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暗殺100人できるかな 第二部  作者: 湯のみ
第1章 ― 新人育成編 ―
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暗殺者は夜に来る

 キャルステン王国の一領地に、ボルシッチ子爵の屋敷がある。

 さほど大きくもなく、子爵としては平均的な屋敷だ。


 すっかり夜も更けた頃。


 その屋敷の2階で、口髭を蓄えた中年の男がデスクに向かって書き物をしていた。

 ボルシッチ子爵だ。


 今、キャルステン王国の経済は右肩上がりの真っ最中だ。

 隣国2つを立て続けに侵略して領土が一気に拡大したおかげだが、それゆえの問題も発生していた。

 貴族間の領土の取り分けで、不正が行われているのだ。


 貴族と腐敗、不正は切っても切れない仲だ。

 自身が貴族である以上、ボルシッチ子爵もそのことはよく理解している。

 実際、平時であれば些細な不正にいちいち目くじらを立てることはない。


 だが戦争が行われた結果の領土拡大となれば話は別だ。


 通常、領土分配は戦争で功績を残した者に対して行われる。

 そして分配される領土の広さは、概ね功績の多寡に比例する。


 しかしここで一部の上級貴族が不正を行い、自分たちに有利なように領土を取り分けていた。

 つまり戦争に参加していない貴族や、僅かな功績しか挙げていない者に対して、過剰な分配が行われているのだ。


 力のない貴族であれば泣き寝入りするしかないが、幸いボルシッチ子爵にはある程度の発言力があった。


 しかし発言力があろうとも、不正の証拠がなければ話にならない。

 だからボルシッチ子爵はこうして、独自に調べ上げた不正の証拠を、せっせと書類にまとめているのだ。


 と、そこで扉がノックされた。


「誰かね?」

「私です、お父様」

「アントワーネか。入りなさい」

「失礼します」


 静かに扉を開けて、年頃の娘が入ってきた。

 すらりとした美しい容姿をしている。

 三女のアントワーネだ。


 ボルシッチ子爵は知らず目元を和らげた。


 ボルシッチ子爵は3人の子をもうけたが、いずれも女児であった。

 長女と次女はすでに他の貴族家へ嫁いでおり、妻とは死別しているため、屋敷に残っている家族はこの三女だけだ。


「どうしたね」

「お父様に夜食を持ってきました」

「おお、そうか」


 アントワーネは控えめだが、よく気が利く娘だ。

 ボルシッチ子爵はそんな彼女のことを大層可愛がっていた。

 いずれ他家に嫁ぐことを考えると物寂しいが、それでもアントワーネには幸せになってほしいと常々考えていた。


「お父様、こんな夜更けまで働きすぎですわ」

「不正の摘発は時間との勝負なのだ。それよりちょうどよかった。この書類の不備をチェックしてくれないか」


 休む様子のない父の姿にアントワーネは小さくため息をつくと、夜食を乗せたトレイをデスクに置き、書類を受け取った。

 彼女は貴族らしく高等教育を受けており、この父親の事務仕事も手伝っている。

 最近では、これら不正摘発のための書類をチェックすることが彼女の日課だった。


「お父様、修正個所をペンで直しておきますね。後ほど清書してください」

「うむ、助かる」


 アントワーネは父の健康を心配していたが、過度な口出しは控えていた。

 父の仕事の邪魔にはなりたくなかった。


 代わりに多少なりとも仕事を肩代わりすることで、父の負担を減らせればよいと考えていた。

 最近では会計の勉強にも手を付けている。


 いずれ嫁ぐ身だとしても、それまでは可能な限り父の助けになりたいと思っていた。

 アントワーネはここまで何不自由なく育て、高等教育まで受けさせてくれた父に感謝していた。

 この屋敷にいるうちに、ささやかでも恩返しをしたいのだ。


 実際、ボルシッチ子爵はアントワーネの力に助けられていた。


 上級貴族の不正の証拠をまとめた書類だ。

 迂闊に執事やメイドに触らせるわけにはいかない。

 その点、事務処理能力においても信頼性においても、アントワーネであれば申し分ない。


 ボルシッチ子爵は、アントワーネに全幅の信頼を置いていた。


「アントワーネ」

「はい、お父様」

「その……、何だ。いつも仕事を押し付けてしまって済まんな」


 言いにくそうに咳払いをする父を見て、アントワーネはゆっくりと首を振った。


「もっと私を使ってください、お父様」

