ふるさと
◆ ◆ ◆
通学路を右に曲がり、しばらく直線が続く。
刈り取り直前の田んぼにはたっぷりと実をつけた稲穂が揺れ、青い空と緑の山々と共に里山の風景を描き出していた。
田んぼの真ん中を道は走る。
道の左右には等間隔で石の燈籠が並べられている。
カエルが飛び跳ね、足元を横切る。
水が流れる音。
用水路を覗けば、メダカくらいいるかもしれない。運がよければタガメが捕まえられる。
しかし、今のよしあきにとって、タガメなんぞ祖母が作る大根煮ほどの価値も無く、ただ稲穂を走る道の先にだけ用があった。
緑と金色の景色に赤が走る。
綺麗な朱色に染められた鳥居であった。
田舎町にはもったいないその堂々とした出で立ちに、信仰深い人たちは敬服と感謝の念を送り、「ありがたやありがたや」と手をこするが、よしあきにとってみれば給食の切り干し大根
くらいどうでも良いことだ。
石畳の階段を登る。
鳥居の横には『命綴神社』と彫られた石碑が置かれている。
鳥居をくぐり、境内へ。
赤い燈籠が左右対称に二つ。右手には手水舎があり、ちょろちょろと水を流している。
目の前には拝殿。
暗めの茶色の屋根。それとは反対にとても明るい朱色と白の壁。
きちんと手入れされているのか、やや老朽化した今でも神々しさを保っている。
だが、その拝殿に見向きもせず、よしあきは周囲を見回す。
「めー姉?」
声を出して呼んでみる。
その声はやや抑え目だ。
だが、彼女の耳にはちゃんと届いている。
「おー、よしあき。また、来よったん?」
見れば、鳥居の上に少女が座っている。
稲穂のような金色の長い髪。シミ一つない肌。衣服として白い布を纏っている。首には犬、蛇、蝙蝠を模った飾りを下げている。
年頃は中学生くらいだろうか。
だが、今年の春に小学校に入ったよしあきにしてみれば、十分姉と呼ぶに足る年齢だった。
それに、この少女には色々とお世話になっている。
その辺の畏敬の念も込めて、よしあきは彼女をめー姉と呼ぶ。
ただ単純に本当の名前が長くて覚えられないのもあるが。
「ほいっと」
少女はふわりと鳥居から降り、拝殿の回廊に降り立つ。
ぽんぽんと自分の横を叩き、座れという意志をよしあきに伝える。
よしあきは少しうつむき加減で、拝殿まで歩く。
少女はどこからともなく、べっこう飴を取り出し、よしあきに差し出す。
「いらねえ」
「食べよ、元気でるよ?」
少女は包み紙をはがし、べっこう飴をよしあきの手にのせる
よしあきが仏頂面ながらも、口に入れたことを確認し、自分も飴を口の中に放り込む。
「んー、うまいなー。しんっけんうまいなー」
幸せそうに飴を転がす少女を見ながら、よしあきはため息をつく。
「いいよなー、めー姉は……」
「ん? どした?」
「めー姉は、神様なんやろ?」
「そうよ。これでも偉い神様なんやけん」
「神様ってどんな仕事するん?」
「んー、いざ聞かれると困るなー」
ころころとめ少女は口の中で飴を転がしながら、遠くを見る。
少女はときどき、こういうまじめな顔をする。
その目線はどこか大人びていて、普段の太陽のような笑顔を見慣れているよしあきはこの顔にドキッとしてしまう。
ぷにぷにと動くほっぺたが無ければさらによかったのにと、よしあきは思う。
「……変わらんことかな」
「へ?」
「神様の仕事はずっと変わらんでいることよ」
「それって、何にも仕事してないやん」
「そうずばり言われると傷つくなー」
べっこう飴が溶け、尖った先がよしあきのほほに刺さる。
舌を使い、べっこう飴の位置を変える。
「もっとちゃんと働かないとダメやろ。今じゃ、国際化が進んで田舎でものんびりしてられん時代やもん。もっと生産的なことせんと、時代に取り残されるぜ」
「うわ、神様なのに小学生に説教された!」
少女は大げさに驚き、ムンクの『叫び』のように耳を塞ぎながら、身をくねらせた。
「神主とか坊さんだって金儲け考えなきゃ生きていけんのやで。賽銭投げてもらうためにイベント考えちょんのや。それに比べてめー姉は……」
「ああっ、冷たい現実が突き刺さるー!」
しばらく、よしあきは少女をいじって遊んだ。
