マナちゃん
1日目。
「う……」
私は目を覚ました。
あれ、どうしたんだっけ。
確か執事さんと綺麗な女の人が、デートしているところを目撃して。
後を着けていたら、執事さんに見つかって……。
そこから先の記憶がない。
「……えっ」
そこでようやく状況に気がついた。
何で私、椅子に縛られてるの?
それにこの部屋、狭くて暗くて、おまけにじめじめしている。
窓がないから、今がお昼なのか夜なのかもわからない。
地下室?
もしかして私、誘拐されたのだろうか。
誰に?
何の目的で?
いや、犯人はわかっている。
あの執事さんだ。
きっと私を気絶させて、ここまで運んできたんだ。
ううん、それにもうはっきりしている。
あの人は絶対、ただの執事さんじゃない。
何か危ない職業の人だ。
そうじゃないと、こんなことをする説明がつかない。
やっぱり私の疑いは正しかったんだ。
ここから帰ったら、すぐに憲兵さんに通報して――。
「目が覚めたか」
「え……ひっ!」
いつの間にか、目の前に執事さんがいた。
いつから?
確かに今までいなかったのに。
この人、私をどうするの?
ら、乱暴される?
それとも、まさか、殺される……?
怖い。
怖い。
そうだ。
執事さんのこの目。
夜の闇ような薄暗い瞳。
最初に会ったとき、この感情の読み取れない瞳を見て、私は恐ろしいと思ったんだ。
ただの直感だったけど、この人は本当に執事なのか疑問に思ったんだ。
この人に見つめられているだけで、私は身体の震えが止まらなくなる。
こんな目をしている人を、私は今まで見たことがない。
「マナ」
唐突に名前を呼ばれて、私は口から心臓が飛び出しそうになった。
「一つだけ質問がある」
執事さんが口を開く。
私は答えない。
正確には、恐怖で言葉が出てこない。
「お前が俺を付け回していたことを、お前の家族は知っているか?」
「……」
知らない。
ただでさえお母さんも兄さんも、お父さんを失って悲しんでる。
私の行動で余計な心配をかけなくないから、何も言ってない。
でもそれを正直に答えたら、私はどうなるんだろう?
見当もつかない。
でも何となく、答えてはいけない気がする。
「……」
私が口をつぐむのを見て、執事さんは小さく息をついた。
そして親指と人差指で、そっと私の小指をつまんだ。
「え……あああああっ!」
痛い。
痛い痛い痛い。
小指が折れる!
私は首を振りながら悲鳴を上げた。
やめて痛いお願いやめて。
「お前が俺を付け回していたことを、お前の家族は知っているか?」
「し、知らないっ……。知りません……! やめて、やめ、いたい、いあああああ……!」
執事さんが小指を解放した。
私はぽろぽろと涙を零しながら、何度も荒い息をついた。
痛いよ……。
痛いよぉ……。
誰か助けて……。
「ドクター。家族は知らないようだから問題はない。やってくれ」
「わかったがね。確率は低いが、クスリはこの子を廃人にしてしまう可能性もあるのだがねえ」
「構わん」
「そうかね。では後は任せたまえ」
執事さんと、あといつの間にか白衣を着た痩せ細ったおじさんがいて、何か喋っている。
白衣だからドクターなのかな。
でも痛みのせいで、会話の内容はあまり頭に入ってこない。
薬……痛み止めならほしい……。
「では腹を空かせるまで放置するかね。終わったら知らせるから、クロネコは気長に待っていたまえ」
「頼んだ」
執事さんとドクターが扉から出ていく。
そうか、執事さんの名前はクロネコっていうのか。
この狭い部屋の出入り口は、あの扉一つだけなのか。
「……」
ようやく痛みが引いてきたけど、ぽつんと一人残されてしまった。
明かりは壁に据え付けられている薄暗いランプだけ。
心細い。
でも椅子に縛られているから何もできない。
私、これからどうなるんだろう。
2日目。
私は目を覚ました。
いつの間にか寝てしまったみたいだ。
お腹が小さく音を立て、私は少し顔を赤らめた。
誰にも聞かれていないのが幸いだったけれど。