「しかし」

「私がそうしたいのですわ」

「……そうか」


 微笑むアントワーネに、ボルシッチ子爵は胸が温かくなるのを感じた。


 良い子だ。

 いずれ最高の見合い話を持ってきてやらねばならぬ。

 今後アントワーネに苦労はさせるまいと、ボルシッチ子爵は密かに決意した。


「……あら?」


 そんな父の胸中を知らないアントワーネは、ふと首を傾げた。

 カーテンが揺らいだのだ。


「お父様、夜は窓を閉めてくださいとあれほど……」


 アントワーネは言葉を止めた。

 身体が強張った。


 いつの間にか。

 一切の音もなく。


 窓際に、黒ずくめの男が佇んでいた。




 室内に降り立ったクロネコは、2人を見比べた。


 デスクに座っている口髭の男がボルシッチ子爵。

 するともう片方の女は、娘のアントワーネだろう。


 事前情報の通りだ。


「く――」


 曲者、とでも叫ぼうとしたのだろう。

 ボルシッチ子爵は、しかし二の句を告げることができなかった。

 彼の喉元には、すでにナイフが突き刺さっていた。


 ごぼりと口から血を流し、ボルシッチ子爵は椅子にもたれかかって絶命した。


 クロネコは目を細めてアントワーネを見据えた。

 彼女は青ざめた顔で、びくりと身を竦ませた。


「騒げば殺す」


 クロネコは冷たい声色でそう告げ、続いて柔らかな声に変える。


「だが大人しくしていれば、命は助ける」


 アントワーネは恐怖とショックで身体を震わせている。

 無理もない。

 目の前で父親の死を見せつけられ、かつ自身の命も脅かされているのだ。


「この場で死ぬか、命だけは助かるか、どちらがいい?」


 言葉の意味を理解させるため、クロネコは努めて穏やかな声質で、重ねて問うた。


「あ……」


 アントワーネは恐怖と混乱で頭が真っ白になっていた。

 しかし目の前の賊が発している言葉の意味はわかる。

 騒げば殺される。


 反射的に喉から飛び出しそうな悲鳴を、必死にこらえた。


 死にたくない。


 そして死ねない。


 認めたくはないが、父は死んだ。

 殺された。

 ならば自分まで後を追うわけにはいかない。


 自分が死ねば、この屋敷でいったい誰が可哀想な父を弔うというのか。

 この屋敷に残っている家族は、もう自分だけなのだ。


「し……死にたく、ない……です」


 アントワーネは歯をかちかちと鳴らしながら、かろうじてそれだけを答えた。

 それを聞いて、クロネコは満足そうに頷いた。


「貴族の不正をまとめた書類を、全てここに出せ」


 クロネコの言葉に、アントワーネは咄嗟に動けなかった。

 全身が完全に強張っていたのだ。


 クロネコがナイフの切っ先を、アントワーネに向ける。

 それを見て、彼女は弾かれたように動いた。


 デスク上の書類をかき集め、引き出しから書類を取り出してそれに重ねる。

 急がなければ殺されるとでもいうように、アントワーネは切羽詰まった動作で書類をまとめた。


「それで全てか?」


 アントワーネは涙目で、必死にこくこくと頷いた。

 恐怖のあまり言葉を発することができなかった。


「本当に?」


 クロネコの冷徹な視線に、アントワーネは先ほどよりも必死に頷いた。

 信じてもらわなければ自分も殺されてしまう。

 彼女の目から、ぽろぽろと涙が零れた。


 クロネコはそんなアントワーネの様子を見て、嘘はないと判断した。

 デスクの上に積まれた書類の束を、持っていた手提げ袋に押し込んだ。


 その様子を見て、アントワーネはほっと息を吐いた。

 賊の目的が不正の証拠であるならば、それさえ持ち帰れば満足してくれるだろう。


 殺された父のことを思うと、とても喜ぶ気にはなれないが、それでも命が助かるという安心感が心を占めた。


 クロネコはアントワーネを見た。

 彼女の身体が恐怖に竦む。


 クロネコは柔らかく笑みを浮かべた。

 アントワーネは安堵して、強張っていた肩から力を抜いた。


 クロネコはアントワーネの喉に、ナイフを突き刺した。


 彼女は大きく目を見開き――。


 程なくして、その目から光が失われた。


「さて、仕事は終わりだな」


 何事もなかったかのように、クロネコはアントワーネの亡骸を床に放り出した。

 喉から流れる血が彼女の胸を真っ赤に染め、床に血溜まりを作った。

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