・言語能力を失った者に人権はない
その晩、残業続きで夕食もまだだった俺は、職場の階段を踏み外した。
バインダーの山を抱えて足下が見えなくなっているのに、無理をして1階に下りようとしたのが悪かった。
前回りに転げ落ちた俺は、階段の角に全身を激しく打ち付けた上に、最後は床に頭を強く打ち付けることになった。
「おいっ、何やってんだよ、この残業代泥棒っ!」
そこは冒険者ギルド・サザンクロスの本部だった。
2階が事務室で、1階が斡旋所をかねた酒場になっていた。
ギルドマスターのギムレットがその時、足で俺の身体を揺すってきたのを覚えている。
頭を打った途端に、なぜか全身から痛みが引いていったことも。
「おい、聞いてんのかよ、アリク! てめぇご主人様の言うことが聞けねぇのかよっ! さっさと立たねぇとクビにすんぞ! ――ん?」
「どうした、ギムレット?」
その当時、下にはまだ冒険者たちが残っていた。
大半の連中は俺の醜態を笑い飛ばした。
遅い時間まで酒場に残るような冒険者は、誰も彼もガラが悪くて苦手だった……。
「……この野郎、頭から血ぃ流してピクリともしねぇな……」
「それ、まずいだろ! おい、アリクッ、しっかりしろ!」
「ほっとけほっとけ、そのうち起き上がるだろ」
「はぁ!? アリクはお前の部下だろうがっっ!!」
俺はすぐに立ち上がって、仕事に戻らなくはならない。
少しでも早く終わらせて、速やかに帰宅しなければまた残業代泥棒と呼ばれる。
だけど身体が全く動かなくなっていた。
そんな俺を、ベテラン冒険者のレスター様が医者のところへと運ぼうとしてくれた。
彼の身体は、貧相で小柄な俺とは正反対だった。
彼は大きな背中で俺を抱えて街に出ると、治療を渋る町医者を叩き起こしてくれた。
「やれやれ……迷惑な患者だ……」
「いいから治療しろ! アリクが死んだらどうする!」
「しかしレスター様、うちは無償では――」
「彼には世話になっている。俺が払う」
真っ暗闇で何も見えない世界で、動かない舌で俺はレスター様に感謝した。
しかし恩返しは無理かもしれないと、その時は思った。
痛覚すら失っていた俺は、これから訪れる死の覚悟を決めなければならなかった。
・
あれほどの重傷を負ったのに、俺は一命を取り留めた。
たが深刻な後遺症が残ることになった。
「ごめんね、アリク。私、新しい彼氏が出来たの」
「ぅ……ぁ……」
「ギムレット様の息子さん、覚えてる? 私、彼と付き合うことになったの」
「ぅ、ぅぅ……」
「だからお見舞いにはもう来れない。さよなら、アリク」
「っ……ぁ、ぁぁぁぁ……」
言語能力を失った。
恋人のサーシャは、そんな俺に愛想を尽かして別の男に乗り換えた。
俺がギムレット様に紹介したから、彼女はギルドの職員になれた。
だのに彼女は、俺を踏み台にして出世していった。
赤毛のサーシャはどこか清々とした表情で、ベッドの俺を見下ろしていた。
その顔が突然に嬉しそうな笑みを浮かべたかと思えば、彼女は振り返らずに病室から去っていった。
「よう、さっきサーシャとすれ違ったが、なんか良いことあったのか?」
「……ぅ……ぁ」
レスター様は暇を見つけては看病に来てくれた。
あの町医者のところから、国営の大病院に俺を移してくれた。
筆談で彼に事情を伝えると、心を痛めてくれた。
「地獄に堕ちろ、あのクソ女っ!!」
「は、は……」
「気にするな、アリク、女なんていくらでもいる。身体が癒えたらまた見つけりゃいい」
彼の力になりたいと思った。
彼のためにギルドに戻り、花形である彼を支援したい。
「待ってるぜ、アリク。お前は優秀なギルド職員だ、早く傷を治して帰って来い。でないと、こっちは困る……」
俺は大きくうなずき、彼に微笑んだ。
職場でマスターとサーシャと顔を合わせるのは辛いが、彼のために仕事に戻りたい。
当時、そう思った。
・
