女暗殺者 VS クロネコ
深夜。
クロネコは自室でふと目を覚ました。
違和感を覚えたのだ。
ともすれば見逃しそうなほどの僅かなそれは、彼の意識を覚醒させるには充分だった。
――微かな血臭。
嗅ぎ慣れた、しかしこの家では決して嗅ぐことのない臭い。
つまりは血の臭いを纏っている何者かが、この家にいることになる。
それに思い当たって、クロネコは肌が泡立った。
枕の下から非常用のナイフを引っ張り出す。
同時にぱっと寝返りを打つ。
一瞬前まで彼が寝ていたベッドに、ナイフが突き立った。
この家どころか、すぐそこにいる。
いつの間にこの部屋に、それも気配すら感じさせずに侵入したのか。
クロネコはベッドの上で振り返りながら、当てずっぽうで裏拳を放った。
当たらない。
避けられた。
続けてクロネコは、手に持つナイフを勘で翳した。
当てずっぽうではない。
仮に相手が一撃必殺を狙うならこの位置だろうと予測してのガードだ。
刃と刃が打ち合う小さな金属音が鳴った。
クロネコはそこでようやく、ベッドの上で膝立ちとなった。
暗闇の中で相手の姿を確認する。
上から下まで黒い。
覆面のせいで顔はわからないが、身体つきからして女だろう。
両手にナイフを携えている。
夜目が効くクロネコは、そのナイフに黒塗りの加工がしてあることを見て取った。
となればプロの暗殺者である可能性が高い。
――まずい。
クロネコの背筋を冷たいものが伝う。
目の前にいるにも拘らず、この女暗殺者は驚くほど気配が薄い。
そもそもクロネコをして悟られずに、寝室にまで侵入を許すほどの手練れだ。
暗殺者としての力量で、クロネコを上回っている可能性がある。
そんな彼の思考を中断するかのように、女が動いた。
踏み出す一歩は、ここが木の床であるにも拘らず無音。
軋みの一つすら立てない。
右からクロネコの腹部を狙うナイフ。
風切り音さえない静かな一撃。
「――!」
クロネコはナイフで受けようとしたが、咄嗟に思い留まった。
後退して避ける。
すぐ背後は壁なので、背が壁に触れそうだ。
そこに左から、脇腹を狙う二撃目。
一撃目とは異なり、明らかに鋭い一閃。
クロネコはこれをナイフで受け止めた。
最後に三撃目。
闇の中で弧を描くように、音もなく喉に迫ってくる。
クロネコは上半身を仰け反らせ、これを避けた。
クロネコは顔をしかめた。
首筋に痛み。
浅い。
だが避け切れなかった。
クロネコは低く息を吐いた。
避けたと確信した攻撃が、避けられなかったのだ。
このままナイフ一本で凌ぎ切るのは厳しい。
「……」
それに、何より。
クロネコを動揺させているのは、今のコンビネーションだ。
一撃目に腹部へのフェイント。
二撃目に本命の脇腹。
三撃目にトドメの喉。
二刀のクロネコが得意とする必殺の攻撃だ。
かつてリンガーダ王国での依頼では、憲兵隊の女隊長をこれで葬ったこともある。
このコンビネーションは、クロネコが師から教わったもの。
なぜ目の前の女暗殺者が、それを使えるのか。
つまりは。
「ヒツジ先生……?」
クロネコの問いに、目の前の女は応えない。
ベッドに足を乗せて、更に踏み込んでくる。
クロネコの背後は壁だ。
逃げ場はない。
だが彼とてただ動揺していたわけではない。
クロネコは足元のベッドシーツを掴むと、思い切り引っ張った。
「――!?」
足場がずれて、女暗殺者はよろめいて後退した。
今しかない。
この場においてクロネコは、初めから不利な状況で戦わされている。
相手が本当にかつての師なら、戦闘を継続しても勝ちの目はない。
クロネコは部屋の片隅にある武器箱へ、ちらりと視線を送った。
戦闘用のダガーが収納してある箱だ。
女暗殺者はその視線を見て取ると、武器を確保させまいと立ち位置を変える。
ここだ。
窓への道がひらけた。
クロネコは一直線に駆けた。
足音を立てての全力逃走だ。
かつての師から見れば、さぞ無様な走り方だろう。
だがそんなことはどうでもいい。
大切なのは死なないことだ。
女は当然、すぐに追いすがってくる。
もう一手必要だ。
クロネコは唯一の武器であるナイフを、躊躇なく女の足元に投げつけた。
女はそれを手に持つナイフで弾き飛ばす。
一瞬、速度が落ちた。
クロネコは肩から窓に突っ込み、そのまま窓を破って外に飛び出した。
裏庭に着地した瞬間、背中に鋭い痛みが走る。
確認するまでもない。
女が投げたナイフが突き刺さったのだ。
抜けば出血する。
クロネコは背中のナイフをそのままにして、駆け出した。
女はすぐさま追ってくるだろう。
だがこのあたりの地理については、クロネコに分がある。
クロネコは入り組んだ裏路地に入り、必死の逃走を始めた。
背中の傷が熱を持って痛む。
痛みが呼吸を阻害し、息が乱れる。
だが、体力が尽きるまで走り続けなければならない。
クロネコは脇目も振らずに駆けた。
追いつかれれば死ぬのだ。
ヒツジは窓から裏庭に、音もなく降り立った。
そして裏路地に入るクロネコくんの背中を見て、追うのを諦めた。
窓からナイフを投げたのが失策だった。
あれでクロネコくんに手傷は負わせたが、そのせいで追跡が一手遅れた。
何もせずシンプルに追いすがるべきだった。
いや、そもそも奇襲に失敗したのが彼女の落ち度だ。
気配を悟られたとは考えにくい。
ならば原因は臭いあたりだろうか。
ハゲタカの血で汚れた衣服はきちんと着替えたが、やはり血臭を完全に消すには至らなかった。
だがそれでも、普通の暗殺者に気づかれるほどではない。
成長したクロネコくんを褒めるべきだろう。
ヒツジは覆面を取ると、戦闘の直後とは思えない穏やかな表情で一息ついた。
色素の薄い銀髪を、さらりと後ろに流す。
そう。
クロネコくんは成長した。
師である自分の暗殺を、不利な状況であっても凌ぎ切るほどだ。
もうかつての未熟だった弟子とは違うのだ。
だがそれでも、今夜の邂逅を経て彼女は確信した。
暗殺者としての力量は、まだ自分のほうが上だ。
本来であれば暗殺者の仕事に二度目はない。
だが、こと標的が最強の名を冠する人間となれば、一度の失敗は多目に見てくれないかなあと思った。
だってクロネコくんは強いんだもの。
ヒツジは2階の窓を見上げる。
彼の武器箱を回収してしまおうかと考えたが、やめた。
どうせ暗殺者ギルドに戻れば、代わりの武器などいくらでも用意できるのだ。
かつてギルドに在籍していた身としては、組織に所属していることの恩恵はよく知っている。
「戻りましょう。失敗の報告をしなければ」
そう穏やかに呟いて、ヒツジは音もなくその場から立ち去った。