頼み事
《佐伯淳子の2つの秘密》
佐伯淳子は、世界中の「良い子」を煮詰めて集めた様な女だ。
高校三年生 。6月20日生まれ。好きな食べ物は白米。
成績は中、運動も並だが頼まれた事は一切断らず、前向きで明朗快活。
委員長などの直接スポットライトが当たりそうな場所までは決して出しゃばらないが、どの委員会や催し物でも、頼まれさえすれば縁の下の力持ちを買って出る。
弱音や不満の一つも漏らさず、常に鼻歌混り。
サイドを長めに残した黒髪のショートボブを揺らし、ほとんどしていない様なナチュラルメイクで誰にでも分け隔てなく笑いかけるその姿は、一部の男子に絶大な支持を得ている。
かく言う僕もご多聞に漏れずその中の一人だが、僕の場合は年季が違う。もうすぐかれこれ8年選手だ。素人と一緒にされたくはない。
「二次元から生まれた最強の三次元だよマジで」
そう噂される淳子は、今日もせっせと誰かの何かを手伝っている。
そして僕は、この学校で僕しか知らない佐伯淳子に関する秘密を2つ知っている。
一つは、実は佐伯淳子は自宅でこっそり絵を描いているという事。
主に果物や植物などなのだが、色が独特でずっと見ていたくなるものばかりだ。絵の事はよくわからないが、上手な部類に入ると思う。
もう一つは、もちろん淳子は二次元ではなく、ちゃんと母親から生まれている。
そしてその母親が、殺人の罪で今もまだ刑務所の中にいるという事だ。
《裏花言葉》
「この前教わったアニメ、アマプラで観たんだけどあれスッゲーオープニング凝ってるのな!」
断崖絶壁90度の寝癖をつけた佐々木が、前の席から意気揚々と話しかけてくる。
「知ってた?!あれさ!オープニングで黄色い百合がすっげぇ出てくるんだけど、その花言葉が【偽り】と【陽気】なんだって!ただのギャグアニメじゃなくて、こう言う所がエモくていいよな!」
朝一番の会話が大声でこんなのから始まる度に、僕のクラスでの立ち位置は確固たるものになっていく。が、その辺を気にするのはもうやめた。
「へー、それは知らんかった。わざわざ調べたん?」
自分の席に座りながら、脊髄反射的に聞き返す。
「いや!まとめサイトでたまたま見た!」
知ったかぶらないのが佐々木の美徳だ。嫌いじゃない。
「それでさ!ついでに見つけたんだけど『ホントは怖い花言葉5選』って言うのがカッコよくてさ!」
昨日は『神話や伝承に登場する最強の武器7選』だったので、二個減った今日の朝の定例報告は少し早めに終わりそうだ。
「まずアザミ!裏花言葉は【報復】!」
花言葉に裏表があったとは初耳だが、一切触れずに自分のスマホでも「花言葉 怖い」で検索をかけてみた。
「ロベリアは【悪意】で黄色いカーネーションは【軽蔑】!いやーこれ今度なんかに使いたいなー!」
いったいお前が花言葉を何に使うというのか。それよりもその寝癖に水でもかけたらどうだと思ってるうちに、件のページを見つけることができた。
「キブシは【嘘】で、なんとマリーゴールドが【嫉妬】【絶望】【悲しみ】!これ激アツじゃね!?」
「へー、佐々木くんって物知りさんなんだ」
いつの間にかに後ろにいた淳子の言葉に、佐々木はまるで静電気に打たれたかの様に背筋を伸ばし振り向いた。
「い、いや!まとめサイトで見ただけでして!ちょっと待ってね!」
知ったかぶりをしないのが彼の美徳だ。嫌いじゃない。
佐々木は右手でiPhoneを、左手で寝癖を大急ぎでスクロールさせ目的のページを探し始めた。
どうやら寝癖がついていたのも、それがあまりカッコいいものではない事も知っていたらしい。
頭を左に傾け、両手でせわしなく動く姿はシルエットだけ見るとDJみたいだが、友人としては筆舌に尽くしがたい哀愁を感じる。
「ほら!コレ!このページ!」
ページの表示されたiPhoneを受け取った淳子が割れた画面の奥を眺めている間も、佐々木は断崖絶壁を左手で必死に均そうとしていた。
「へぇ、マリーゴールドの花言葉って【変わらない愛】だけじゃないんだ。知らなかった!」