約1ヶ月間の療養を終えると、俺は職場に戻った。
言語能力を失った俺は再査定され、給料を以前の7割に削られてしまった。
それでも俺は恩人のために、ギルドの仕事に打ち込んだ。
「お、アリクか! 帰って来てくれよかった!」
「レスターさんに聞いたぜ、喋れなくなっちまったんだって? ああ、無理すんなって!」
「サーシャはダメだ。あのアマ、貴重な素材をまた台無しにしやがった!」
『ぅ』とか『ぁ』としか答えられない俺を、冒険者たちが歓迎してくれた。
当人のサーシャは仕事を比較されて、かなり不機嫌だった。
「調子に乗らないことね。私がギムレット義父様にちょっと吹き込めば、あなたなんていつだってクビに出来るんだから、忘れないで?」
逆恨みまでされた。
それでも俺はレスター様や、頼ってくれる冒険者たちのために働いた。
「あ、私今日は食事の約束だから、残りの仕事お願い。それじゃあね」
サーシャが俺に残業を押し付けて、恋人と高級レストランに出かけても、恩人のために身を粉にして働いた。
だが世の中にいるのは、言語能力を失った者に善意を向ける人ばかりではなかった。
ギルドに戻って2ヶ月ほどが経ったある日、大事件が起きた。
・
「口無しのアリクだな? 補助金の不正流用の疑いでお前を逮捕する。3分以内に身支度を済ませろ」
そう、当時の俺は格好の身代わり人形だった。
筆談でしか自己弁護が出来ないやつに、誰かがあらぬ罪を擦り付けた。
俺は逮捕され、裁判で裁かれることになった。
口が利けなければ、糾弾する検事に反論すら出来なかった。
筆談は全て無視された。
キルゴールという名の検事は、口無しのアリクを死罪にすべしと求刑した。
「被告アリクに3年間の労役を命じる。汚職は死罪であるが、この件には疑わしい部分が多い」
だが裁判長は俺に同情をしてくれた。
障害を抱える者に罪を擦り付けることは、司法の世界では珍しくもないのかもしれない。
裁判が終わるとただちに競売が行われ、俺は郊外の奴隷農園で強制労働させられることになった。
・
奴隷農園暮らしは、一言で表現すれば抑圧の日々だった。
監視たちが奴隷に目を光らせ、必要とあらば脅しや鞭を振るった。
しかし皮肉なことに、ギルドで働いていた頃よりは労働時間が短く、責任もなく気楽なものだった。
1日にたった11時間働くだけで仕事から解放してもらえるなんて、奴隷も悪くない。
「ん……この前渡した服はどうした? と……ら……れ……取られただとぉっっ?!」
親しい冒険者たちや、レスター様がたまに訪ねて来てくれた。
誰も俺が汚職に加わったなんて信じていなかった。
筆談で差し入れの服を奪われた事実を伝えると、自分のことのようにレスター様は怒った。
ただそれだけで救われた。
「頭に来たぜ……。世の中の連中、お前のことをなんだと思ってやがんだ!! 言葉が喋れないからって、やりたい放題かよぉっ!!」
言語能力を失うことは、死よりも恐ろしい。
当時の俺は、悪人たちからすれば格好のカモだった。
「アリク……あと3年だけ我慢しろ……。お前の【ギルド職員スキル】を重宝する冒険者は多い……。お、そうだ……!」
レスター様は何かを思い付いた。
拳で手のひらを叩いて、俺の耳元に口を寄せた。
「3年経ったら俺たちと一緒に独立しよう! サザンクロス・ギルドはもうダメだ!」
その誘いに俺は乗った。
3年我慢した先に希望があるなら、それに乗らないわけがなかった。
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なろうでは不利な転生ジャンルですが、やっぱりこのジャンルが好きなので始めてみました。
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本日は5話、明日、明後日は3話、以降1話投稿で続けてゆきます。
8万字でスッキリできるオチまで楽しめます。