『鍵(カギ)による、支配と解放』・・・諧謔的物語⑽
『鍵による、支配と解放』・・・諧謔的物語⑽
㈠
観念を往来する破綻神経の末端は、行く末さえ見せず、ただ、眼前に出没する。名打った小説の鍵すら、今やどこに行ったか分からない状態である。しかし、確かに光は見えているのだ、遠方から交差する光は、やがて身体をも浮遊させ、物事を利とんてきに導いてくれるだろうと確信している。
ただ、街を歩いていると、時折見かける、所謂敗者に、自身の影を投影しては、また、ざわざわと騒めく人々の群れによって、その投影の影すらも、見失いそうになる時、自分が一体何に支配されているかに気付くのだ。つまりは、社会の金銭的構図である。
㈡
物事が簡単にすむ仕事であれば、容易に金銭は獲得できるが、その仕事に見合った金銭でない場合、人間はどん底へと落とされるようなのである。不可視の、金銭的余裕とは、一生をかけて、自分に纏わり付く様なのである。金銭は、あればあるに越したことはないが、無ければない代わりに、その次元の幸せが付く。
幸福は、金銭で成り立つのではない、心の感じ方で、現実に幸福は現れる。であるから、要は心が満たされるかどうか、という問題が先立つし、何れは物事を、心眼で察知することができる様になるだろう。まさしく、金銭的構図からの解放である。
㈢
ならば、例え幼いころ、何かに支配されていても、大人になって、自己流の生き方を学んだ時、既に人間は解放の一途を辿るのである。となれば、金銭的構図とは、抽象的な、鍵のことではなかったか。すると、物事は割と気楽に進む。社会の構図は、何れ変化するが、自身で学んだ構図は、自分だけのものだ。
例え、助けのような形で、誰かが救いを差し伸べても、自分はこういう生き方を持っている、と断言できれば、自然と社会に溶け込んでいける力が備わっているということであり、その溶け込んだ状態の時に、個人と社会を繋ぐ、扉は、鍵によって無意識に開けられているのであろう。




