医務室
「……?」
クロネコは目を覚ました。
そして一瞬、自分がなぜベッドにうつ伏せに寝かされているのか理解できなかった。
首が凝り固まって、ずきずきと痛む。
かなり長い時間、一方向を向いていたのだろう。
視線を巡らせる。
ここは暗殺者ギルドの医務室だ。
そうだ。
自宅でヒツジ先生に襲撃されて、命からがら逃げだしたのだ。
うつ伏せに寝かされているのは、背中に受けたナイフの傷のせいだ。
暗殺者ギルドまで逃げ延びた記憶はあるが、その先を覚えていない。
しかし状況から察するに、誰かが医務室まで運んでくれたのだろう。
と、医務室の扉が開いて見知った人物が入ってきた。
「カラス」
「あら、クロネコ。おはよう」
彼の意識が戻って安堵したのだろう。
カラスはほっとした表情で、ベッドの脇まで歩いてきた。
「医務室にはお前が?」
「ええ。びっくりしたわ。ギルドの入口に誰かが倒れていると思ったら、あなただったから」
「そうか、手間をかけた」
「気にしないで」
カラスはサイドテーブルに包帯や薬品を置くと、クロネコの背中に手を触れる。
「具合はどう?」
「生きている」
「当たり前でしょ」
カラスは「ちょっとごめんね」と声をかけてから、クロネコの上半身に巻かれた包帯を解いていく。
やがて現れた背中には、ナイフの刺し傷。
出血は止まっていても、当然まだ塞がり切っていない。
「以前も思ったけれど、あなたって顔は平凡なのに筋肉質よね。よく鍛えられているというか」
「身体が資本の仕事だからな。それより傷の手当てもお前が?」
「ええ。この医務室も、医者を常駐させればいいのにね」
このギルドは、医務室には医者が常駐していないくせに、火葬場には管理人が常駐している。
全く暗殺者の巣窟らしいわ、とカラスは思った。
「綺麗な刺し傷ね。化膿もしていないし、これなら心配なさそう」
カラスはクロネコの背中に消毒液と軟膏を塗ると、ガーゼを貼ってから新しい包帯を巻き直す。
クロネコは黙って手当を受ける。
しばらく医務室に会話のない時間が流れる。
ふとクロネコは、カラスの目が僅かに赤いことに気がついた。
寝不足の人間の目だ。
「……」
カラスは何も言わない。
だからクロネコも、強いて言及しないことにする。
代わりに。
「カラス」
「なあに?」
「今度、昼飯でも奢る」
「そう?」
「ああ」
カラスはクロネコのを顔をじっと見て、それからにっこりと微笑んだ。
「聞きそびれていたが、俺は何時間寝ていた?」
傷の手当てが終わると、クロネコはベッドから上半身を起こした。
彼を支えようとするカラスを手で制する。
カラスは小さくため息をつく。
「何時間というか、一日半くらいね」
「長いな」
「浅い怪我ではないもの」
その通りだ。
下手をすれば命を落としていた可能性があったことは、クロネコ自身よくわかっている。
「俺が寝ている間、ハゲタカの奴から何か連絡はなかったか?」
「ないと思うけれど……」
「いや、あったぜ」
唐突に野太い声が割り込んできた。
医務室の入口を見ると、ハゲのマスターが封筒をひらひらさせていた。
「ハゲタカからお前宛に手紙が届いてる。中身はまだ読んでねえ」
「見せてくれ」
「その前にだ。状況を説明しろ、クロネコ。お前がそれほどの怪我を負うなんざただ事じゃねえ」
クロネコはマスターからカラスに視線を移す。
カラスも事情を聞きたそうにしている。
クロネコは息をついてから口を開いた。
「ヒツジ先生が生きていた」
「……何い?」
マスターのいかつい顔が驚きに歪む。
反対にカラスはきょとんとした表情だ。
「……ヒツジ先生って、あの”静かな人”のこと?」
「知っているのか?」
「面識はなかったけれど、有名だったもの。あなたの先生とは知らなかったけれど」