佐々木は照れた様に笑った。いや、別にお前は褒められていない。お前は別に【変わらない愛】でも何でもない。
DJ佐々木の後頭部にパンチでも入れようとしたその時、ちょうど始業のチャイムが鳴り響いた。
「あ、これごめん。もう落とさないようにね!それと、その寝癖はズルいよ」
そう小声で囁き笑いながら、淳子は蜘蛛の巣が張ったようなiPhoneを丁寧に手渡し、自分の席に戻っていった。
DJ佐々木は「っんん!」というイエスなのかビックリなのか、どちらの意味にも取れそうな返事をしてiPhoneをすぐにポケットにしまいこんだ。
そしてまた寝癖を二、三回撫でた後、こちらを振りむき、僕の目を見ずに恥ずかしそうに言った。
「大竹、佐伯さんはひょっとして、俺のことが好きという可能性が微レ存?」
いつの時代のネットスラングだと思いつつ、使い方があってるのかもわからない言葉と紅潮した頬が何となくムカついたので、僕はDJ寝癖に肩パンを入れてやった。
拳がめり込むと同時に「なぜっ!?」と佐々木は小さく叫んだ。
《大竹雅哉の2つの秘密》
僕にも淳子と同様、学校で誰にも話していない秘密が2つある。
一つは、僕と淳子が幼馴染であるという事。
なぜ秘密にするかと言われれば答えは単純で、僕のような人間と接点があること自体が淳子の汚点になるからだ。それだけは避けたい。もちろん好きだなんて誰にも言えないし、言うつもりもない。
淳子も気を使ってか、学校では程よく距離を取ってくれている。
もう一つは、毎週水曜に淳子と話をするのがお決まりになっている事だ。
淳子のファミレスのバイトが終わった後の21時半に公園で待ち合わせをし、少し雑談をしてから帰宅する。
現在、淳子はおじさんの家にお世話になっているのだが、おじさんは清掃業の夜勤で夜は家にいない。結構、自由に過ごしているようだった。
かれこれ中学時代のから続く決まり事だったが、高校生になっても時間が変更されただけで終わる事はなかった。
僕と淳子だけの時間は、僕と淳子だけが知っていれば良い。
《6月17日(月)》
最近になって、文化祭に向けて明るかったクラスの空気がおかしくなってきた。
最初は、みんな早めに大学受験の事を考える様になりピリピリし始めたのかと思ったが、どうやらそうじゃない。
それを確信したのは、6月17日の月曜日だった。
淳子の机に、これ見よがしなラインストーンの装飾と共に、大きな文字が黄色で書かれていたのだ。
「人殺し」
この机に張り付いたセンセーショナルな言葉は、教師が到着するまでの1時間弱、クラスメイトだけに止まらず他のクラスの野次馬たちの目にも晒され続け、学年中が奇怪な現代アートの様な机の話題でもちきりなった。
当然のごとく朝のホームルームで犯人探しが開催されるも、犯人が名乗り出る事はなく、事件は机をまるごと交換する事でとりあえずは保留になった。
そもそも名乗り出る様な犯人なら、あんな手間暇をかけるわけもない。
クラス中が犯人探しでもちきりなっている中、当の本人である淳子はというと全くのノーダメージのようで、何事もなかったかの様に笑っていた。
休み時間でも彼女を気遣い声をかけてくる女子や、机の交換を手伝ってくれた男子に向かって「ありがとうね!」などとお礼を言い
「本当びっくりしたー!なんか悪い事しちゃったのかなー!うーん」
とおどけながら、「あ、こうしちゃいられない!」と今回の「頼み事」である文化祭の準備に精を出してたところを見ると、本当に大丈夫な様でひとまずホッとした。
ずっと見つめ続けてきた僕が思うのだから、きっと間違いない。
《6月18日(火)》
次の日の6月18日。事態はさらに悪化していった。
まず、淳子にまつわる噂が、至る所で囁かれる様になっていた。
僕の耳にも聞こえてしまうくらいだから、おそらく学年中で知らないものはいないのだろう。あの佐々木ですら僕に「あれって本当かな?」と聞いてきたくらいだ。
結論から言うと、噂はほぼ全て真実だった。