少女も心得たもので、よしあきの言葉にいちいち大げさにリアクションを取ってやる。身をよじり、苦しむように地面を転がる。
べっこう飴もすっかり舐め食べてしまった頃、ようやく少女は拝殿に戻ってきた。
不思議なことにその服にはまったく汚れはない。
肩を寄せ、よしあきの頭を撫でる。
「まあ、あれやな。素直に謝った方が勝ちやでー」
その言葉によしあきは唇を突き出す。
「なんの話?」
「大方、ひろのぶとケンカでもしたんやろ? 原因はなん?」
「……なんでわかるん?」
「おでこにバンソーコー張って、トボトボここに来る理由なんかそんなもんやろ」
額に張られた絆創膏をかくよしあき。
ちらっと目を逸らし、
「……だって、あいつ俺のことバカにするんやもん。給食の大根残したのバカにされたんやもん」
「何言うちょんの。そんなことでひろのぶと遊べなくなっていいん? こういうときは先に謝った方が格好ええんよ」
「……そう?」
「意地っ張りなんやいいけど、やりすぎると格好悪いんよ。みんなの前でちゃんとごめんなさいって言える方がいいやん。それによしあきはいい子やもん。ちゃんと謝れるに決まっとるや
ん」
「……そうかな?」
「だって、よしあきはウチが見えるやん。神様は純粋な子にしか見えんのよ」
風が流れる。
ふわりと金色と黒い髪が揺れ、よしあきのほほを冷ましていく。
「めー姉は……」
「ん?」
「……めー姉もそういう奴の方が好き? ちゃんと謝れる奴の方がいい?」
そっぽを向きながら、よしあきは問う。
風に冷まされたほほはあっという間に、熱を帯び、赤く染まる。
その様子を見ながら、少女は微笑む。
遊ぶことばかりしていたよしあき。
だが、いつまでも子どもではないのだ。
人は成長していく。
大人も神様も知らないところで。
「そーやなー。悪いことをしたと思ったら、ちゃんと謝れる子の方が好きやな」
「……そう」
少しの間、二人の間に音は消えた。
ちょろちょろと流れ出る水の音。稲穂を揺らす風の音。遠くから聞こえる牛の鳴き声。コンバインの音。
この瞬間だけは、時が止まっていて、地球も回るのを止めていた。
こそばゆいような感覚だけが、今生きていると証明してくれる。
「のぶひろに謝ってくる」
よしあきは拝殿の回廊から降り、参道へ向かう。
少女はそれを笑顔で見送る。
鳥居のとこまで来たところで、よしあきは振り返りぶんぶんと手を振る。
それを見て、少女も手を振り返す。
「またなー」
「うん」
よしあきは参道を進む。
ちょうど真ん中らへんまで来たところで、神社を振り返る。
少女の姿はもう見えない。
足を止めて、しばし神社を見つめるよしあき。
少女の励ましの言葉が蘇る。
「っ〜〜〜〜〜」
恥ずかしくなり、走り出す。
まだひろのぶは小学校にいるだろうか。
◆ ◆ ◆
小学校を卒業し、よしあきは市立の中学校に入った。そのまま高校生になり、大学受験をした。合格した大学は地方の国立大学の理学部で、よしあきはテニスサークルに入り、建築の勉強をした。大学三年に上がる際に留年し、建築関係の会社に就職できた時にはよしあきは24歳だった。
「はいっ。はいっ。そうです。はいっ。そこはこちらに任せて頂いて結構です。はいっ」
長川建設の係長、新崎義明は電話口に向かいしきりに頭を下げている。
その声は不自然なほど明るく上ずっている。
今年で32歳。
大学を出るまではそれなりに鍛えられていた身体は、ストレスと仕事の付き合いで肥満体形になっていた。
髪の毛もやや薄くなり、外回りの影響か肌は黒ずみ、しみが浮かんでいる。
白いワイシャツの袖と襟は黄色い汚れがつき、汗で透けている。
大き目のメガネはしばらく拭いていないのか、汚れが浮かんでいた。
「はいっ。それでは、またご連絡しますっ」
電話の受話器からぶつんと、回線を切られた音がする。
それを聞いてから義明は受話器を置いた。
机の上に置いてあるタオルで首や顔を拭く。
冷房のさほど効いていない室内。
省エネだのクールビズだの言えば聞こえはいいが、これはただの経費削減であると義明は思っている。