マスターは驚きのあまり、髪のない頭を何度も撫でつけている。
「おい、クロネコ。そいつは確かなのか?」
「実際に刃を交えたから間違いない。彼女はヒツジ先生だ」
「そりゃあまた……」
マスターは苦虫を噛み潰したような顔をする。
無理もない。
かつてヒツジの死亡を認定した身としては、胸中穏やかではいられまい。
「お前が狙われているってえ報告は受けていたが、まさかヒツジの奴が生きていて、しかも出張ってくるとはなあ」
マスターはバツの悪そうな表情をする。
生きていたはずのクロネコの師を、捜索できなかったことに対する罪悪感だ。
「ハゲ」
「……何だ」
「気にするな。当時の判断が誤りだったとは思っていない」
「……そうか」
マスターは一度咳払いをすると、封筒を差し出してきた。
受け取るクロネコ。
封を切って中身を読む。
「何が書いてあるの?」
身を乗り出してくるカラスに、クロネコは手紙を無造作に手渡す。
「えぇと……。ゴロツキをけしかけた人物はヤーセン子爵で、彼と組んでいる可能性が高いのがデーヴ伯爵……。そしてその2人の後ろに黒幕がいる可能性がある……」
カラスが手紙を読み進める間、クロネコは目を閉じて何かを考え込んでいた。
「さすがハゲタカね。短期間でここまで調べ上げるなんて……。クロネコ?」
有力な情報を得られたにも拘らず、クロネコの表情は硬い。
「ハゲ」
「あん?」
「その手紙の後、ハゲタカから連絡は?」
「それがなあ。どうしたことか、連絡が取れねえ。まあハゲタカの奴に限って心配は……」
「いや」
クロネコは低く息を吐く。
「ヒツジ先生は俺を襲撃する前に、すでに誰かを殺してきたようだった」
「誰かって……まさか?」
口元を手で覆うカラス。
マスターが渋い顔をする。
「確認はしていないが、恐らくハゲタカは始末された」
「そんな……」
カラスの表情が青ざめる。
彼女にとってハゲタカはただの同僚であり先輩だ。
しかし信頼できる人物であったし、彼女なりにハゲタカのことを慕っていたのだ。
「……一応、捜索はさせるが」
言葉を切るマスターに、クロネコが頷く。
「ヒツジ先生が始末したとなれば、恐らく死体は出てこないだろう」
「そうだな……」
マスターにとっても、ベテランの情報員を一人失ったことになる。
ギルドにとって大きな損失だ。
「……」
クロネコは拳を握り締めた。
ヒツジ先生の登場は、誰が予想できたことでもない。
しかしそれでも、彼が依頼などしなければ、ハゲタカが巻き込まれることはなかった。
ハゲタカの死は、どう言い繕ってもクロネコの責任だ。
有能な情報員を失ったこと以上に、クロネコは自分の迂闊さに怒っていた。
「クロネコ」
そんな彼の思考を中断するように、マスターが険しい顔で見据えてきた。
「お前、ヒツジの奴に勝てるのか?」
そう。
結局、問題はそこだ。
”静かな人”と呼ばれた熟練の暗殺者。
かつての師をどうにかしなければ、彼に未来はない。
「ヒツジ先生は衰えていなかった」
「つうことは」
「暗殺者としての技量では勝てない。正面戦闘で果たしてどうかと言ったところだ」
「……そうか」
クロネコは自分に怒ってはいても、現状を冷静に分析できている。
その様子を見て取って、マスターは安心した。
そんなマスターを尻目に、クロネコは思考に耽る。
暗殺者として勝てないということは、次に遭遇すれば殺されるということだ。
ならば早急に策を練らねばならない。
だが策を練ったからといって、勝てる保証はない。
クロネコはそういう不確定な戦いに、わかっていながら身を投じなければならない。
仮に逃げたところで、いつまでも逃げ切れるものではない。
ヒツジ先生は、彼より手練れなのだ。
仕事が多忙なため、更新が不定期になっております。
お待たせしてしまい誠に申し訳ございません。