昨日のお昼を最後に、何も食べていない。
そこで自分の置かれている状況を思い出した。
たぶん殺されはしないんだと思う。
だって、殺されるなら昨日のうちにもう殺されていないとおかしい。
そうしないということは、私はきっと別のことをされるんだろう。
乱暴されるとも考えにくい。
それも、されるなら昨日のうちにされているはずだ。
それにクロネコさんとドクターは、クスリがどうとかって話をしていた。
よくわからないけど、何かをされるんだと思う。
きっと、怖いことだ。
私が誘拐されたこと、誰も気づいてないのかな。
誰か助けにきてくれないかな。
それと、お腹空いたな……。
3日目。
何日経ったんだろう。
陽が差し込まないから、時間の感覚がわからない。
頭がぼんやりする。
何も食べていない。
何も飲んでいない。
喉がからからだ。
唇がカサカサだ。
お母さんの作った温かいご飯が恋しい。
お父さんと兄さんと一緒に、家族で食べたい。
お父さん、何で死んじゃったの?
今ならわかる。
あのクロネコさんがきっと、お父さんの死に関わってるんだ。
もしかしたら直接お父さんを殺した犯人かもしれない。
だから私に正体を探られそうになって、誘拐したんだ。
私、気づかないうちにすごく危ない橋を渡ってたんだ……。
自然と目に涙が溢れる。
怖いよ。
つらいよ。
お腹空いたよ。
誰か助けて。
お父さん、助けて……。
4日目。
お腹すいた……。
いま、何日たったの?
お願い、何か食べさせて……。
つらいよ……。
「ふむ。そろそろ限界のようだねえ」
いつの間にか目の前にドクターがいた。
痩せこけた顔で、私のことをじっと見ている。
私はぼんやりした目でドクターを見上げる。
私はごくりと喉を鳴らした。
だって、いい匂いがする。
ドクターの手には、湯気を立てている美味しそうなスープの皿。
「そんな物欲しそうな顔をせずとも、食べさせてやるがね。ゆっくりとおあがり」
ドクターがスプーンでスープをすくい、私の口元に運ぶ。
私はスプーンにむしゃぶりついた。
ああ……。
美味しい。
ただの野菜スープだ。
でもそれが、こんなに美味しく感じるなんて。
少しだけ妙な味がするけど、それでも美味しい。
私はスプーンを口に運ばれるまま、スープを完食した。
でも足りない。
もっとほしい。
「また明日、持ってくるがね」
訴えかけるような私の視線を無視して、ドクターはあっさりと部屋から出ていった。
明日……。
スープ……。
早く明日が来ないかな。
5日目。
「さあ、今日もゆっくりとおあがり」
ドクターにスープを食べさせてもらう。
やっぱり少し妙な味がする。
でもそれでも美味しい。
空腹は最高のスパイスって聞いたことがあるけど、本当だったんだ。
「も……もう一杯、ください……」
私は掠れた声を絞り出す。
餓え死にはしないけれど、ぜんぜん足りない。
お腹はずっと空腹を訴えている。
「また明日、持ってくるがね」
ドクターは昨日と同じ言葉を残して、部屋から出ていった。
「明日……」
頭がぼんやりする。
それに少しだけ頭痛がする。
また、あした。
何だろう、頭痛い……。
6日目。
「ゆっくりとおあがり」
スープ、おいしい。
痩せた白衣の人が、優しくスープを食べさせてくれる。
おいしいけど、頭いたい。
あれ、この人の名前、何だっけ……。
7日目。
「ゆっくりとおあがり」
スープ、おいしい。
やせた白衣の人が、やさしくスープを食べさせてくれる。
おいしい。
頭いたい。
「うえ……」
なんか気持ちがわるい……。
吐きそう。
でも吐いたら飢え死にしてしまう。
私はうつむく。
視界がぼんやりしている。
焦点がさだまらない。
私、何でこんなところにいるんだろう……。
私はここで、何をしてるんだろう……。
8日目。
「ゆっくりとおあがり」
スープ、おいしい。
やせたはくいの人が、やさしくスープを食べさせてくれる。
おいしい。
あたまいたい。
きもちわるい。
けしきが、ぐるぐるする。
めまいがする。
おとうさん、どこ?
