カラスはがんばる予定
「最近のあなたは本当、傷だらけねえ」
クロネコの手当をしながら、カラスはため息と一緒に思ったことを吐き出す。
ここは暗殺者ギルドの医務室。
上半身裸のクロネコに、カラスが消毒したり軟膏を塗ったりしているのだ。
カラスの指摘通り、クロネコの身体は傷だらけだ。
肩や腕、胸、胴などにいくつもの裂傷や刺し傷がある。
深手がないのが奇跡に思えるほどだ。
「ヒツジ先生との戦いは死闘だったからな」
彼の口から激戦を思わせる単語が出るのは珍しい。
言葉以上にぎりぎりの一戦だったのだろうと、カラスは表情を曇らせた。
けれど、たとえかろうじてであっても、彼は勝利した。
最強と謳われたかつての師を打倒し、生きて戻ってきたのだ。
カラスにはそれが嬉しかった。
「クロネコ……。生きててよかった」
カラスは彼の背中に、そっと手を触れる。
日々鍛えているだけあり、筋肉がついて逞しい。
それも硬さ一辺倒のものではなく、実用性を兼ねたしなやかな筋肉だ。
「……」
クロネコは背中にカラスの体温を感じながら、黙っていた。
彼は別に鈍感な人間ではない。
彼女が自分に好意を寄せていることは理解している。
だが、クロネコから行動を起こすつもりはない。
相手から明確なアクションがあれば、それに対して回答を行うが、そうでなければ関与しないのがクロネコのスタンスだ。
彼は自分に火の粉が飛んでこない限り、他人が胸中で何を考えていようが大して興味はないのだ。
「むぅ……」
しかしカラスとしては、そんなクロネコの無関心ぶりがいささか面白くない。
有象無象の他人と比較して、ほんの少しだけでも、自分に興味を持ってほしいのだ。
「クロネコ……」
カラスはクロネコの背に、負担にならない程度にもたれかかった。
形のよい胸を、意図的にそっと押し付ける。
彼女は自分の容姿が優れていることを自覚しており、それが武器になることもわかっていた。
情報員としてその武器を利用することもしばしばあるのだ。
「カラス」
クロネコが振り返る。
「なぁに? クロネコ……」
2人の顔は、息がかかりそうなほどの距離。
「ああ、その」
「ええ……」
互いの唇が触れ合いそうなほど、近い。
「カラス」
「クロネコ……」
唇が――。
「そろそろ包帯を巻いてほしいんだが?」
「…………はい」
「一つ、気になっていたのだけれど」
「何だ?」
カラスは素直な疑問を口にする。
「ヒツジ先生、ナイフに毒を塗っておけばあなたを殺せたんじゃない?」
「そうだろうな」
疑問の余地はない。
ヒツジ先生に毒を使われていれば、クロネコは今頃、地獄の鬼でも暗殺していたことだろう。
「もしかして……。ヒツジ先生は、手加減してくれたのかしら」
「いや、彼女はプロフェッショナルだ。手を抜くことは考えられない」
「だったら」
「ヒツジ先生のポリシーだ。彼女は毒を使わない」
「……どうして?」
カラスは理解できない。
使って楽になるのであれば、使わない道理はない。
「毒を使えば、対象を楽に暗殺できる」
「ええ」
「だが楽な道に走れば、暗殺者としての技術が衰える。安易な手法を繰り返せば、いつしか技術を研磨する大切さを忘れてしまうと、ヒツジ先生は言っていた」
「そう……。だからあなたも、毒を使わない?」
「俺は必要に迫られれば使うが、そうだな……。概ね、ヒツジ先生の考えに同感だ」
いっときの利便性よりも、将来まで残る技術を磨き上げる。
そういうことだろう。
カラスは職人気質ではないのでそれを実践しようとは思わないが、考え方としては理解できる。
そして師の教えは、やはり弟子の血肉となって残るものなのだな、とも。
「さて、これでお終い」
「助かった」
カラスが包帯を巻き終えると、クロネコは上着を纏う。
あちこち痛みはあるが、行動に支障はない。
「本当は数日、安静にしていたほうがいいのだけれど」
「そんな時間はない」
「ヒゲン侯爵?」
「ああ」
カラスには事のあらましを伝えてある。
首謀者が侯爵クラスであることを聞いたとき、カラスは大いに驚いたものだ。
貴族に関してはクロネコより詳しい分、侯爵の地位にある人物が動いているという事実を、より重く受け止めたのだ。
「明日にもヒゲン侯爵の屋敷に乗り込みたい。これ以上、先手を取られるのは御免だ」
「どうするの?」
殺すのか、とカラスは問うている。
「そうだな……」
確かに殺せば早い。
最も手早く事態を収拾させ、後顧の憂いを断つ方法はそれだろう。
しかし、とクロネコは考える。
彼は別に、何が何でも殺して解決すればよいとは思っていない。
依頼があれば殺すが、それはあくまで殺しが利益を生むからだ。
今回の場合は、ヒゲン侯爵を殺したところで彼に利益はない。
クロネコが狙われているという問題は解決できるが、それはマイナスだったものがゼロに戻るだけの話だ。
「……」
それよりも、クロネコはまず別の手段を考える。
ヒゲン侯爵と接触し、何らかの交渉をすることで、利益を出すことはできないか。
問題を解決したうえで、プラスの何かを得るという都合のよい魔法はないものか。
「……クロネコ。私、調べてくるわ」
「何をだ?」
「伯爵が一人で屋敷……そうね、間違いなく自室にいる時間」
「そいつは助かる」
大いに助かる。
カラスなら一日あれば調べがつくだろう。
ヒツジ先生の脅威が去った以上、情報員のカラスに動いてもらわない手はない。
そして、実はカラスとしても思惑があった。
この一連の騒動は、クロネコに貸しを作るチャンスだ。
すでにいくばくかは力を貸しているが、ここで最後のひと押しをしておきたい。
クロネコは優秀な人材が好きだ。
だから自分は役に立つ人材だとアピールすることも目的だが、もちろんそれだけではない。
彼に充分な貸しを作ることで、例えば昼食を奢ってもらうだけでは済まさずに、丸一日のデートにまでこぎつけるのだ。
リンガーダ王国での依頼でもデートはしたが、あれは依頼の最中ということもあり、また準備不足や不運も重なり、成功したとは言い難い。
今度こそクロネコに自分を意識してもらう。
今度こそカラスはがんばるのだ。
そんな彼女の胸中など知らず、クロネコは考えをまとめていた。
やはり交渉から入るべきだ。
要するにヒゲン侯爵は、犯罪者が貴族の仲間入りをするのが気に入らないのだ。
その一点をどうにかすれば、充分に話し合いは成立すると踏んでいる。
もちろん、交渉が決裂した場合はヒゲン侯爵にとって不幸なことになる。
だがそれは、クロネコにとっても他人事ではない。
侯爵の屋敷に侵入する際には、覚悟を決めておく必要があるだろう。
侯爵クラスの上級貴族を殺すということは、下手をすればキャルステン王国を敵に回すということなのだ。