本当にクールビズに取り組んでいるというならば、顧客と会うときも軽装でいていいはずだ。
だが実際には応接室だけは冷房が効かされているし、外回りに出る際には上着にネクタイは必ず付けろと言われている。
省エネとお客様を不快にさせない格好。この二つの両立が難しいのはわかるが、どこか矛盾していると義明には感じられてならない。
だが、社内でそんなことは口に出さない。
出してはならない。
「ふっー」
息を吐き、義明は背もたれにもたれかかる。
ギシッとイスが鳴る。
缶ジュースに手を伸ばすが、すでにぬるくなっていた。
それを感じて、義明はジュースから手を離す。
「新崎係長」
「ん〜」
身体を起こす。
部下の宮園が書類片手に立っていた。
ワイシャツをはだけさせ、袖を捲り上げている。
額には汗が浮かび、目の下には薄くクマが浮かんでいる。
「木田さんへの資料はこれでよろしいですか?」
書類を手渡す宮園。
義明は左手を伸ばし、ぞんざいにそれを受け取る。
ざっと目を通す。
宮園は拳を握り、上司の言葉を待つ。
「バカッ、なんだこれは!」
義明は書類を机に叩き付けた。
宮園は驚いたように、一瞬身を引いた。
「で、でも以前係長はこの形式でいいと……」
「以前と同じでいい訳ないだろ! この仕事何年やってんだよ! もっと相手の気持ちになって考えろ!」
宮園の言葉を一蹴して、義明は書類を突き返す。
「……はい。わかりました」
宮園は力なくそれを受け取り、背を向ける。
薄く涙ぐんでいたようにも見える。
「おいっ! 都丸さんとこへあいさつには行ったのか!?」
追い討ちをかけるように義明は、宮園の曲がった背に言葉をかける。
「これから行こうと……」
「早く行け! あそこは午後から忙しくなるんだから!」
「わかりましたっ!」
宮園は叫ぶように言うと机を叩くように書類を置く。
カバンを持ち上げる宮園に義明はこう言った。
「上着とネクタイ、忘れるなよ」
◆ ◆ ◆
昼を近くの定食屋ですませ、義明は事務所に戻ってきた。
休み時間とはいえ、特にすることもないので、今朝に読んだ経済新聞を斜め読みする。
すると、机の携帯電話が振動する。
相手は妻からだ。
「もしもし」
新聞から目を離さず、片手を伸ばし電話に出る義明。
「ああ、あなた?」
「どうした?」
「どうしたって、明日の予定決まったの?」
「何の話だよ」
「何のって、明日は高志の入園式でしょ」
「ああ、そのことか」
「仕事抜けれそう? 高志あなたが来てくれるって、はしゃいでるんだから」
「大丈夫だよ。なんとかするから」
「本当に大丈夫?」
「仕事が入っても部下に押し付けるから」
「それじゃ、部下の方が可哀想よ」
「とにかくなんとかするから。用事はそれだけか?」
「ええ、それじゃよろしくね」
返事は返さず、義明は電話を切った。
机に携帯を放り、再び新聞を読み始める。
大して興味の無い芸能欄まで来たところで、再び携帯が震えた。
「電話が良くなる日だな……」
相手を確認する。
丸島浩伸。
「もしもし、新崎です」
「ああ、義明か?」
小学時代からの付き合いである浩伸とは、今でも交流がある。
浩伸は大学で経営学を学び、今では大手スーパーをあちこちに立てている。
どちらが経済的に成功しているかは、義明は考えないようにしている。
「なあ、明日辺り会えないか? 仕事の相談なんだが」
「明日? 明日は難しいな」
子どもが幼稚園に入学するとは言わなかった。
「そこを何とか頼むよ。実は、またうちの新しい店舗を建てる予定なんだが、そっちの会社を使ってもらえそうなんだ」
バサッと義明は新聞を置いた。
「うまく行けばさ、かなりの利益が出ると思うぜ」
「その話、本当か?」
「ああ。お前の所も色々厳しいと思って、手を回してやったんだぜ。頭の固い上司を言いくるめるのには苦労したよ」
義明は両手を携帯に添えた。
一言も聞き逃さないように、耳に押し付ける。
「だからさ、早いとこ話をつけちまいたいわけ。さっさと契約を取り付けちまえば、上もグチグチ言わないだろうしさ」
「わかった。明日だな」