が、佐々木には「知らん」とだけ返しておいた。
そして二つ目は、女子の淳子への態度だ。
変わり方は2パターンで、淳子に「一切の頼み事をしなくなった者」と「頼み事の量が増えた者」にそれぞれ分かれた。
「一切の頼み事しなくなった者」は、淳子に怯える様に距離をとり、文化祭の準備も「何か手伝う事ある?」と尋ねる淳子に、即答で「大丈夫!」断るようになった。
「頼み事の量が増えた者」は、その頼み事の量に比例して態度も大きくなり、それまでは「本当にありがとうね」と全身全霊で感謝の意を述べていたくせに、今では「あ、サンキュ」だけで済ます有様だ。
しまいには「おせーよ」とか抜かすビッチもいたので、しっかりと下駄箱のローファーに画鋲を入れといてやった。
数としては前者の方が圧倒的に多く、後者の方が少ない状況ではあったが、淳子と必要以上に接触しない様にしているのは、みんな同じだった。
唯一、淳子の前の席の由美という女だけが、今までと同じ様に淳子と接していた。
だが、その由美という女も、相当な覚悟の元で淳子と話しているのが机の下で握る拳で見て取れた。
《佐伯淳子に関する噂の真相》
学校で流れている噂の内容はこうだ。
1、佐伯淳子の母親は、淳子が8歳の時に保険金目当てで自分の夫を殺し、淳子も犯行に加担していた。あんな可愛い顔して良い人ぶってはいるが、人殺しは何を考えているかわかったもんじゃない。
2、あの「頼み事」へのお手伝いは、こっちに恩を売るだけ売って裏で何か企んでるのかもよ。
この噂は半分だけ合っている。違う点は2の「頼み事」に関してで、淳子は何も企んではいない。
ただ、1についても少し情報が足りない。
正確には「無理やり殺人と死体遺棄に加担させられた」が正解だ。
淳子の母親は夜な夜なホスト遊びにはまってしまい、至る所で借金を作った。
そしてさらに最悪な事に、昔の元彼がヤクザ屋さんの関係だったらしく、ヤミ金融にも相当な借金を重ね、とどのつまりが保険金殺人となった。
淳子は、その時に寝ている父親の両手を縛り抑えつけるという「頼み事」を母親からお願いされたのだ。
「ママの事が好きでしょ?好きならお願い。ママいなくなっちゃうわよ?」
この呪文に抗う事ができずに、淳子は必死に父親の手を押さえつけた。父親の手が冷たくなっても、淳子はその手を離せなかった。
そして父親の体を山に埋める時も、淳子は「頼み事」をされた。
「ママの事が好きでしょ?好きならお願い。ママいなくなっちゃうわよ?」
だが、8歳と29歳の女が掘った穴はさほど深くもなく、3日後に事件は敢え無く明るみになる。
当時のニュースで、大きく見出しになった文言はこうだ。
「本当はお父さんも大好きだった。お父さんに会いたい。」
これが噂の真相だ。
淳子から直接話は聞いたことがないが、僕の調べる限りでは、これ以上の真実はない。
《6月18日(火)放課後》
放課後、僕は寝たふりをして教室に残る事にした。
淳子があまりの「頼み事」の多さにバイトを休み、一人で残って作業をするというのを小耳に挟んだからだ。
淳子の事が心配だったこともあり、誰かがいなくなったタイミングでこっそり手伝ってやろうと、机にうつ伏せになりながらタイミングを待った。
だが、この寝たふりもそろそろ2時間に到達しようとしている。
由美という女が一向に帰るそぶりを見せないのだ。
淳子と由美という女は、一緒におしゃべりをしながら膨大な量の「頼み事」を二人で少しずつ消化している。
薄目を開けて観察を続けているが、その様子は今までと変わらない様に見えて、やはりどこかぎこちない。
その空気に耐えきれなくなったのか、淳子が
「大丈夫だよ。そんなに無理して気を使わなくても。私は平気だから」
と、由美という女に笑顔で静かに言った。
由美という女の動きがピタッと止まり、その後少しずつ震え始めたが、淳子の方は笑顔のまま、せっせと「頼み事」の文化祭での看板に色をつけている。
