お嫁さんの秘め事
夫婦生活が長続きする秘訣とは、何だろうか? 結婚する時、会社の先輩(既婚者)に尋ねたことがある。
その時先輩は、「互いに詮索しすぎないことだ」と言っていた。
人は誰しも秘密を抱えているし、それ故に世の中には知らない方が幸せなことも存在する。
同僚間や友人間だけでなく、夫婦間においてもその定義は成り立つわけであって。だからたとえ結婚しているからと言って、全てを知ろうとするのはタブーなのだ。
「相手の全てを知っているわけじゃない。だけど相手のことを、誰よりも知っている。それで良いじゃないか」
先輩は、そうも言っていた。
俺・三浦潤は先輩の話を聞いて、成る程なと思った。
確かに世の中には知らない方が良いこともあって、知らないが故に関係が長続きすることもある。
「実は先輩の奥さんがグラドルだった時代の切り抜き、今でも保管しているんですよね」なんてカミングアウトしたら、先輩との関係は断たれてしまうだろう。
全てを知ろうとするな。でも、世界で一番相手のことを知っている人間であり続けろ。
俺は日々その教訓を胸に、結婚生活を送っている。
だけどさ、だけどさ!
大好きなお嫁さんのことを全部知りたいと思うのは、おかしなことだろうか?
日曜日。
この日は会社が休みだったので、俺は自宅で映画を観て過ごしていた。
映画が佳境に入ったところで、嫁の六花が話しかけてくる。
「買い物に行ってくるけど、何か食べたいものある?」
「ん? 買い物なら、俺も一緒に行くけど? 荷物持ちが必要だろ?」
「気遣いありがとう。でも、大丈夫よ。今日はそんなに買い込むつもりないから」
大丈夫と言うのなら、無理矢理ついていく必要もない。俺はお言葉に甘えて、家でのんびりさせて貰うことにした。
「それじゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい。気を付けろよ」
六花を見送った俺は、その足でキッチンに向かった。
冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出すと、コップに並々注ぐ。
甘党なので、ガムシロップも忘れずに、だ。
キッチンからリビングに戻る途中で、ふと「それ」は視界に入ってきた。
「これは……」
俺が手に取った「それ」の正体は――財布だった。
……ちょっと待てよ。どうしてここに、財布が置いてあるんだ?
俺は冷静になって、現状を整理する。
六花は買い物に行った。買い物ということは、金銭の授受が発生する筈だ。それは小学生でもわかる常識。
俺は財布の中身を除いてみる。
財布の中には現金が3万円程と、クレジットカードやポイントカード諸々が入っている。
どうやら別の財布を持って行ったとか、そういうことはなさそうだ。
もしかして、単に財布を忘れていったとか?
……いや、しっかり者の六花に限って、それは考えにくいな。
学生時代の六花を知っているわけだけど、彼女が忘れ物をしたところなんて一度も見たことがない。
そうなると、あと考えられる可能性は……買い物に行っていない?
「買い物に行く」というのは口実で、実際は全く別の場所に行っている? 例えば、近所の公園とか。
だとすれば、財布を持って行かなかったことにも説明がつく。
しかしそうなると、新たな疑問が発生するわけで。
どうして六花は「買い物に行く」だなんて嘘をついたのだろうか? 本当の目的を言えない理由でもあるのだろうか?
真っ先に思い浮かんだのは、「浮気」の2文字だ。
……まさか、な。六花に限って、そんなことないよな?
「ハハハ。ハハハハハハ」
渇いた笑い声が、部屋の中に響く。
俺のお嫁さんは、一体どこに行っているのだろうか?
◇
次の休みの日も、六花は俺を置いて買い物に出掛けた。
キッチンを見ると、案の定財布を忘れていっている。……つまり買い物に行くというのは嘘だということだ。
「……よし」
俺は観ていた映画を停止する。
今は映画の展開よりも、お嫁さんの行き先の方がずっと気になる。
俺は服装をジャージに着替えて、伊達メガネをかけ、その上帽子までも被る。
完全変装をした状態で、六花を追って家を出た。
家を出た六花の跡をつける。
彼女は暫くはスーパーマーケットに向かって歩いていたが、公園の前を通り過ぎようとしたところで、突然足を止めた。
「……ん? どうしたんだ?」
そして何か思い立ったように、公園の中に入っていった。
やはり買い物に行くというのは方便で、真の目的は公園にあったというのか。……でも、何で公園?