「ああ、昼頃うちの方に来てくれ」
「わかった」
「それじゃな」
浩伸からの連絡を終えた後、しばらく義明は拳を握っていた。
「よしっ、よしっ!」
一人、興奮してガッツポーズを取る。
社長にこのことを伝えようと電話に手を伸ばす。
入園式のことなど、もうすっかり忘れていた。
◆ ◆ ◆
浩伸の会社に足を運ぶ。
この事を話したときには、妻に散々責められたが、「どうしても外せない仕事だから」と言って逃げるように家を出てきた。
これも全て家族を養うためだと義明は自分に言い聞かせる。
受付に話を通し、応接室に通される。
パリッとしたスーツを着こなした浩伸が現れ、テキパキと事業について説明していく。
だが、その建設予定地を聞いて、義明は驚いた。
「えっ? そこって?」
「ああ、子どもの頃俺たちが住んでいた場所だな」
浩伸はさほど気にしている様子は無い。むしろ、自分の手で昔住んでいた場所を変えることができることを誇っているように見える。
だが、そのスーパーの立つ場所には、あの神社も含まれていることを確認すると、義明は気が気ではなくなった。
「待てよ! この建設予定地だと、あの神社も取り壊さなきゃならないじゃないか」
「神社? 神社なんかあったけな?」
あっけらかんと浩伸は言ってのける。
もはや、記憶の中には昔遊んだ神社など無いようだ。
「うーん、あったような気もするな。だが、心配ないだろ。地元の人から特に反対もでないさ。あの辺りで祭りとか行われているなんて聞かないから」
「だけど、あそこには――」
言いかけて、義明は言葉を詰まらせる。
あそこには神様がいるから取り壊すのはまずい、なんて言えなかった。
そんな事、浩伸に言える訳がなかった。
もともと浩伸は、めー姉の事が見えない人間だった。
大人になった今でも神やら幽霊やらはまったく信じない性質だ。
それに、義明自身あの子どもの頃の記憶は夢か何かのように思ってしまっている。
本当は、神社の娘さんとか近所の女の子と会っていただけではないのか。神様なんてのは子どもをからかう方便だったのではないのか。
子どもの妄想力が作り上げた綺麗なオモイデではないのか。
そんな風に、今の義明は考えるようになってしまった。
「気になるなら、視察してこいよ」
こともなげに浩伸は言ってみせる。
こういった言い方をされるたびに、義明は浩伸に突き放されているように感じてしまう。
「なにか問題があれば、教えてくれよ」
浩伸の言葉は暗に『文句をつけるなら、この話は無しだ』と言われているようで、義明にはこれ以上何も言えなかった。
◆ ◆ ◆
休日、義明は本当に視察に向かった。
仕事をきちんとこなさなければという義務感が半分、どこか遠くへ行ってしまいたいという思い半分で義明は電車の切符を買った。
同時に、故郷に帰るような高揚感も感じていた。
今住んでいる街とはまったく別の、何もにも侵されていない純粋な町。
風がほほを撫で、川が流れ、虫たちの演奏が聴ける町。
そんな理想郷のような世界を義明は、あり得ないと思いながらも心待ちにし、電車に乗ったのだ。
駅に着き驚いた。
田畑の広がっていた場所にはカラオケボックスやパチンコ屋に変わり。居酒屋が軒を並べていた。
土肌の道はコンクリートで舗装され、バスやタクシーがしきりに行き来している。
空には電線が張り巡らされ、それに止まる鳩ばかりが目に付いた。
義明は地図を頼りに道を歩く。
記憶を辿ることはもうできなかった。
かつて通った小学校は、アスペストの関係ですっかり改装され、かつての面影は見出せない。
そこらじゅうを走っていた水路は、コンクリートの河川に統合され、苔や水草ばかりが身を揺らせていた。
野良犬も見かけなくなり、首輪をつけた毛並みの良い犬が庭でうたたねをしているだけだった。
もはや、義明の知っていた街はここには無かった。
義明が十数年過ごした街は、今はベットタウンとして姿を変えていた。
家々に遮られ風は流れない。サワサワと穏やかな演奏をする草木も虫たちもいない。
道端に咲くつくしやたんぽぽの群れも、甘い蜜をたたえた野花もない。
