ヒゲン侯爵
ヒゲン侯爵は愛国心が強く、伝統を重んじる保守派の貴族だ。
その特徴はがっしりとした体格と、豊かな口髭。
外見に似合って武闘派の貴族らしく、先のリンガーダ王国への侵略戦では、貴族であるにも拘らず前線まで出て指揮を取っていたそうだ。
そうした情報をカラスから仕入れ――どのお屋敷でも女中は口が軽いわねえ、とカラスは得意げだった――クロネコはヒゲン侯爵の屋敷を訪問した。
デーヴ伯爵の屋敷と大差ない規模だ。
侯爵の地位にある人物の住まいとしては質素といえよう。
もちろん面会の約束は取り付けていないので、正門から入るわけにはいかない。
クロネコはデーヴ伯爵の屋敷に侵入したときと同じ手口で、側面から壁を乗り越え、屋根に登る。
夜も更けたこの時間、ヒゲン侯爵は執務室で書き物をしていることが多いという。
クロネコは執務室の窓に張り付き、中の様子を窺う。
気配は一つ。
どうやら侯爵は熱心に仕事中のようだ。
「解錠」
窓の鍵を開け、するりと室内に入り込む。
気配を殺しているため、背を向けて机に向かっているヒゲン侯爵は彼に気づかない。
侯爵のがっしりとした背中が目の前にあるが、この距離は互いにとって好ましくない。
今夜この場所でクロネコが行おうとしているのは、暗殺ではなく交渉だ。
無断で部屋に侵入しておいて言えたことではないが、それでも必要以上に侯爵を警戒させるわけにはいかない。
「……」
クロネコは壁に沿うように、大きな机をゆっくりと迂回する。
迂回しながら、抑えていた気配を少しずつ解放する。
だから彼が机を挟むようにヒゲン侯爵と相対したときには、侯爵は彼に気づいて顔を上げた。
「……何者だ」
ペンを机に置き、ヒゲン侯爵は不機嫌そうな視線を向ける。
不届きな侵入者を目の当たりにして動じた様子もない。
事前情報の通り、武闘派らしく胆力があるようだ。
「クロネコだ。夜分に失礼」
貴族の礼儀には詳しくないが、クロネコは名乗って一礼をする。
ヒゲン侯爵も犯罪者風情に上等な礼儀など期待していないだろうが、それでも最低限、話が通じる相手だと思ってもらわねばならない。
礼と共に先に名乗ったクロネコを見て、侯爵の視線が僅かばかり和らぐ。
暗殺に来たわけではないという意思表示を理解したのだ。
「ヒゲンだ」
名乗り返す侯爵には、堂々たる威厳があった。
クロネコが生きる裏社会とはまた別の世界で、海千山千の貴族を相手にしてきたのだ。
風格が培われるのも当然といえよう。
「クロネコとやら。やってくる頃合いだろうと予想はしておった」
「デーヴ伯爵が死んだからか?」
「左様」
殺したではなく死んだと表現する。
クロネコが殺したことは明らかなのだが、侯爵の前でそれを公に認めるわけにはいかない。
いったん口にして認めてしまえば、机一つ隔てた今夜の邂逅は、貴族とただの不埒者から、法を守る側と犯す側に変わってしまう。
そうなればもはや、ヒゲン侯爵は人殺しの言葉になど耳を貸してはくれまい。
「……ふん。ネズミ風情がどのような輩かと思っておったが、考えていたよりは話の通じる人間のようだ」
「そう思ってもらえるのなら有り難い」
クロネコは内心で息をついた。
どうやら話し合いに持ち込むという最初の課題はクリアできたようだ。
しかしもちろん、ここからが本番だ。
「よかろう。要件を聞いてやろう」
ヒゲン侯爵は革張りの椅子に背を預け、執務室を睥睨する。
格下の貴族であれば威圧されて身を震わせるところだろうが、クロネコはそれを受け流す。
常に命のやり取りに身を晒している彼にとって、実害のない威圧に脅威を感じることはない。
「爵位を購入せずに、土地を手に入れる方法はないか?」
「何?」
侯爵が目を細め、クロネコを見据える。
クロネコはその視線を正面から受け止める。
「クロネコよ。貴様の目的は、不遜にも貴族の仲間入りをすることではないのか?」
「俺がほしいのは土地だけだ。貴族でなければ土地の保有権がないから、使いもしない爵位をやむなく買おうとしているだけだ」
「……」
ヒゲン侯爵が豊かな髭を指で弄る。