子供じゃあるまいし、遊具で遊びたいというのはないだろう。リストラされたサラリーマンみたいに時間潰しっていうのも考えにくい。
予想も出来ない俺が、気付かれないようにそーっと公園の中を覗くと……六花は近所の奥様方と、談笑をしていた。
一頻り会話を終えた六花は、奥様方に別れを告げ、公園を出ていく。
これで目的を達成したので、帰宅……というわけではなく、今度こそきちんとスーパーに向かっていた。
「あら、今日は挽き肉が安いわね。夕食はハンバーグにでもしようかしら」
そう言いながら、ハンバーグの材料を次々とカゴの中に入れていく。
……今のところ、普通に買い物をしている。おかしな様子はない。
会計時、六花は鞄をあさりながら、「あっ」と声を漏らす。財布を忘れたことに気が付いたのだ。
「すみません。スマホ決済でお願いします」
成る程、スマホ決済か。
確かにそれなら、財布は要らないな。
この日六花をつけてみて、わかったことがある。
六花は浮気をしていない。そして、俺に嘘をついていないということだ。
しかし自分のお嫁さんを疑うのは、気分が良くないな。金輪際、六花を疑うのはやめるとしよう。
◇
週が明けて、月曜日。
12時を回り、昼休みに入ったので、俺は先輩と社外へランチに出掛けた。
行きつけのパスタ屋さんで注文を終えた俺たちが雑談をしていると、よく知る人物が店内に入ってきた。――言うまでもなく、六花である。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」
「2人です」
六花が店員に答えたように、彼女の後ろにはもう一人立っている。
黒い帽子に黒いサングラス、そして明らかに大きすぎる黒いジャージ。怪しさ満載の人間だった。
謎の人物の正体はわからない。性別すら不明だ。
六花たちは俺たちとは少し離れた席に案内されたので、二人の会話内容まで聞き取ることは出来なかった。
……しかし、何やら楽しそうに話しているな。
六花のあんな表情は、俺を含め家族くらいにしか見せたことがない筈だ。
見ず知らずの人間に向けられているのだと思うと、なんだかモヤモヤしてしまう。
「おい、三浦。どうかしたのか?」
嫉妬が顔に出ていたのか、先輩が尋ねてくる。
「いえ、その……実はあそこにいるの、妻でして」
「念の為確認するが、ジャージじゃない方だよな? 凄え美人じゃないか」
「……まぁ」
お嫁さんを美人と言われて、喜ばない夫はいない。口元が緩むのが、自分でもわかった。
「友人と食事……なのか? それにしては相手方の格好が不自然だな」
「先輩もそう思いますか? それに六花……妻は今日俺に、「どこにも出掛けない」って言っていたんですよ。勿論、急に予定が入った可能性もありますが……」
「あの謎のジャージと会うのを秘密にしていた可能性もあると?」
俺は頷いて、先輩に応えた。
それでは六花は、どうして謎のジャージと会うことを隠していたのか? その答えは……
「浮気だな」
俺が敢えて考えないようにしていた可能性を、先輩は無惨にも口にする。
思えば、分不相応だったのだ。俺みたいな何の取り柄もない男が、六花みたいな良い女をお嫁さんにするなんて。
いつかは愛想を尽かす日がくるんじゃないかと、心のどこかではわかっていた。
だからショックを受けると同時に、納得している自分もいるわけで。
俺が考え込んでいると、先輩が「おっ」と声を上げる。
「謎のジャージがお前の嫁さんに金を渡しているぞ?」
「貢いでるってことですか」
「かもしれないな」
様々な情報を踏まえて考えると、やはり浮気の線が濃厚なのかもしれない。
もし本当に浮気だったら、俺はどうするべきだろうか? 六花の幸せを思うなら、身を引いた方が良いのか?
