任せたぜ。トーチャンいってくらぁ!」
八草さんはカナちゃんが連れてきた鹿毛の馬に。兄上はあの凄く速い葦毛の馬に飛び乗った。
どっちも馬にまたがる姿が凄くかっこよかった。
いつか俺もこんな男前になりたいって、低い自分の背丈から思った。
「いってらっしゃい、おとうさん。アリクさま、すこしだけ、じょうへきに、よってかえりたいです……」
「うん、いいよ。僕がカナちゃんの目になるよ」
「ぁ……っっ。うれしい、です……アリクさま……」
俺たちのやり取り聞いてか、八草さんは急に空を見上げて、それから馬を反転させると、鼻水をすするように鼻を鳴らした。
それを見た兄上は馬を歩かせて、八草さんの背中に手を置く。
「我が弟ながら、女ったらしですまんな」
「な、なんでもねぇですぜ、王太子様……っ! さあっ、行きやしょう!」
「うむ、頼りにしているぞ、八草」
「へいっ、王太子様っ!」
練兵所を出て行く二人を見送ると、俺はカナちゃんと一緒に城壁に上がった。
そしていつものように、鷹の目で見える城下町をカナちゃんに語ってあげた。
カナちゃんは想像の翼を広げて、どんななんでもない出来事も聞き入ってくれる。
特に犬とか猫とか、人々の生活の話が彼女はとても好きだった。
「たのしい……。まるで、この目が、みているかのよう……」
「よかった。僕もカナちゃんに城下の話をするの楽しいよ」
「でも……リアンヌさまに、もうしわけないです……」
え、急になんで?
「リアンヌもカナちゃんの味方だよ。僕がカナちゃんを助けようって思い立ったのも、リアンヌが先に、八草さんとカナちゃんを気にかけたからなんだ」
「ぁ……そうだったんですか……」
カナちゃんとリアンヌはまだ面識がない。
1日刻みで手紙のやり取りをしているけど、あっちは塩田開発の方が大変みたいだ。
稼ぎ時なのもあるけど、外向的にはカナン王国に味方してくれている国々に、少しでも多くの塩を提供しなければならなかった。
そんな忙しいリアンヌとやっと会えるのが、一週間後の俺の誕生会の日だった。
「なかよく、できるでしょうか……?」
「心配いらないよ。手紙でもカナちゃんに早く会ってみたいって何度も言ってたもん」
そう伝えてもカナちゃんの不安は消えなかった。
リアンヌは別に、俺に友達や侍女が増えても機嫌を損ねるような、ちっちゃい人間じゃないんだけどな……。
「さっきのことば……うれしかった、です……。おとうさん、ないてた……」
「ごめん、僕としては深い意味があって言ったんじゃないんだ……」
「わかってます……。でも、とっても、うれしかった……。うちも、アリク様の目になりたい……」
「ありがとう。こうして時々でいいなら、僕もいくらでも君の目になるよ。だって僕もカナちゃんの反応がとても楽しいから」
超感覚で近くは視えても遠くは見えない。
それを不幸に感じているようには見えないけど、でも遠くを見てみたいって気持ちをカナちゃんから感じた。
俺はその手助けを少しだけしてあげるだけだ。
「いつかこの謹慎が解けたら、一緒にアイギュストスに行こうよ。僕がカナちゃんに世界を語るから、カナちゃんは僕とトーマのサポートをお願いね」
「……リアンヌさまが、うちを、みとめてくださるなら……いってみたいです……」
「だから、リアンヌはそんなちっちゃいこと気にする人じゃないから大丈夫っ!」
そう主張してもカナちゃんが納得することはなかった。
「リアンヌさまが、うらやましい……」
楽しいこの遊びに満足すると、俺はカナちゃんと一緒に離宮に帰った。
あと一年、この生活を続ければ俺は公式に許される。
カナちゃんと一緒なら、一年くらいどうってことない気がしていた。