開戦
クロネコとカラスを乗せた馬車が、ヒゲン侯爵の屋敷に到着した。
今回は不法侵入するわけではないので、正門からの訪問となる。
「相変わらず大きいわね……。侯爵の屋敷としては平均的な規模かもしれないけれど」
豪奢な装飾が施された正門。
そこから見える、季節の花々を散らした広い中庭。
屋敷へと通じる舗装された道。
これぞ貴族の屋敷といった佇まいで、カラスは感嘆のため息を漏らした。
「クロネ様、お待ちしておりました」
礼儀正しい執事が2人を出迎える。
ヒゲン侯爵とクロネコの決闘に立ち会った老執事とは別人だ。
侯爵ともなると、お抱えの執事が何人もいるのだろう。
「失礼ですが、そちらは?」
「カーラ。授与式の立会人だ」
クロネコがドレスに身を包んだカラスを紹介する。
カラスが一歩進み出て、静々とお辞儀をする。
執事はそれで納得したようで、「かしこまりました」と恭しく頭を下げた。
研ぎ師職人クロネ。
その婚約者カーラ。
今日この屋敷では、それが2人の身分だ。
「それでは屋敷までご案内いたします」
警備の兵士が、重々しく正門を開ける。
執事が2人を先導して門をくぐる。
中庭を突っ切るように舗装された道を、ゆっくりと歩く。
「素敵な中庭……なのだけれど、警備の兵が多くて雰囲気が物々しいわね」
「申し訳ございません。本来は王城での式典なれば、それに負けないようにと旦那様が張り切っておいでで」
執事の言い訳に、カラスは納得する。
確かにヒゲン侯爵の性格なら、貴族のプライドに賭けて豪華な式典にしようとするだろう。
それこそ王城での催しに負けないよう警備も厳重にするに違いない。
「確かにこれだけ入念に準備してくれているのなら安心ね」
「恐れ入ります」
恐縮する執事。
「……」
だがクロネコだけは、違和感を覚えていた。
警備が多いのはいい。
これが本当に屋敷の警護ならば安心だ。
豪華な式典も、なるほどヒゲン侯爵ならばそうするだろうと思われる。
しかし、この警備兵たちのピリピリとした雰囲気はどうだ。
あたかも戦の前の緊張感を彷彿とさせる。
これではまるで、戦いが起こることがあらかじめ予期されているかのような……。
そうこうしているうちに、屋敷の玄関に辿り着いた。
執事が恭しく扉を開ける。
「クロネ様、カーラ様。どうぞお入りください」
「ありがとう」
カラスが執事に礼を言う。
クロネコが先に扉をくぐり、次いでカラス。
最後に執事だ。
「まずは2階の執務室へ。旦那様がお待ちです」
「ああ」
式典用の装飾で飾り付けされたエントランスからロビーへ。
その奥の階段から2階へ。
他の執事や警備兵が、本日の主役に対して頭を下げる。
「何だか私たち、貴族にでもなったみたいね」
「もうすぐなる」
「ふふっ、そうね」
カラスの軽口に応じながらも、クロネコは警戒心を深めていた。
これまで培ってきた暗殺者としての勘が、屋敷全体に充満する緊張感の高まりを感じ取っていた。
「……クロネ、どうしたの? 険しい顔をしているけれど」
「いや」
引き返すべきだろうか?
自分が長らく欲してきたものが、手の届くところにある。
それに釣られていないだろうか?
目の前にニンジンをぶら下げられた馬になっていないだろうか?
長年の目標達成を前にして、自分は判断力が鈍っているのではないか……?
「どうぞお入りください」
気がついたときには、2階の執務室の前まで来ていた。
「クロネ? 入らないの?」
いずれにせよ、ここまで来てしまえば同じだ。
仮に判断が遅かったとすれば、執務室に入ろうが入るまいが遅い。
引き返すのであれば、中庭の時点でそうすべきだった。
ならば警戒心を最大にしたまま、予定通りに進行したほうがいいだろう。
クロネコは扉の向こうの気配を探る。
「……」
複数の気配を感じるが、それ自体は自然だ。
式典ともなれば人はたくさんいるだろう。
問題は、室内の気配がどういった類の人間かだ。
「失礼する」
クロネコは一呼吸の後、扉を開けて執務室に入った。
カラスもそれに続く。
そこには。
「ようこそ、クロネコ君。待ちわび――がふっ!」
卑しい笑みを浮かべて出迎えたヤーセン子爵は、喉元にナイフが突き刺さり吐血した。
一瞬の躊躇もなく、クロネコが投擲したのだ。
執務室に所狭しと配備されていた兵士たちは、誰一人反応できなかった。
「や、ヤーセン子爵!?」
「き、貴様あ!」
「殺せ! 奴を殺せ!」
床に崩れて絶命する子爵を目の当たりにし、兵士たちはようやく武器を構えて動き出した。
「く、クロネコ……!?」
目を白黒させるカラスの腕を引っ張り、クロネコは扉を閉じた。
クロネコは内心で舌打ちをした。
やはり彼の勘は正しく、そして判断を間違えたのだ。
己の目が曇っていたことを一瞬悔いたが、即座に思考を切り替える。
今すべきことは後悔ではない。
この罠はヒゲン侯爵の指示ではなかろう。
侯爵は恐らくヤーセン子爵に裏切られたのだ。
「お、お待ちくだ……ぎゃっ」
引き留めようとした執事を蹴り倒し、クロネコは廊下の窓に駆け寄った。
そこから裏庭に飛び出そうとしたが、すぐにやめた。
窓から確認する限り、裏庭にも多数の兵士がひしめいていた。
「な、何でヤーセン子爵がいたの? それに、あの兵士たち……」
「嵌められた。脱出するぞ」
狼狽しているカラスに、完結な答えを返す。
屋敷中に配備されている兵士はすべて敵だ。
となれば一刻の猶予もない。
いかな最強の暗殺者といえど、あれだけの数の兵士を一度に相手にできるはずがない。
執務室にいた兵士たちが、ばらばらと廊下に飛び出してくる。
多い。
いったいあの一部屋にどれだけの人数が潜んでいたのか。
一度侵入しただけあって、クロネコの頭の中にはこの屋敷の間取りが記憶されている。
兵士の配備状況は不明だが、相当な人数が動員されていることは間違いない。
頭であるヤーセン子爵は潰したが、彼が指揮官である可能性は低いから、兵士たちの統率が乱れることはあるまい。
更に――。
「クロネコ?」
自分が手を引いているカラスを見る。
ヒールのせいで走りにくそうにしている。
戦闘力はなく、武装もないドレス姿の婚約者。
言ってしまえばただの足枷だ。
だがいかに状況が悪かろうとも、クロネコはこんなところで人生を諦める気はない。
そしてそれはカラスも同様だ。
何より彼女は、これから幸せになる予定なのだ。
絶対に死ぬわけにはいかない。
脱出経路を模索しながら、2人は広い屋敷を駆けた――。




