『鍵(カギ)による、支配と解放』・・・諧謔的物語⒂
『鍵による、支配と解放』・・・諧謔的物語⒂
㈠
基点の切り替えによって、物事は推測を得た時点で、解放に向かうことは良点だと定義する。すると、それに纏わり付く諸般の事情をも、鍵は飲み込んでしまう。暮らしとは、そういった、何かに向かっている時に付随してくる運動によって、位置を変更させられてしまうのだ。
しかしまた、突破口さえあれば、どんなに纏わり付くものがあっても、そこへ向かって行ける。心の定位とは、そういった安心感からくるのだろうと思う。まるで赤子の状態の様であれば、誰かに導いてもらわなければならないが、歳が行けば、それなりに自立するものだろう。
㈡
何かに甘えてしまえば、確かに楽だが、一人で戦っている人を前にすると、自身が楽なほうへと行かないのが自身の思想である。それは、何より孤独というものの現象定位を決定づけるからだ。孤独とは、本質的な一人という動態現象ではなく、心が孤独だという、孤独のことを指す。
而して、その孤独は、確かに孤独だが、孤独を抱えている人同士なら、その孤独を共有することができる訳で、その時、孤独は確かに孤独ではなくなるのだ。この難しい論理は、頭で理解するよりも先に、精神が理解を追随し、論理を現実に味わうことになるのだ。
㈢
結句、こういった孤独の共有とは、互いの孤独の支配であることを決定付ける。互いが互いを支配する時、共有精神は満たされ、孤独の解放が成されるのだ。しかしその先の孤独の解放という支配からの解放は、決別と再生を含蓄するのだ。だから、支配からの孤独の解放に、支配されている間は、その人との交渉が続く訳で、孤独の解放状態という支配を、鍵が解放する時、云わば、述べたような別離が其処にあり、また、新しい再生があると考えている。
だから、本当の孤独とは、孤独に支配されている孤独のことを意味するだろう。誰だって、多少は、孤独を理解して生きている。すると、接点になる鍵とは、孤独の観念的会話から始まる。解放からの支配、支配からの解放は、時に複雑なものになっている。孤独からの解放に支配されている間、本当の交渉があると結論付けておく。




