誰も知らない柔道家 5
毛は茶褐色で時折、金色に光る毛が混じり、胸間から背中にかけて白斑が弓状に綺麗に引かれた大きな羆だった。
その岩のように大きな体は遠くからでも異様な迫力がある。
爪の鋭さはサバイバルナイフのようで、その長さは皮膚を突き破り内臓に届くほど長い。
時折見せる牙は太く頑丈だった。
羆が田賀に向かって咆哮を上げる。
内臓に直接響かせるその咆哮は周りの木々さえも震わせた。
鹿などの草食動物に限らず、熊や猪などの雑食、ライオンなどの肉食動物も含めて皆臆病である。
森で他の動物などに出会うとまず逃げる。
しかし、この羆は逃げなかった。
腹が減っているのか、虫の居所が悪かったのか、逃げない理由は様々であるが、この羆は「人間の味」を知っていた。
野生の熊はドングリなどの木の実を食べる草食寄りの雑食である。
しかし、手軽に高カロリーの食べ物を得られるようになるとそれしか口にしなくなる。人間を食べた熊は人間しか食べなくなるのである。
アイヌでは人間を食べる羆は神に嫌われ、呪われるという言い伝えがある。
呪われた羆は田賀を見ても“餌”として認識するだけであった。
咆哮を上げた羆が立ち上がる。
体を大きく見せることで相手を威嚇し怯ませる、動物行動生理学としてそれもあるかもしれないが、羆は他に敵がいないかを確認しているのだ。
立ち上がった羆の体長は二メートル五十センチ以上あった。体重は二百キロをゆうに超え、三百キロに達している。
田賀はまだ距離があるにも関わらず羆を見上げた。
前脚を地に着けた瞬間だった、その巨体で十メートルの距離を一気に詰めてきた。
三百キロの塊が時速五十キロで突進してくる。車よりも恐ろしいものが音を立ててながら襲い掛かる。
田賀は直進してくる羆を飛んで躱した。
羆は短距離ならば野生の鹿を軽く置き去りにするほどの瞬発力がある。
そのまま当たれば、猛スピードで向かってくる車に轢かれるようなものであった。
躱された羆が向きを変えて田賀の前に立ちはだかる。
横断歩道に設置されている信号機は二メートル五十センチメートル以上の高さで設置しなければならない。
遥か上を見上げる田賀の目の前にいる羆はそれ以上に高さがあった。
ハンターは熊の眉間を狙うという、田賀も眉間、もしくは目や鼻を狙おうとしていた。しかし、頭部への攻撃は届くはずもなかった。
出会ってしまった田賀には逃げることも許されず、始まった闘いは止まるはずもなかった。
考える暇も無い。
右前脚で襲い掛かる。
目の前を黒い巨大な影が通り過ぎた。巨大な前脚だ。
その攻撃を寸でのところで田賀が躱す。
前脚の攻撃を間一髪で躱した瞬間、羆はその巨体で覆い被さるように田賀に倒れ込んだ。
約三メートルの巨大な壁が崩れるような感覚であった。
三百キロの巨体がそのまま地面に倒れると地面が揺れて土が舞った。
田賀は潰されてはいなかった。
瞬間的に田賀は真横に飛ぶように前回り受け身をしていた。
前回り受け身などの回転運動は回転した後、そのまま立ち上がり距離を取って直様、態勢を立て直すことができる。
先程までの嬉々とした様子など田賀にはなかった。
羆の荒い呼吸よりも更に凶暴な羆の目が田賀を見据える。
実際に対峙してその野生を感じた田賀は身体中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
身体中をある感情が支配する。
それは恐怖だった。
もし羆の巨大な前脚での攻撃をガードしていたら、まともに立っていられなかっただろう。
そのまま直撃していたら、首が飛ぶか、爪が顔面を抉っていた。
嫌な汗は止まらなかった。
動物の爪と牙は頑丈で、木を簡単にへし折ることができる。
人の力ではその爪も牙も破壊することはできない。
太く頑丈で鋭い牙や爪が人間に襲い掛かれば、人間は激痛と外傷性筋肉痙攣で力が抜けて簡単に羆の餌食となる。
羆が繰り出すその前脚の一撃の破壊力はライオンの首をへし折るほどの殺傷能力がある。
羆がいかに恐ろしいか田賀は肌で感じていた。
恐ろしいほどの野生の力は恐怖でしかなかった。思わず目を逸らしたくなる衝動を抑えるのに必死だった。
それではいけない。見なければいけない。どんな恐ろしい攻撃も見なければ躱せない。
田賀の心に闘志が燃え上がる。
「うおぉぉぉぉー! 来いやっ、おらぁぉー!」
