蒼い霧の絵
男と目があったとき、私は絵画のバランスは完璧であるはずなのに、歪んでないか確認するために再び壁に向かった。
男は少しずつ私の方に近づいているのがわかった。男のミリタリーブーツの靴音は床には馴染まなかった。私の真後ろまで男が来たとき、辺りは静寂に包まれた。
「何か御用でしょうか。」
私は壁の絵に向かってそう尋ねた。しかし、男は何も言わなかった。あまりにも時が経ってしまったように感じて、我慢できずにわたしはそっと振り替える。
しかし、私に向かれていたはずの視線は、その実、後ろの絵画に向いていたのだ。
その絵画は蒼い霧の中、男女が船を漕いでいる絵であった。バーのご主人が知り合いから頂いたものである。男はまるで私がそこにいないかのように私の前に立っていた。
今までにないような屈辱だった。父に出ていけといわれた日も、貧しさで死にそうな日も確かに私はそこにいて、存在していた。
しかし、今はどうだ。この男は私の存在をないものとして、絵画の美しさに浸っている。
「この絵はお前のか。」
急に私のことを注したので、反応にだいぶ時間がかかる。
「いいえ、、、。この店の主人の物です、、、。」
「そうか、ならば主人に伺おう」
そういうと男は奥の方でグラスを磨いていた主人の方へ先程と変わらない靴音で向かった。主人と男がしゃべる会話よりもさらに大きな声で女たちは密めきあう。私は彼女たちがこの男のどこを評価しているのか分からなかった。
私は地位がある男が嫌いだ。おごり高ぶるものなんて、なおさら嫌いである。
それも憎悪に近いほどの。エドワルド公爵のようにきつく、いかにも冷徹な男の目は私をそこが見えないほど気持ち悪くさせた。
しばらくすると男は私が完璧なバランスで飾った絵画を何事もなく外し取った。主人との交渉が上手くいったのだろう。私には、何も言うことはできなかった。男はまた不快な足音でこつこつと外に出ていった。
雨は次第に強くなり、予想通り今夜のショーは中止になった。私は若手として最後まで小舞台の片付けをした。まだ、男のこつこつと骨のような足音が頭のなかで響いた。主人に切り上げるように言われてようやく、私は仕事を終えた。雨は本当に強くなっていた。
ドアを開けると湿った音がして、嫌な予感がした。私は持っていた服を頭上に広げて、家まで走る準備をした。横目に黒い人影が映る。
その軍服は確かに男であった。そうして、男の瞳は確かに私を待っていた。