感情という燃料
カラスに申し訳ないと思う気持ちはあった。
彼女はクロネコの頼みでこの屋敷に同伴したのであって、本来であればこの戦場にいる必要などなかった。
だが同時に、クロネコは優先順位を間違えない。
暗殺者という稼業に就いてから、ただの一度も間違えたことはない。
彼にとっての最優先は、いかなるときでも、常に己の命だ。
だから、見捨てた。
降り注ぐ光の雨に、カラスを置き去りにした。
彼女の手を引いたままでは間に合わないから。
共倒れよりは、せめて自分だけでも生き残ることを選択したのだ。
「クロ――」
彼を映すカラスの瞳には、絶望が浮かんでいた。
彼女はきっと、魔法使いと対峙したこの状況において、2人共に生き残るすべを期待したのだ。
最強の暗殺者ならば、自分が好きになったクロネコならば、この絶望的な状況をも覆してくれる。
2人の手が離れる最後の瞬間まで、そう信じたのだ。
だが、そんな都合の良い魔法は、それこそ魔法使いでもなければ使えない。
だからカラスが伸ばした手は、もう彼に届くことはなく、虚しく宙を彷徨った。
「あ――」
光の雨に全身を貫かれたカラスは、血を撒き散らしながら屋根から転がり落ちていった。
身体中を蜂の巣にされて生きている人間などいない。
誰が見ても即死だった。
最後に彼を捉えたカラスの瞳には、もう光はなく、何も映していなかった。
「……」
クロネコは一度だけ唇を噛んだ。
共倒れを防いだ自分の選択を誤りだったとは思わない。
一人でも生き残るほうが良いに決まっている。
しかしそれでも、彼女は自分の巻き添えになって死んだのだ。
この戦場において、魔法使いの手からカラスを守り切るという選択肢は持ち得なかったが、そうであっても彼女をこの屋敷に連れてこないという選択肢は確かに存在した。
「へっ、避けるたぁな」
無精髭の男――カラスの命を奪った王城の魔法使い――の獰猛な笑みが、クロネコを現実に引き戻した。
そうだ。
今すべきことは悔恨ではなく、この危機的状況を切り抜けることだ。
カラスの命を費やした以上、クロネコは是が非でもここから生きて帰らねばならない。
屋根から飛び退いたクロネコは、そのまま屋敷の側面の狭いスペースまで落下し、着地した。
「うわっ!」
「なっ、何だ!」
周囲の兵士たちが、突然降ってきたクロネコに驚きの声を上げる。
クロネコは兵士たちを無視し、頭上を見上げる。
屋根の上からは、無精髭の男が、殺意に満ちた笑みでこちらを見下ろしていた。
「――!」
上空に光の星々が再展開される。
獰猛な表情を浮かべるあの魔法使いは、この場にいる数人の兵士たちを巻き添えにするつもりだろうか?
するだろう。
あの魔法使いは、どう見ても兵士たちのことを仲間扱いしていない。
目標たるクロネコを仕留められるのであれば、雑兵ごときを流星雨の巻き添えにしたところで、必要な犠牲だったと笑い飛ばすタイプだ。
ならば、この場所はマズい。
屋根のないこの空き地は、流星雨の格好の的だ。
ここから屋敷の敷地外へ駆けたところで、蜂の巣にされるのが関の山だ。
クロネコは目の前の窓を突き破り、屋敷の中へと逆戻りした。
「あっ!」
「屋敷に入ったぞ!」
「追え、追えっ!」
兵士たちがばたばたと足音を立てる。
「さて……」
クロネコは飛び込んだ部屋を見回す。
どうやらここは炊事場のようだ。
息をつく暇もないが、少なくとも屋内ならばあの流星雨の危険に曝されることはあるまい。
先程目の当たりにしたあの光の雨は、少なくとも屋根を貫通するほどの威力はなかった。
じき兵士たちがやってくるだろうが、いったん落ち着いて考えをまとめ――。
「……?」
ふと視界の端に光が灯った。
視線を巡らせると、窓の外にいくつもの光の粒が浮いていた。
「――!」
驚く暇もなく、クロネコはその場から飛び退った。
一瞬の間を置いて、大量の光の粒が窓から飛び込んできた。
光の粒は部屋中を乱反射し、物という物をめちゃくちゃに貫通し、壁や床、天井に焦げ目を残して消滅した。
「……考えが甘かった」
部屋の片隅で辛うじて難を逃れながら、胸中で舌打ちをするクロネコ。
考えてみれば、頭上から雨を降らせるだけの大雑把な魔法使いが、屋内戦を想定した戦場に派遣されるはずがない。
あの流星雨は上からだけでなく、四方八方どの方向にでも発射できるのだ。
つまり、窓に面した部屋はすべて危険な場所ということになる。
加えて言うなら、狭い屋内であの魔法使いに遭遇した時点で、もう逃げ場はない。
詰みだ。
「……」
――いっそ戦うか?