田賀の咆哮と共に羆が襲い掛かる。
四足歩行で移動する動物はその首を支えるために頸椎が太い。
羆の頸椎も太く頑丈である。
人間が簡単に脳震盪を起こすのは、細い頸部が大きな頭を支えただけの不安定な状態だからである。頭部が揺れやすいのだ。
一方で羆などの動物は肩や胸の肉が厚く、骨が太い。そして、鋭利な刃物でも中々傷付かない分厚い毛皮がある。脳震盪など起こさない。
人間ならばカスっただけで死んでしまうほどのライフル弾を受けても、羆は止まらずに襲いかかるほどのタフネスを有している。
それに比べ、やはり人間は極めて脆弱な構造をした動物なのである。
鋭い爪もなければ、頑丈な牙もない。簡単に傷付く皮膚は暑さや寒さにも弱く、骨組みや筋肉に至るまで、他の動物と比べるには申し訳が立たないほどに脆弱なのだ。
そんな肉体的な差を少しでも埋めるための物が柔道にはあった。
それは柔道着である。
格闘技にはその“ルール”に適した着衣がある。
それは長年の歴史により、その運動に適するように変化した物である。
柔道着は殊更頑丈に作られている。
分厚い生地は破れず、その耐久性は刃物を通さない。
ジーパン生地とは比べ物にならないほどに頑丈である。
そして、それ程の素材にも関わらず運動機能を損なわないのだ。
柔道着は頑丈で優れた鎧である。
しかし、田賀はあえて裸を選んだ。
羆の爪や牙は持って生まれた武器である。
少しでも油断があり迷いや不安があれば、爪や牙の餌食になるにも関わらず、田賀は自分の持って生まれたもので勝負したのである。
この闘いは生物の垣根を越えた雄同士の闘いである。
田賀の体も常軌を逸していた。
丸太のように太い腕、サラブレッドのような逞しい太腿、そして、野生の動物にはない高度な武術がある。
羆が再び脚を地に下ろし、頭を下げて突進した。
田賀が迎え討つように前進すると、羆は鋭い牙を剥いて口を大きく開けた。
その瞬間、羆の下顎を蹴り上げた。米俵を蹴ったのかと勘違いしてしまうほどの感触だった。田賀の攻撃は止まらない。
間髪入れずに田賀が繰り出したのは正拳突きだった。そして、ワン・ツーのように右手を引くと同時に左手で羆の目を突く。
眉間ではなく、鉄板を殴ったかのような感触が田賀の右拳に残る。
羆の動きが一瞬止まるが、更に凶暴さを増して、田賀に襲い掛かる。
羆が立ち上がると、田賀は羆の頭部を狙えなかった。
羆は咬みつくか、爪で抉るか、覆い被さり潰すしかない。
田賀は鉤爪のある熊手の内側に飛び込んだ。
羆の息が掛かる気がした。
羆は懐に入る田賀に対して案の定、咬みつき、潰そうと倒れ込もうとした。
田賀が羆の重心よりも下に潜り込む。
田賀の太腿、脹脛、下半身がパンパンに膨れ上がる。
そして、羆の前脚を根元から掴むと一気に引き、一瞬にして投げ飛ばした。
渾身の背負い投げだった。
田賀のトレーニングは常軌を逸している。
使う物は胴板厚、天地厚が共に二ミリの容量三百リットルのドラム缶である。
中身の入った三百リットルのドラム缶をパワースナッチでひたすら持ち上げる。
中身を満タンに入れたドラム缶は液体が中で暴れ、激しく揺れ動く。
上半身だけではなく、取り分け、下半身が鍛え込まれていた。
無謀とも言えるトレーニングが生んだ普通では有り得ない膂力である。
羆は投げ飛ばされ、頭部と背中を痛打した。
起き上がる羆はよろけた。羆もノーダメージではなかったことが伺える。
人間では瀕死に値するような異常な腕力で急所を殴ったのである、当然といえば当然であった。
田賀は羆が三度立ち上がるのを待った。
「ボェッ、ボェッ」
羆は苦しそうだが、強勢に田賀に迫った。
田賀が羆との距離を見極めながら華麗に躱す。
そして、羆が立ち上がると田賀が羆の左の前脚を掴んで引き落とした。
反射的に田賀の腕に咬み付くが田賀の手は羆の左前脚を離れていた。
四足歩行をする動物の前脚の関節部分の可動域は狭い。
田賀はいつの間にか羆の右前脚を掴まえていた。内側へ捻った熊手、田賀は顔と肩で前脚を挟んだ。
田賀の頬に羆のごわごわとした剛毛の感触が伝わる。
田賀が肩と首で熊手を固定すると前足の肘関節部分に左腕を添えた。
それだけで今まで開いたことのない、可動域の限界を超える広さまで前脚が開いた。
複数の骨から成る前脚の骨組みはまるで一本の棒のように真っ直ぐになった。
田賀がそこへ間髪入れずに体重を掛けた。
