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『鍵(カギ)による、支配と解放』・・・諧謔的物語⑺

カギによる、支配と解放』・・・諧謔的物語⑺



もしも神が居るとしたら、一つの疑問が生じる。人間と人間は対立するが、何故、神と人間の対立が生じないのだろうか。そう考えると、神はいないという仮説も成り立つ。不思議なことだが、いつも世界の原理において、絵画などでは顔を見せる神も、現実世界においては、顔を見せることすらせず、隠れたままである。

ただ、それは世界の原理であって、日本に置いては、自然に神は宿っていると成されていると聞く。それは、何かに頼りたい時、自然に対して祈るということだろう。難しいことではない、単に、祈れば良い。



それにしても、神が人々を支配して、人間が解放を望むなら、人間を想像した神とは、一体どういう存在で、その様なことをしたのか。すると、神とは不可視でありつつも、逆位するが、人間であると仮定することも出来る。或いは人間に憑依すると言うと適切か。人間を支配するのは、神ではなく人である。すると、述べたように、人間、対、人間、の構図が見えてくる。

人々は歴史において、人が人を支配し、解放する、という行為を幾度となく繰り返してきた。それは、必然だった様に思われる。国家単位でも、一家庭単位でも、支配と解放は常に行われている。云わば、国家の縮図が一家庭の様なものだ。



それでは、その支配と解放を食い止めるにはどうすれば良いか。やはり、扉や壁を作ることだろう。ただ、その行為は、一時的な現象停止であり、本質的には、人々が融和の方向で向かい合うことが必要だろうと思われる。心に、それに繋がる鍵はありそうだ。敵意を、鍵によって、少し緩めてやれば良い。

結局のところ、問題は、支配やら解放に捉われている、人間の妬みだろう。もっとこう有りたい、と言った願望が、支配を引き起こすのだ。だから、本質的な解放とは、その妬みからの解放であって、そこに、人々の融和があると考えている。

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