モモの暗殺
1台目の馬車が足元を通過した。
モモはすかさず樹上から飛び降りた。
クロネコもそれに続く。
風を切る音が耳に届くが、それも一瞬。
モモは2台目の馬車の屋根に着地した。
無音とはいかず、僅かに馬車が揺れる。
恐らく馬車内にいる人間にも、振動は伝わったことだろう。
急がねばならない。
続けてクロネコも屋根に着地する。
無音。
僅かな振動もない。
モモは内心で感動すら覚えたが、すぐに思考を切り替える。
今はやり直しのきかない仕事中だ。
モモは馬車の縁に足をかけ、側面に回り込む。
そのまま扉を開ける。
「なっ、だ、誰だ……!?」
くぐもった男の声は、しかし車輪の音にかき消される。
モモは素早く馬車内に身を滑り込ませ、扉を閉じた。
「……!」
馬車内は狭かった。
そのはずだ。
モモの想定に反して、3人の人物が座っていた。
恰幅のいい男。
事前に似顔絵で確認した顔。
これが暗殺対象のダイショー・ニンだ。
そして対面には女が座っていた。
ふくよかな女。
誰かはわからないが、自然に考えるならダイショー・ニンの妻だろう。
最後に、その妻の隣に年端もいかない少女。
恐らくは2人の娘。
モモの計画では、乗っているのはダイショー・ニン一人だけのはずだった。
だが現実には3人。
「キャアアアア!」
「ぞ、賊か!? 賊じゃな!?」
妻とダイショー・ニンの悲鳴を聞いて、モモははっと我に返った。
そうだ。
一人だろうが三人だろうが、やることに変わりはない。
暗殺対象および目撃者を殺すのだ。
事前情報によれば、ダイショー・ニンはあくどい商売にも手を染めているらしい。
ならば殺すのに何の躊躇もいらない。
それにクロネコの期待を裏切るわけにはいかない。
尊敬するクロネコに失望されるなど、モモにとっては何より耐え難いことだ。
ダイショー・ニンは馬車内に設えてある小窓に手を伸ばした。
その小窓は御者席に繋がっている。
助けを呼ぶつもりだろう。
もちろん、それを黙って見過ごすわけにはいかない。
1台目の馬車に乗っている護衛に気づかれずに、ことを済ませねばならない。
モモは真っ直ぐにナイフを突き出した。
一介の商人であるダイショー・ニンにそれを避けるすべはない。
刃はそのまま彼の喉に突き刺さった。
「キャアアアア! あ、あなた……!」
絶命した夫の姿を見て、妻が再度悲鳴を上げた。
モモはナイフを引き抜くと、妻に向き直った。
「ひっ……」
妻はがたがたと震えて、我が子のほうに手を伸ばす。
「ま、ママ……」
幼い娘は、震える母の手を取った。
その光景を目の当たりにして、一瞬、刃が鈍りそうになる。
モモはかぶりを振ると、己の迷いを振り払うように、思い切り刃を突き出した。
刃は妻の胸に、深々と突き刺さった。
肉を抉る独特の感触がモモの手に伝わってくる。
妻の身体が力なく、ずるりと倒れ込んだ。
モモはゆっくりと息を吐き、ナイフを抜いた。
馬車内のあちこちに返り血が散っている。
最後にモモは、娘へと向き直った。
「あ……」
幼い娘は目に涙を溜めて、返り血に染まったモモを見上げている。
その瞳は恐怖一色に染まっている。
モモはナイフを振りかぶった。
「ま、ママ……ママァ……」
娘はいやいやをするように後ずさる。
しかし馬車内は狭い。
すぐに背中が壁に当たる。
モモは娘に詰め寄ると、ナイフを――。
「ふえ……ママ……助けて……」
ナイフを……。
「ママ……ママ……助け……て……」
ナイフ、を……。
モモの手は、まるで石になったかのように動かなかった。
いや、手どころか全身が硬直していた。
「ママ……ぁ……」
幼い娘が震えながら、ぽろぽろと涙を流しながら、モモを見上げている。