……って、待て待て。まだ浮気だと確定したわけじゃないだろう。
取り敢えず、浮気ではないという僅かな可能性を信じて、今夜六花を問いただしてみるとしよう。
◇
その日の夜。
「ただいまー」
「おかえりなさい。……って、それどうしたの?」
六花は俺の持つ小箱を指差しながら尋ねてくる。
「たまにはケーキでも食べようと思って」
嘘だ。本当は浮気の件を少しでも聞きやすくするために、ケーキを買ってきたに過ぎない。
「そうなの。ありがとう。……ご飯の支度をしておくから、お風呂に入って来ちゃって」
「おう」
いつもは烏の行水だけど、この日だけは長めに湯船に浸かっていた。
少しでも、浮気を追及する時間を遅らせたい。そんな女々しさからきた行動である。
お風呂から上がった俺は、六花に「ちょっと座ってくれ」と伝える。
「そんなに改まって、何よ?」
「六花……今日の昼、どこにいた?」
「……え?」
俺は六花の表情の変化に注目していた。
だから彼女が一瞬動揺したのを、見逃さなかった。
「俺も昼間、あのパスタ屋さんにいたんだ。そしたら六花が、知らない人と入ってきて……」
「……そう、見られちゃったの」
六花は下手に言い訳したりせず、素直に自白した。
……何でだよ。「私じゃない」とか、もうちょっと抵抗してくれよ。
これじゃあまるで……俺に未練なんてないって言われているようなものじゃないか。
「……そんなにそいつのことが好きなのか?」
気付くと俺は、聞く必要のないことまで尋ねていた。
そんなこと、知らなくて良い。知らない方が、幸せでいられる。
頭ではわかっていても、止まらなかった。
「そりゃあ、好きだけど?」
「俺よりも?」
「あなたとどっちが大切かなんて、選べないわ。両方とも、同じくらい大切よ」
「そんなの、俺にも相手にも失礼だろ! あの男のことが好きなら、はっきりそう言えよ! あいつと一緒になりたいって言ってくれよ!」
俺は声を荒げる。それは精一杯の強がりだった。
「……え? ちょっと待って。……あの「男」?」
六花は俺に静止をかける。
少し考え込んだ後、「あー、そういうこと」と何やら一人で納得していた。
「もしかして……私が浮気していると勘違いしてる?」
「……違うのか?」
「違うわよ」
「じゃあ、昼間一緒にいた人間は?」
「あれは姉さんよ」
……マジか。
ジャージ姿のあの人物は、義姉さん(六花からしたら実姉)だったのかよ。
「義姉さんなら、どうしてあんなに怪しい格好を?」
「姉さんの仕事、忘れたの?」
「……あっ」
そういえば、義姉さんは女優なんだった。
プライベートで外に出る時は、変装は必須だと言っていたっけ。
「お金を受け取っていたよな? あれって、つまり……」
「たまにはこれで美味しいもの食べなさいって、渡されたのよ。私は要らないって言ったんだけど、無理矢理押し付けられちゃって」
……何だよ。不安に思って、損したじゃないか。
結局お嫁さんは浮気なんてしていなかったし、秘密もなかったというわけか。
「第一、私はあなたのことが大好きなのよ? 浮気なんてするわけないじゃない」
その言葉、そのままそっくり返すとするよ。
「しかし、昼間はびっくりしたな。まさかお嫁さんに、秘密でもあるのかと思ってさ」
「秘密? ……あぁ、それならあるわよ」
「えっ? あるのか?」
「私だって人間だもの。秘密の一つや二つくらい持っているっての」
「……因みに、その秘密を教えて貰うっていうのは?」
「ダメよ。内緒なんだから」
唇に人差し指を当てながら、六花は微笑む。
実はお嫁さんの鍵付きの机に、俺への愛をめいっぱい綴った日記があるのだが……この先俺が、その秘密を知ることはなかった。