由美という女は、二、三分は細かく震え続けていたが、そのまま何もなかったかの様に再び動き出した。
僕は、帰るタイミングも起きるタイミングも見失ってしまい、そのまま眠りについてしまった。
起きた時にはすでに二人の姿はなく、夕暮れに「頼み事」の看板が照らされていた。
「3-4 みんなHappy!パンケーキ!」
普段の淳子の描く絵と比べ、地味な茶色と無理やり派手にされた装飾が鼻についた。
《6月19日(水)》
次の日、淳子は学校を休んだ。
教師は「風邪で休むと連絡があった」と言っていたが、正直信用できる情報ではない。
朝のホームルーム後、クラスではここぞとばかりに「噂」が話題のトレンドになり、みんな大声で情報交換を始めた。
「本当は日本人じゃないらしいよ」
「お母さんが来年刑務所から出てくるらしいよ」
「大人や教師にもあの可愛さと体を使って取り入ってるらしい」
各々好き放題に尾ひれはひれを楽しんでるようで、その表情は恍惚とし狂気さえ感じる。
耐えきれなくなった僕は、前席の佐々木の肩を叩いた。
「な、なんでございましょう」
「あのさ、この噂って佐々木はどう思う?」
佐々木はうーん、と一呼吸考えてゆっくり言った。
「最初に聞いた時はびっくりしたけど、本人から聞いてないしわからないよね。どっちにしても、佐伯さんとオレの関係は変わらないし」
知ったかぶらないのが佐々木の美徳だ。これが僕の友人だ。
お前と淳子にどんな関係があるのか、と一瞬口走りそうになったがグッと飲み込み、僕はカバンの中からコーラを持って立ち上がり、とりあえず教卓を思いっきり横に倒した。
「ドン」と威勢の良い音が響き、噂は一瞬、影も形も無くなった。
「本当ごめん」
佐々木に向かって小さく囁き、彼の頭の上に浮かぶクエスチョンマークの上から、コーラをぶっかけた。
「なぜっ!?ばぁばば!なぜっ!?」
パニックになる佐々木の頭からコーラが流れ落ち、寝癖を次々に直していく。
悲鳴と意味不明の歓声が響く中、僕は教室をあとにした。
佐々木には本当に悪いことをしたが、これで当面、「噂」の中に「大竹が狂った、あいつもアブないぞ」というトピックが追加されるはずだ。
今度ラーメンでもアニメのブルーレイでも、佐々木が望むものはなんでもおごってやろう。
そのまま僕は、「お決まり」の時間がくるまで公園でじっと一人待つ事にした。
《6月19日(水)公園》
21時5分前に、淳子がいつものベンチまでやってきた。
両手を後ろで組み、左右にひょこひょこと愛嬌たっぷりに歩く。顔に張り付いた、いつもと変わらない笑顔が少し心を不安にさせる。
「よっす」
「おいっす」
「風邪って聞いたけど、大丈夫なん?」
「いや、あれ実は仮病!今日はちょっとこれに集中してみたかったのだよ!」
そう言って後ろから「ジャーン!」と広げたのは、一枚の絵だった。
公園の外灯に照らされた画用紙の中心に、少し細身の真っ赤なブドウが描かれている。
その周りが様々なグラデーションの赤で彩られ、あまりの力作ぶりに、つい言葉を忘れて見入ってしまった。
「どう、コレ?」
「あ、あー、今回は赤一色なんだな」
いつも通り、色の話でごまかそうとした。絵のテクニック的なことも知らないし、自分の感性で感想を言うのも怖い。
「そう、赤だけなんだ。今回は」
そう言って再び絵を素早く丸め、淳子はそのまま僕へと差し出した。
「これは今回はプレゼント決定です!大事に持っておくように!」
いつも完成した絵はここで僕に披露した後、淳子の独断で「捨てる」か「あげる」の判断が下される。
判断基準も不明で、だいたいが「捨てる」になってしまうのだが、今回無事に生き残った作品は「あげる」の記念すべき通算10枚目となった。
「サンキュ。お袋に渡しておくわ」
「オッケー!っていうか、いつも雅哉にあげてるわけじゃないしね」
「はいはいあんがと」
花屋で働いていたからか、お袋は淳子の描く絵が好きなようで家に持って帰ったらすぐに渡すようにしている。