不憫ではある。
良心の呵責もある。
だがそれ以上に、モモは、子供を手にかけることができなかった。
殺さねばならないと、理性ではわかっている。
クロネコの期待を裏切ってはいけないとわかっている。
でも、どうしても、身体が動かない。
モモの持つ価値観において、子供を害するというのはある種の禁忌だ。
子とは害から守るべき対象であり、子に害を為すなどもってのほかなのだ。
その価値観の根底は、彼女の育った環境にある。
「う……く……」
モモは額に汗を浮かせながら、娘を見下ろしていた。
ナイフを振りかぶったまま、動くことができなかった。
モモは失念していた。
ここは動く馬車内であり、時間は待ってはくれないということを。
「旦那様、いかがなさいましたか?」
御者の老人が外から小窓を開けて、馬車内を覗き込んだ。
そして夫婦ともに殺害され、今まさに娘にもナイフを振り下ろさんとする賊の姿を目撃した。
「うっ、うわああああ! ぞ、賊だああああ!」
老人は腰を抜かさんばかりに驚いた。
そして慌てて馬車を止めた。
馬のいななきが山道に響く。
それに気づいて、1台目の馬車も急停止した。
「何だ!?」
「どうした、何事だっ!」
1台目の馬車に乗っていた護衛5人が、ぞろぞろと下りてくる。
「ぞ、賊が! だ、旦那様が……!」
「何だとっ!」
護衛たちが2台目の馬車に駆け寄ってくる。
「……」
馬車の屋根から、クロネコはその光景を見下ろしていた。
馬車内の様子は気配でわかる。
どうやらモモは、残りの1人を殺しあぐねているらしい。
そして護衛たちは、数秒後にはこの馬車に辿り着くだろう。
そうなれば仕事は失敗だ。
だがクロネコがいる限り、そうはならない。
クロネコは肉厚のダガーを両手に抜き放つ。
剣と打ち合うことを想定して作られた、戦闘用のダガーだ。
彼は馬車の屋根から跳躍した。
そのまま音もなく着地し、駆け寄る護衛たちの背後を取る。
「――」
悲鳴を上げることすら許されず、護衛のうち2人が倒れた。
地面に転がった2つの死体は、頸動脈をすっぱりと切り裂かれている。
「な……!」
「あ、新手か!?」
残る3人がそれに気づいて、クロネコへと振り返った。
だがそのときには、彼はもう護衛たちの懐へ飛び込んでいた。
「がっ!」
「ぐえ……!」
続く2人も喉にダガーを受けて、もんどりうって倒れた。
「な、ば、馬鹿な……!」
瞬く間に最後の1人となった護衛が、青い顔で後退する。
それでも背を向けて逃げ出さないのは、プロとしての矜持だろうか。
クロネコはそれに頓着することなく、ダガーを一閃する。
最後の護衛も、喉から血を吹き出して絶命した。
「ひっ、ひいい……ぐげ」
御者の老人も動かなくなった。
クロネコはダガーに付着した血を拭って、鞘に収める。
それから馬車の扉を開けた。
「……し、師匠」
青ざめた顔のモモが、首だけをクロネコへと向ける。
ナイフを握り締めている手は、力を入れすぎて白くなっている。
クロネコは、ちらりと娘のほうへ目を遣った。
恐怖で震えているが、まだ生きている。
次に馬車内を確認する。
暗殺対象とその妻は、血まみれで事切れている。
クロネコはもう一度、モモを見た。
くりっとした彼女の目には、薄らと涙が溜まっている。
「師匠……」
モモの声は弱々しい。
クロネコは特に言葉を発することなく、幼い娘へと近づいた。
「ぁ……や……た、助け……」
震える娘の頭を掴む。
「ひっ……やぁ……」
ごきり。
クロネコは、幼い娘の首をへし折った。
彼は軽い亡骸を馬車内に投げ捨てた。
そしていつも通りの口調で、モモに告げる。
「仕事は終わった。帰還する」