1.思い出の焚火
「スローライフ?」
長い長い冒険の旅路の最中のことだった。おれが旅の同行者である「勇者」に話しかけると、「彼女」は華奢にすら見える細い頸をかるく傾げ、不思議そうに訊ね返した。
「それってどういうこと? 世界を苦しめる邪神を斃したらどこかの田舎にでもひきこもってゆっくり暮らしたいとでもいうつもり?」
「そうだ」
おれはぴきぴきと小さく音を立ててはじけつづける焚火をまえに真剣にうなずいた。旅の仲間たちはすでに深い眠りに就いている。いま、起きているのは勇者とおれのふたりきりだ。だから、おれはいままでだれにも話したことがない望みを口に出したのだった。
幸い勇者は、おれが期待したように、笑い飛ばしたりはしなかった。ただ理解できないものを見るように凝然とおれの貌を見つめてくる。その可憐な美貌のうえに巨大なクエスチョンマークが浮かんでいるところが見えるようだ。
まあ、それはそうだろう。もっときちんと説明しなくてはならない。
「この旅が終わったら、おれはお役御免だ。名を隠し正体を隠してどこかへ隠遁するつもりでいる。そこで猟師か何かになって静かで平和に暮らす」
「ふうん」
勇者はなおも納得がいかないようだった。まあ、彼女の気持ちはわからないでもない。彼女はきっと、この旅が終わったあとも――もし、きちんと無事に終わるとすればの話だが――さらなる冒険や不思議を求めつづけて人助けでもしながら旅しつづけるのだろう。
それが勇者である彼女の生き方だろうし、ほかの仲間たちもそれぞれの役割に戻っていくのだと思われる。もし邪神を斃すことに成功したら、彼らは英雄だ。いくらか煙たがられることはあるにしても、うまく社会に馴染んで生きていくだろう。
彼らにはそれだけの人徳と声望がある。しかし、おれは――
「おれはしょせん異世界から来た人間だ。役割を終えたらもうこの世界では必要とされていない。だから、以前からの夢だったスローライフに挑戦する。だれもおれのことを知らない辺境の小村で、自然に囲まれて、ゆっくりした生活を送るんだ。卑怯だと思うか?」
「ううん? なんで?」
勇者は無邪気に首を振った。その清水の湧く泉のように澄み切った双眸をどれほど覗き込んでも、おれへの敵意や反発は感じ取れない。
その心の美しさこそが、神が彼女を勇者に選んだ理由なのかもしれないとふと思う。じっさい、おれは彼女ほど清らかな心のもち主をほかに知らない。おれのようなひねくれ者とはまさに大違いだ。
「だって、おまえやほかの連中が責任を果たしつづけることになるのに、おれはひとり楽をすることになるだろ? いや、おまえはそれで気にしないかもしれないけれど、ほかのふたりはどうかな? もちろん、おれは批判されてもかまわないが――」
「なあんだ、そんなこと気にしていたのか」
勇者は美しい眸を二三度瞬きした。ほんとうに何とも思っていない様子だ。この世界を救うという異常な重責をその肩に載せられて、だれよりも苦しんだはずなのに、彼女は一切おれのことを責める気持ちを持っていないのだ。
さすがは勇者というべきだろうか。おれがいままでの苦しい戦いをくぐり抜けて来れたのも、そんな彼女を助けたいからという理由が大きかったように思える。
「まったく、きみは小さいことを気にしすぎだよ。〈闇黒の大賢〉なんて呼ばれているのに、案外、つまらないことにこだわるんだな。邪神を斃したら、あとはどこで何をしようがだれも気にしたりしないさ。もっとも、都の王族たちは、きみの才能を欲しがることだろうけれど」
「そうか」
おれは安堵の吐息を洩らした。彼女がおれの言葉を自然体で受け止めてくれたことはありがたい。
もし、勇者に責められていたら、それでもおれは自分の望みを貫けただろうか? ひとりで責任から逃れる卑怯者と咎められても、なお、自分自身の幸福を最優先にすることができたか? それは自分でもまったくわからないことだった。
「ところで、さ」