9日目。
「ゆっくりとおあがり」
すーぷ、おいしい。
やせたはくいのひとが、やさしくすーぷをたべさせてくれる。
おいしい。
おとうさん、どこ?
おかあさん、どこ?
おにいちゃん、どこ?
10日目。
「そろそろ仕上げだねえ。ゆっくりとおあがり」
すーぷ、おいしい。
やせたはくいのひとが、やさしくすーぷをたべさせてくれる。
おいしい。
さいご?
もうたべられないの?
おとうさん、どこ?
あしたは、わたしのおたんじょうびなんだ。
おぼえててくれるかな。
ぷれぜんとは、くまのぬいぐるみだといいなあ。
はやくおとうさんに、あいたいな。
11日目。
……。
…………。
………………。
12日目。
「――」
「――、――」
13日目。
「……?」
私は、めをさました。
まぶしい……。
窓からおひさまが見える。
白いカーテンがゆらゆらしてる。
「マナ!? 気がついたの!?」
「マナ……!」
私は声のしたほうにふりむく。
ひゃっ。
いきなり抱きしめられた。
お母さんだ。
お兄ちゃんもいる。
「よかった。何日も行方不明になったと思ったら、いきなり病院からマナが事故に遭ったって連絡があって……」
どうしたんだろう。
お母さんが、なみだごえだ。
「マナ、覚えているか? お前、馬車に跳ねられて頭を打って、病院に搬送されたんだぞ」
びょういん?
じゃあここはびょういん?
「お兄ちゃん」
「どうした、マナ? やっぱり頭が痛むのか?」
お兄ちゃんが心配そうに私を見つめる。
私は思ったことをすなおに聞くことにした。
「お兄ちゃん、どうしてそんなに背がたかくなってるの?」
「……何だって?」
「お母さん、どうしてそんなにおばさんになっちゃったの?」
「えっ……」
お母さんとお兄ちゃんが、だまってしまった。
私、なにかへんなこと言っちゃったのかな。
14日目。
「残念ながら、事故の後遺症で記憶を失っていると思われます」
「そ、そんな……」
「元には? 元には戻るんですか!?」
「それは今の段階では何とも……」
おいしゃさんの説明を聞いて、お母さんとお兄ちゃんがすごくびっくりしている。
「私、どこかへん……?」
私のせいで、お母さんもお兄ちゃんも、悲しそうな顔してるの?
そうだとしたら、やだな。
「お母さん、お兄ちゃん。ごめんね」
私があやまると、お母さんは目になみだを浮かべて、私のことを抱きしめた。
「ううん、ううん……。マナは何も悪くないのよ」
お母さんが泣いてる。
お兄ちゃんも、泣きそうな顔をしてる。
どうしよう。
「あのね。あのね……」
私はせいいっぱい、言葉にする。
「よくわかんないけど、私、お母さんのこともお兄ちゃんのことも、大好きだよ。だから泣かないで」
「マナ……」
お母さんがもっと泣いてしまった。
お兄ちゃんは天井を向いている。
ど、どうしよう。
よけいなこと言っちゃったかな。
「マナ、ありがとう……。私もあなたのこと愛してるわ」
あ、お母さん、泣いてるけどわらってくれた。
よかったあ。
「あ、あのね。それでね……」
「なあに、マナ」
私はもじもじした。
ちょっとはずかしい。
でも、いちばん聞きたかったことを聞いた。
「私のおたんじょうび、お父さん帰ってきてくれるかなあ……?」