聞こえてくる音は車の走る音。立ち話の声。信号のちんぷなとおりゃんせ。
空気すらよどみ、肺を犯すようだ。
じりじりと焼け付くような太陽を浴び、舗装された道路は陽炎を生む。
地面にこもった熱を感じながら、義明は諦めにも似た気持ちを抱く。
これが現実だと自分に言い聞かせる。
何もかも、残酷に変わっていく。
人も街も世界さえも。
変わらないものなど何も無い。
あるとすれば、死ぬことだけ。
この巨大なうねりのような時代の中、自分は溺れながら死ぬのだろう。
――いっそ、首を吊ってしまおうか。
その時、義明の目に朱色が走る。
慌ててそちらを向き、目を開く。
義明は走りだした。
住宅の平原を抜け、電柱の林をくぐり、車の森を越えた。
唯一つ変わらないものを求めて。
「はぁっ、はあっ はっ……」
随分と体力が落ちたと思う。
たかだか、数十メートルだかを走っただけで、心臓が高鳴り、肺が酸素を求める。
結局、最後の方はよろよろと歩く様を晒した。
だが、
「あった……」
それはオンボロの神社だった。
ボロ過ぎてお化けが出ると噂さえ立つことのできないだろう。
朱色の鳥居は塗装が剥げ、石の肌を晒している。
参道に並べられていたはずの燈籠はどこかへ消えてしまっていた。
階段は記憶にあるものよりははるかに短くなっており、手水舎は使われなくなって久しいようで、排水溝に枯れ葉がたまっていた。
拝殿もボロボロで、瓦がところどころ足りず、壁に穴が空いていた。
周囲を囲んでいた鎮守の森は一本残らず伐採され、代わりにビルに囲まれていた。
それでも、ここにあった。
『命綴神社』はこの街にあった。
◆ ◆ ◆
義明は境内に足を踏み入れる。
石畳には落ち葉が積もり、うっかり滑ってしまいそうだ。
拝殿の回廊に近づく。
酸化の進んだ気はカラカラに乾き、座るとギシッと音を鳴らす。
以前はここから、朱色の鳥居と山々の緑、金色の稲穂が見えた。
だが、今は数メートル先の様式の住宅が見えるだけだ。
時折通る車は黒い廃棄ガスの尻尾をつけている。
同じ場所、同じ所に座っても、ここは以前の場所では無い。
いつまでも変わらないと思われた『命綴神社』ですら、大きく変化していた。
いや、神社が変わらずとも周囲は変わってしまった。
そう自覚された時、人知れず義明の目に涙が浮かぶ。
両手で耳を塞ぐように頭を抱え、子どものように身体を丸める。
思えば、何年ぶりの涙だろうか。
前に泣いたのはいつだろうか。
そして、
「ん? どしたん? また、ひろのぶとケンカでもしたん?」
頭上からの声を聞いた。
義明は頭から手を離し、ゆっくりと、ゆっくりと顔を上げる。
昼の太陽を背負った鳥居に、金色の髪が揺れる。
「大きくなりよったねー、よしあき。たてにもよこにも大きくなりよった。今は何しちょんの?」
そこに少女は居た。
以前と同じ、太陽のような笑顔を浮かべ、金の髪と白い服を着て、鳥居に腰掛けている。
「めー姉……?」
義明はその姿を呆然と見つめている。
それは幻覚というにはあまりに美しくて、現実というにはあまりに神秘的だった。
ふわり、と少女が腰を浮かべる。
思わず義明はそれを受け止めようと、立ち上がる。
だが、少女はそのまま見えない手に支えられるように、ゆっくりと降下し、着地してみせた。
そのまま半分腰を浮かせたままの義明の横に座る。
大人となった義明と比べてその少女はあまりに小さかった。
自分の娘といっても通じそうなくらいだ。
だが、少女が義明の記憶の中にあるまま、回廊に腰掛け、義明の頭を撫でる。
記憶と違うのは、背の違いから来る目線の差異だろうか。
今では頭一つ分は義明の方が大きいため、自然と少女の目線は上を見上げるようになっていた。
「また、飴食べる? いや、よしあき糖尿病の気があるな。じゃあ、こっちか?」
少女の手にはいつの間にか、日干しにした小魚が乗っている。
それを二、三尾摘み、義明の手に乗せる。
「お日様の光をいっぱい浴びちょんけん栄養満点よ」
少女自身も小魚を摘み、口に放り込む。
もごもごと口を動かし、幸せそうにほほを緩めている。