思案するときの癖なのだろう。
「……犯罪者風情が、伝統あるキャルステン王国の貴族の仲間入りをするなど、断じて見過ごせん事態だ」
「ああ。だから、俺が貴族にならずに土地を手に入れる方法があれば、侯爵と敵対する必要はないと考えた」
「ふむ……」
ヒゲン侯爵はクロネコの言葉の真偽を測りかねているようだ。
「ワシは貴族だ」
「知っている」
「だから爵位というものが、状況によってはどれほど有用か、よくわかっておる」
そうだろう。
下手に犯罪者に爵位を渡しては、何に利用されるかわかったものではない。
一方でその有用性は、犯罪者の種類によって異なってくる。
クロネコはそれを説明していく。
「俺は一介の暗殺者だ」
「知っておる」
「爵位を有効利用できるのは、上流社会や商売に食い込む形で法を犯している犯罪者たちだ」
「そうであろうな」
「では俺の職業ではどうだ? 爵位を有効利用できそうか?」
「……」
ヒゲン侯爵は渋い顔をした。
クロネコの言わんとしていることに納得はしたが、認める言葉を口に出したくないといった表情だ。
現場仕事が主たる暗殺者が爵位を手に入れたところで、いったいどう有効活用するというのか。
仮に活用できたとしても、その有用性は限定的なものであり、少なくとも貴族社会に影響を与えることはないだろう。
侯爵はそれを理解したのだ。
「ではクロネコよ。問うが、土地を手に入れて何をする。犯罪者風情の考えることだ、クスリの栽培でもやるつもりではないか?」
「俺はクスリは嫌いだ」
「何故だ?」
「身体能力が衰えて仕事に支障をきたす」
「……ふん」
クロネコの明瞭な回答に、侯爵は口元を緩める。
犯罪者が、仮にクスリは人道的にどうとか大層なお題目を持ち出していたら、かえって胡散臭い。
自分に実害があるから嫌い。
偽らぬその答えは、ヒゲン侯爵に好意的に受け入れられた。
「では、土地を保有して何とする」
「教育施設を作る」
「……何だと?」
予想外の言葉に、侯爵は思わずクロネコをまじまじと見つめた。
「俺の生まれは孤児だ」
「それがどうした?」
「教育を受けられる環境などなかった」
「であろうな」
「結果、一人の子供は一人の犯罪者に育った」
「……」
ヒゲン侯爵は胡乱な目を向けてくる。
クロネコは小さく首を振る。
「勘違いしないでほしいが、俺は不幸自慢をしているわけではない。ただ、教育を受けられる環境にない子供が、将来どう成長するか、実例を説明しただけだ」
「ほう、実例」
「そうだ。はっきり言えば、ただ孤児に生まれただけで将来まで決定されるような境遇の人間が、そのあたりにいくらでも転がっているという事実は、俺を大いに苛立たせている」
「……なるほどな。貴様は孤児どもを教育してやろうとしているわけだ」
「有り体に言えば、そうだ」
ヒゲン侯爵は鼻を鳴らした。
「何を言い出すかと思えば、犯罪者風情が慈善事業だと? 笑わせるな」
侯爵は机上のベルに手を伸ばす。
警備兵を呼ぶつもりだろう。
だがクロネコはその場から動かない。
ここで焦っては全てが水の泡だ。
淡々と言葉だけを続ける。
「侯爵はこの国を愛し、この国の益を考える愛国心の強い貴族だと聞いていたが?」
「だとしたら何だ?」
「孤児や浮浪児が多いという問題は、このキャルステン王国にとって頭痛の種だ。違うか?」
「……その通りだ」
国の規模が大きくなれば、当然それに比例して貧困層も拡大していく。
そして貧困層が増えれば犯罪率も上がり、治安は悪化していく。
上級貴族として王国の政治に関わる権利を有しているヒゲン侯爵は、その問題をよく理解していた。
「孤児たちを教育する施設を作るということは、長期的に見ればこの国の貧困層を減らし、犯罪率が下がることに貢献する。侯爵の感情を抜きにすれば、この国の益になることは間違いないだろう?」
「ぬう」
「愛国心の強い侯爵なら、個人の感情より、この国の益を優先したほうが賢明であることを理解してくれる。少なくとも俺はそう思っている」
「……」
ヒゲン侯爵は小さく唸る。