勇者は可愛らしく両膝を抱えながらおれの目を気恥ずかしそうにおれの目を覗き込んで来た。
「ぼくの話も聴いてくれる? ぼくも邪神を斃したら考えていることがあるんだ」
「うん? そのあとも人助けと世直しの旅を続けるんじゃないのか? てっきりそうだと思い込んでいたが」
「それもいいけれどさ、ぼくもまあ女の子だからね、ひとりで旅をするのはちょっとね」
「何をいっているんだ?」
たしかに勇者はまだわずか十六歳の少女ではあるが、間違いなく世界最強の少女だ。邪神の配下の悪魔たちですら、ほとんどが彼女には歯が立たないのだ。まして、並大抵の人間たちではとても相手にはならないだろう。
だから、少なくとも人間世界を旅するかぎり、勇者に危険があろうとは思われない。あたりまえのことだ。しかし、彼女は不満そうに頬を膨らませた。可愛らしい貌がまるで栗鼠のよう。
「もう! きみはぼくのことを何だと思っているのかな。ぼくだって寝込みを狙われたら怪我をする可能性もあるし、まったく無敵ってわけじゃないんだよ。いまは交代で番をしているから平気だけれど、ひとりだったらどんな危険があるかわかったものじゃない」
「それは、そうだな」
深くうなずく。その可能性を考えていなかったのは不覚だった。もちろん、たとえ寝込みを寝られようと毒を盛られようと、そう簡単に勇者が不覚を取るわけはないが、あくまで可能性としてなら、危険がまったくないわけではない。そうはいえるだろう。
「だからさ、また仲間が欲しいんだよ。女の子のひとり旅は危ないからね! いや、ふたりなら旅をしないでどこかで暮らすのも良いとは思うんだけれど――」
「ああ、それならあいつがいいんじゃないか。奴ならすべての地位と権勢を捨てておまえに付いて行くだろう」
おれは傍らに寝ている騎士を視線で示した。〈人類最強〉という偉そうな異名を名のる天才剣士だ。ふざけた性格の男ではあるが、じっさい、その実力は無双で、ほとんど勇者に迫るものがある。
また、秀でた容姿のもち主でもあり、女たちには人気があった。いつも勇者をからかって撥ね返されているはいるが、奥に隠した心理は見え透いている。おれは恋愛ごとに関しては鈍くないのだ。彼が勇者に惚れていることは一目瞭然だった。
「うーん、まあ、それでも良いんだけれどね。それだとほんとに冒険になっちゃうじゃない? ぼくもお年頃だから、そろそろ恋に目ざめる季節っていうかさ。ウェディングドレスとか、ちょっと憧れるよね? いや、まあ、それは相手しだいだけれど、さあ。ねえ、わかるでしょ?」
「何がだ?」
勇者に照れくさそうに見つめられても彼女が何をいいたいのかまったく伝わらない。今度はおれが首を傾げる番だった。
じつはおれは騎士と勇者は相思相愛なのではないかと思っていたのだ。彼らはいつも喧嘩してはいるが、その実、とても仲が良い。もし、そうでないとするなら、勇者がだれを想っているのか、まったく見当がつかなかった。
おれが知っている人間なのだろうか? それとも王都に想い人がいるのか?
「ええっ、この期に及んでぼくの口からいわせる気? 信じられない! もう! きみなんてかってに山奥にでもひきこもっちゃえ! ぼくは知らないからね!」
なぜか突然に怒りだした様子で勇者はその場に横になって目を瞑ってしまった。おれは彼女が何をいおうとしていたのかまったくわからず、ただ茫然と途方に暮れるばかりだった。いまでもまだ彼女の言葉の意味はわからない。
何もかもが皆なつかしい、邪神討伐の冒険の終盤、ある夜の思い出だ。この後、勇者ユリアナは騎士アレン、大賢者クラリア、そしておれ魔法剣士ユズルとともにみごと邪神を斃すことに成功する。
そのあと、ユリアナは王都で有史以来の英雄として歓迎されて身動きが取れなくなり、アレンは王子の、クラリアは教団最高祭司の地位に戻った。
そして、おれはというと、ひとり、身柄を拘束されるまえに逃げ出したのだった――夢の、スローライフを求めて。これは、そのおれの目標が散々に邪魔される物語だ。