彼はかつてリンガーダ王国で、魔法使いを打倒したことがある。
しかしそれは入念な下準備を行ったうえで、更にカラスの助力を得て2人で成し遂げたことだ。
突発的な遭遇戦で、最強の存在である魔法使いに勝てる可能性はゼロと言っていい。
クロネコは自分の力を過信していない。
この状況であの魔法使いと交戦することは、自殺を選択することと同義だ。
やはり逃げの一手しかない。
だが屋根のない屋外に出れば、あの流星雨が待ち構えている。
それどころか屋敷内で身を潜めていたところで、光の雨は窓から飛び込んでくる。
そうでなくとも時間をかければ、いずれは兵士たちの包囲網に捕まるだろう。
「……八方塞がりか」
クロネコの胸に、黒いものが染み込んでくる。
それは絶望という名の感情だ。
暗殺とは言うまでもなく、下準備ありきで行う極めて計画的な仕事だ。
準備のない暗殺者は弱い。
それはクロネコであっても例外ではない。
「……」
クロネコは部屋の片隅にもたれかかった。
一息ついて首元のタイを緩めようとし、ふと手を止めた。
今朝、家を出るとき、カラスがこのタイを締め直してくれたことを思い出したのだ。
つい数時間前の出来事なのに、もう遠い昔のことのようだ。
珍しく正装の彼を見て、にっこりと笑ったカラス。
彼女は嬉しそうだった。
結婚を申し込んだときの、目に涙を浮かべたカラスの表情。
彼女は幸せそうだった。
彼女のことを愛していないと言った自分を、それでも好きと言ってくれたカラス。
彼女は最期の瞬間まで、彼のことを――。
「……そうか」
クロネコは自覚した。
遅すぎたが、理解した。
彼女のことを愛していたわけではない。
それでも、彼はカラスのことを伴侶として迎えたかったのだ。
状況的にやむなくではない。
彼は自発的に、彼女との結婚を望んでいたのだ。
恋愛感情ではないため、好きという言葉は適切ではあるまい。
そしてこれを表現する言葉は、彼の語彙には存在しない。
だが彼は紛れもなく、カラスを失いたくなかったのだ――。
「いつかカラスが言った通りか」
彼女は、クロネコは少し変わったと言った。
感情で物を考える比率が増えたと。
彼が変わったとするならば、それは間違いなく彼女の影響だ。
そして彼はその言葉を歓迎しなかった。
暗殺者にとって、それは決して利点とはならないから。
しかし今、この瞬間だけは、それを利点としても構うまい。
この八方塞がりの状況を打破するため、感情を燃料として身体を動かすのだ。
カラスの命を踏み台としたのだから、クロネコには生き延びる義務がある。
無論、冷静さを欠いて良いという話ではない。
これまでの暗殺者としての経験に基づき、最も成功率の高い案を模索するのだ。
それも時間をかけず、今すぐに。
そんな中で、クロネコは一つ、やるべきことに思い当たった。
これは彼にしかできないし、他の人間にやらせたくはない。
帰ったら、カラスのために墓を立てるのだ。