クロネコの言葉は理路整然としており、説得力がある。
無論、教育施設をたかだか一軒建てたところで大した影響はあるまい。
しかし侯爵が知る限り、孤児や浮浪児を対象にした教育施設は、今のところキャルステン王国には一軒もない。
最初の一軒があれば、そしてその一軒が仮に実績を上げれば、他に追従する者が出てきてもおかしくはない。
そうなればクロネコの言う通り、長期的にはこの国の貧困層は減り、犯罪率も下がることだろう。
しかし、それは全てクロネコが本当のことを語っていればの話だ。
犯罪者が慈善事業に大金を注ぎ込むなど、容易く信用できることではない。
そんな侯爵の心情を読み取ったように、クロネコが口を開く。
「俺はかなり金を持っている。もちろん侯爵ほどではないが」
「何が言いたい?」
「金は持っているが、今のところ使い道が何もないんだ。ならばせめて、自己満足のために金を費やすことくらい構わんと思わないか?」
「……金など嗜好品にでも使えばよかろう」
「嗜好品に興味はない。そんなものよりは自己満足に投資するほうが、俺にとっては、文字通り満足できる金の使い方だ」
「ふむ……」
ヒゲン侯爵は、再度クロネコを見据える。
視線は最初から鋭いが、当初よりも疑念の色は薄まっている。
侯爵はクロネコのことを、少なくとも信用できない人間ではないと判断しているのだ。
ならば、あとひと押しだ。
「もちろん、侯爵の納得はまた別の話だ。だからこれを用意してきた」
「何だ?」
クロネコは折り畳んだ一枚の紙を、机に載せる。
安い羊皮紙ではなく、貴族が用いる上等な紙だ。
その紙の表には『決闘状』と記載されている。
「……何だこれは」
「侯爵ならよく知っているだろう」
「このワシに、決闘を申し込もうというのか?」
「ああ」
今ではすっかり廃れているが、昔のキャルステン王国には、貴族間で揉め事が発生した際に、貴族流の決闘で決着をつけるという風習があった。
しかし決闘ともなれば、互いに怪我をし、下手をすれば命を落とす危険性まである。
そうした事情から、昨今では貴族間の揉め事は金で解決することがもっぱらであり、決闘は一部の貴族が趣味で行う試合としてかろうじて形を残しているだけである。
「古き良き決闘だ。伝統を重んじる侯爵なら、文句はあるまい」
「……ほう」
ヒゲン侯爵の口元が釣り上がる。
血湧き肉躍るといった表情に変わりつつある。
「若い頃だが、ワシは何度も決闘を経験したことがある。懐かしいわい」
「負け無しだったのか?」
「無論だ。ワシを誰だと思っておる」
侯爵は立ち上がり、そのがっしりとした肩をいからせた。
「伝統を好むワシに、古き決闘を持ち出してきたことは褒めてやろう」
「では?」
「受けてやろう。貴様が勝てば、貴様のやることを見逃してやる」
「ついでに、爵位なしで土地を入手できるよう取り計らってくれ」
「ふん、不遜な要求だが検討はしてやろう」
クロネコは無表情を装ったが、内心では安堵の息をついた。
危うい場面もあったが、どうにか計画通りの話に持っていけたわけだ。
「しかし」
ヒゲン侯爵がぎろりと睨んでくる。
「貴様が負けた暁には、相応の処遇を覚悟しておくことだ。どうあがいても貴様が薄汚いネズミであるという事実は変わらんのだからな」
「恐ろしいことだな」
「侯爵であるワシに、あろうことか決闘を申し込んだのだ。首を洗って待っておれ」
言葉に反してヒゲン侯爵は機嫌が良さそうだ。
これはクロネコの予想だが、侯爵は会話の応酬や駆け引きよりも、肉体的にぶつかり合うほうが好きなのではなかろうか。
体格だけ見ても、日々の鍛錬を欠かしていないことが見て取れる。
わかってはいたが、腹に無駄な脂肪を溜め込んでいる多くの貴族たちとは、一線を画した人物のようだ。
「日時と場所はこちらで決めてやる。連絡を待て」
「わかった」
「では行け。それともベルを鳴らして追い出してやろうか?」
「そいつは御免だ」
クロネコはさっさと窓から脱出した。
ヒゲン侯爵は開いたままの窓から外を確認したが、黒い暗殺者の姿はもうどこにもなかった。