少女に倣い、義明も小魚を一匹口に入れた。
魚独特の苦味が広がる。
しっかりとした歯ごたえが歯に帰ってくる。
しばらく噛み続けば、ほんのりと甘みを帯び、懐かしい水の味がした。
小魚を噛み締めながら、再び義明の目尻に光が浮かぶ。
少女は何も言わず、魚をはみ続けている。
「めー姉は……」
震える声。
「……めー姉は、ほんとっ変わらんのな」
どこか遠くを見ながら、大人が聞いた。
「神様やけんね」
その隣で、神様が答えた。
魚はすっかり食べてしまった。
◆ ◆ ◆
それから、義明はこれまでの事を話した。
中学校に入るために、この町を離れた事。
高校では勉強が急に難しくなって苦労したこと。
それでも必死に勉強して、国立の大学に入ったこと。
大学ではテニスをしたり、酒を飲んだり、友人とバカをしたこと。
留年し、親にこっぴどく叱られたこと。
大学の仲の良かった連中が卒業して行ったこと。
建設関係の中規模企業に就職したこと。
初めての部下ができたこと。
妻をもらい、子ができたこと。
ところどころ、言いよどみながら。
顔を真っ赤にしながら義明は話した。
義明の話を少女はずっと聞き続けた。
時に頷き、時に促し、ずっと笑顔で。
「この前、高志の入園式だったんやけど。俺、それをすっぽかしたんや……」
「なんで?」
「仕事。仕事が入ったん」
「仕事かー。それじゃあしょうがないんやない? よしあきは家族のために仕事をしちょんのやけん。きっと、奥さんもわかってくれる」
「でも最近じゃ、仕事も家族も本当に大切なのかわからなくなってきてしまった。仕事はキツイし、家族の相手もしてやれん。でも、仕事せんと家族を養えん。でも、仕事を頑張れば頑張
るほど、家族からは見放されていく気がするんや。もう、何をすればいいんかわからん!」
「なるほどなー」
子どもの癇癪のように叫ぶ義明に対して、少女はどこまでも落ち着いている。
ひらひらと舞う落ち葉を見つめていたかと思うと、地面に足をつけずに跳躍する。
頭を抱えていた義明は、その少女を目で追いかける。
「そんな時はなー」
枯れた手水舎の柄杓を拾う少女。
竹でできた柄杓はすでに役目を終え、薄肌色に変色していた。
だが、少女が手にした瞬間、柄杓に青竹の緑が蘇る。
その柄杓をかかげれば、手水舎から枯れたはずの水が湧き出てきた。
少女はその水を軽く一掬い。
「おっとっと」
義明の前に差し出す。
「そんな時はな、冷たい水でも飲むんや。頭ん中スッキリするでー」
義明は苦笑し、少女から柄杓を受け取る。
にこにこしている少女の視線を感じながら、柄杓の水をぐいと飲む。
「んっんっんっ、はぁーっ。うまいなー」
柄杓に塞がれた視界が開かれた時、義明は言葉を無くした。
「……え?」
そこは25年前の神社だった。
鎮守の森が周囲を囲み、柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。
拝殿から見える風景はコンクリートの白や屋根屋根の赤や青ではなく、森の緑、朱色の鳥居、金色の稲穂だった。
がたがたとコンバインの音が響いている。
どこか遠くで鳥が鳴く。ちゅんちゅん、ぴぴゅぴちゅ、ひゅーひょろろ。
子どもたちの遊ぶ声。
思わず、義明は立ち上がった。
そして気づいた。
自分の身体もまた、子どもに戻っていると。
日焼けした細い手足、かさぶたはあちこちにあり、格好の悪いシャツに短パンをはいている。
「ウチからのプレゼント」
にへー、とめー姉が笑っている。
何もかもがあの頃のままだ。
「さあ、今日は何して遊ぶ? 特別に今日だけは何でもつきあっちゃるよ?」
めー姉が手を差し出す。
白い白い右手。
なんとも小さく、なんと力強い手だろうか。
よしあきはその手を掴んだ。
◆ ◆ ◆
今まで見ていた景色よりもずっと低い視線から物が見える。
普通の木々やなんの変哲もない石ころさえ、不思議なものに映るようだ。
よしあきは何もかも忘れて遊んだ。
神社には何も特別な遊具はなかったけど、それでも退屈などまったくしなかった。
へんてこな形の木に登ったり、