本当は自分の部屋に貼りたいのだが、お袋はなぜか仏壇のある部屋に綺麗に貼って飾っていた。
もらった絵を右手から左手に持ち変えながら、いつ話していいかもわからない、ずっと考えてた話を切り出す事にした。
「あのさ、学校で今お前の噂すげーじゃん。ある事ない事」
慎重に話さなくてはいけないのに、こんな話し方になる自分に腹がたつ。
「あー、全然気にしてないよ!全然平気」
そう言っていつもと変わらないテンションで淳子は続けた。
「私、あの時の事正直全然覚えてないし、噂されてもピンとこないんだよね。私に話しかけてくる人はだいぶ減ったけど、私が必要ないって人は、逆に困ってないって事だから素晴らしい事じゃんね!」
そう言って笑う淳子は、本当にいつも通りだった。
「それに文化祭の準備もいっぱい頼まれてるし、まだまだお役に立ちますよ!」
それなら今日ずる休みするなよ。と思ったが言うのはやめた。
「そっか、お前がいいならいいんだけどな。じゃあ、文化祭終わって暇になったら絵でも描いてみたら。ゆっくりとさ」
「ほいほい。了解」
いつものように軽い調子が、僕の心をだんだん軽くさせる。
「あのさ、前に由美が『18歳になる前に死にたい!17歳が最強なのに!』って言ってだんだけど、そんなの私、全然理解できないんだよね」
いきなり何を話し始めるのかと思ったが、登場人物もわかる事だし黙って聞く事にした。
「私は絶対18歳になってやる!生き延びてやる!そしてみんなのために!役に立つ人間になるのだ!」
やはり、こいつは気でも触れたのかもしれないと不安になったが、それもつかの間、淳子は立ち上がり駆け出し始めた。
「それじゃ!明日また学校で!」
「おう、おつかれ〜」
そう言って僕も仕方なく帰ろうとすると、背後から「あ!」と声がした。
「その絵ね、タイトルは『私の人生』だよ」
その声に振り向いてはみたが、時すでに遅く、淳子は後ろを向いて走り出していた。
《6月19日(水)帰宅》
淳子が絵にタイトルを付けるなんて、初めてだ。
多少の驚きを感じつつ家に帰宅すると、玄関でちょうどトイレから出てきたお袋と目が合った。
「また淳子ちゃんからもらってきたの?」
手に握っている、丸めた画用紙を見つけてしまったようだ。
「見せて見せて!」
年甲斐もなくぴょこぴょこ跳ねるお袋に、不愛想に画用紙を突き出した。
彼女は鼻歌を歌いながら絵を開き、少し眺めてから呟くように言った。
「あら、不思議な絵ねー」
確かに一面真っ赤は奇妙かもしれないが、赤いブドウはそこまで不思議じゃないだろう。
「どのへんが?」
「だってこれキブシでしょ?」
キブシ?そういえば僕は、キブシなんか見た事もない。すっかりブドウだと思い込んでいた。
ーー『ホントは怖い花言葉5選』って言うのがカッコよくてさー!
「真っ赤なキブシなんてあったかしら?」
ーータイトルは『私の人生』だよ!
私の人生、真っ赤なキブシ。
なんてこった。
とんだダジャレだ。
全部だったら、どこまでが嘘なんだ?
ーー私は絶対18歳になってやる!
僕は一目散に彼女の家まで走り出した。
ーーそれじゃ!明日また学校で!
僕は、彼女のことをずっと見つめていただけで、何も見ていなかったのではないだろうか。
《6月20日(木)》
翌日。「良い子」はもう、どこにもいなかった。
クラス中の「頼み事」を全て放棄し、文化祭をサボる宣言を声高々に掲げ、机事件の主犯格である女子達にビンタをかまし、放課後は美術部で絵を描く、天邪鬼がそこにいた。
あの夜、淳子の家に向かうと彼女は紐を持って立ち尽くしていた。
僕はとにかく後ろから抱きしめ、無言のまましばらく離さなかった。
ここでは言えないような事も、ちょっぴりだけ行い、恥ずかしい言葉も言った。
そして、お互いもう嘘はつかないと約束をして、今に至る。
僕の方はというと、佐々木に訳と全ての顛末を真摯に説明し、黄色い百合が出てくるアニメのブルーレイボックスをおごるという事で、許しを得る事ができた。
僕らの秘密は、この日を境に全部なくなった。