棒を持って追いかけたり追いかけられたり、
魚を取ろうと必死で網を振り回したり、
森の中を探検したり、
夢中になってよしあきはめー姉との時間を過ごした。
気がつけば、日が傾いている。
神社をオレンジ色に染めながら、太陽は山へと沈んでいく。
「そろそろ帰らなな」
「……まだ遊ぶ」
神社のアリを木の枝でつつきながら、よしあきは答える。少女の方には顔を向けない。
「よしあき……」
それを見ながら、少女はどこか遠い目をする。
よしあきはそれに気づいている。
でも、振り返らない。振り返ろうとはしない。
「この神社……、壊してええよ」
「っ!!」
よしあきの手が止まる。
「……なんで……………?」
「よしあきの考えてることくらい、お見通しに決まっちょんやん。ここに来たときから、それはわかっとったよ」
「違う!!」
枝を投げ捨て、義明は立ち上がる。
「なんで、そんなこと言うんだよ、めー姉!! ここが無くなっていいわけないやん!!」
夕日を背負った少女は、微笑みを崩さない。
さあぁ、風が流れる。
枝を揺らす森の木を見ながら、少女は答える。
「ここな、よしあきの思い出なんや」
「え?」
「別にタイムスリップとかすごいことやったわけやない。それはウチの領分やない。ただ、よしあきの心ん中にあった思い出をちょっぴり外に出しただけや」
「……そう、なの?」
「ん。だから、神社は壊してええんよ。だって……」
「こんなにも、義明の心の中に残っとるもん」
「……………」
いつしか、義明は少年の姿ではなくなっていた。
汗の染みたシャツを来た、大人の男。
腹は出、顔にはシミが浮かんでいる。
見れば、小さな小枝が足元に転がっていた。
「人も街も変わらんではおれん。楽しいもの悲しいもの、全部押し流して時間は進むんや。こればっかりはどうしようもない」
「……………」
「変わらんのは思い出と神様だけや」
「……………っ」
「大丈夫や。義明なら大丈夫や。だって、大人になってもウチが見えたやん。こんなにもウチを覚えていてくれたやん」
「めー姉」
ボロボロと義明の双眸から涙が転がり落ちる。
それを義明は腕で擦る。
「この世はしゃあしいけん、色々辛いこともある。よだきいなって、何もかんも投げ出したくなることもあるやろ。でも、いつでもウチが見とるけん、頑張り」
「っ〜〜〜〜」
「大丈夫。ウチは変わらんよ? 神様やもん」
涙で歪んだ少女に義明は手を伸ばす。
でも、届かない。
一歩一歩歩いて、近づいているはずなのに、一向に近づけない。
じゃり、じゃりと革靴が土を踏む音だけが聞こえる。
「んや、元気でな。死にたいとか考えちゃだめやけんな?」
義明は思わず走り出した。
少女の金色の髪、白い服全て逃さぬように、抱きしめようとした。
「ああっ!」
だが、ダメだった。
少女の身体を義明はすり抜けてしまった。
義明は振り返る。
そこには、古ぼけた神社があるだけだ。
何処にも、人の気配など無かった。
少女がいたという証拠も、何一つ無かった。
劣化した柄杓は枯れた手水舎に置かれ、足跡は風にかき消された。
義明の耳を少女の声が叩くことも、もうない。
「っ……」
何も言わないように、義明は自分の唇を噛み、手を力一杯握った。
ぽたぽたと、痩せた地面に水滴が落ちる。
言ってはいけない。言ってはいけない。言ってはいけない。
ぐちゃぐちゃになった頭の中で、ただ一つそれだけははっきりとわかる。
ここで、彼女の名前を呼んではいけない、と。
それは義明ができる精一杯の答えだった。
どれだけそうしていただろう。
日はすっかり沈んでしまった。
やがて、義明は歩き出した。
自分の家族が待つ家へ。
END
ふとホームシックにかられ、書いてしまった小説です。
私の中のふるさとは大分県の田舎なのでしょう。登場人物が話している方言は大分弁を参考にしたものです。
皆様の中にある、ふるさとを少しでも思い起こすことができたなら、幸いです。
作者ホームページ(18禁とさせていただいています)
http://blackmanta200.x.fc2.com/