ボゴッ。
鈍い音と共に羆の悲痛なる咆哮が辺りに響く。
続け様に羆の咽頭に手刀を打ち込むと羆は苦しそうに吠えた。
羆の右前脚の力は失われた。
人間の腕力など遠く及ばない羆の腕力。人一人なら簡単に振り払うことのできる力を持っていたはずだった。
左腕で正確に羆の前脚の関節部分を捉え、首と肩で器用に挟み、角度、タイミング、力の入れ方に至るまで全てを的確に素早く極めたからこそ、田賀の力があったからこそ、羆の前脚を破壊できたのだ。
人類で初めて野生の羆にストレートアームバーを極めた瞬間だった。
あまりに人間離れした業である。
「柔道家に組み合いを挑んだらダメだよ」
羆が初めて後退して田賀から離れる。
しかし、羆は前脚の自由が効かないため体を支えることが出来ず、そのまま地面に伏した。
この時点で田賀と羆の決着はついていた。
「ボェッ、ボェッ、ボェッ」
苦しそうに吠えながら、羆は田賀から逃れようとした。
必至に体を起こそうと、踠いている。
その姿は死に物狂いで、逃げることに全てのエネルギーを使おうと暴れていた。
その為、田賀を見ていなかった。
田賀は前方にはいない。
羆が田賀に気付いたのは背後からの殺気を感じた時だった。
田賀が羆の後方から斜めに押す様に蹴ると羆は簡単につんのめった。
短い膝関節の上に乗りながら、足首を掴むと一瞬で持ち上げた。
「ボォォォーっ!」
羆の後ろ脚を破壊すると羆はその場から逃げることが出来なくなった。
羆は無我夢中で田賀に襲い掛かった。
前脚が破壊されようが、後脚が破壊されようが、立てなくなろうが、歩けなくなろうが、諦めることは死を意味することだと理解していた。
生にしがみ付く野生の本能に田賀は歓喜した。
既に首しか動かさない羆の破壊されている前脚を蹴り上げた。
怯んだ羆の動きが鈍る。
動きの止まった羆の眉間を何度も踏み潰す。
鉄板のように硬い羆の頭部に田賀の踵が減り込む。
田賀は何度も何度も踏み付けた。
羆が体を丸める。
こうなってくるとデカいぬいぐるみのようで可愛く思えてきた。
「逃げる姿は人間と一緒なんだな」
田賀が羆の後頭部と腰元の毛皮を乱暴に掴み一気に持ち上げる。
柔道では肩車という技がある。
相手を背面からではなく、正面から持ち上げて投げる技である。
田賀は羆を背面から持ち上げた。
自重の三倍以上もの重さがある羆を一瞬で持ち上げる瞬発力と、片腕片足が動かないとはいえ、頭上で暴れる羆を静止する筋力とバランス感覚は圧巻であった。
巨大な岩を持ち上げるような田賀の姿はまるで平安の世に生まれた怪力を持つと言われる坂田金時や仁王の伝説のようであり、その姿は神々しくもあった。
人間の場合、他の脊椎動物と大きく異なる点が一つある。
それは、二足歩行のために背骨が縦に重なり、垂直に重力の影響を受けているため、重力に耐え得る特殊な構造をしている点である。
四足歩行の動物は常に前傾姿勢で重い頭部を支え続けるために頸部が異様に太く頑丈である。
人間の細い首と熊の太い首、どちらが簡単に折れるかなど考えるまでもない。
しかし、頑丈でも付け入る欠点はある。それは可動域の狭さだった。
「楽しかったよ」
これは成敗である。
田賀の頭上で羆が海老反りのような形になる。
四足歩行の動物はもともと頚椎や腰椎、脊椎が曲がっているが、可動域が狭いため、反対に曲がることを嫌う。
通常、頭部を弓状の太い頸部が支えている。
竹がしなる様に内側への歪曲は柔軟性があるが、逆方向へは可動範囲が狭い。
田賀が持ち上げた羆の頭部を首元が広がるように反対に向ける。
田賀がこれからすることは担ぎ上げた羆を投げ落とす、もしくは、木に叩きつけるだけである。
柔道は地面やその場の地理的条件が武器となり、柔道という武術がその真価を発揮するのはアスファルトで行うストリートファイトである。
落とし方次第では全ての技が文字通り一撃必殺の技となる。
タイミングをズラして相手を投げる際、巻き込みながら、自らの体重を乗せることにより、相手を死に至らしめるほどの一撃必殺の技となる。
それは空手家が言う一撃必殺という言葉が子供の児戯に等しくなるほど強烈なものだ。
それだけではない。
まさに落とし方にある。
三百キログラムという巨体を頭から落とす。
背面から担ぎ上げることで相手の脱出を防ぎ、これ以上は曲がらないという限界値まで首を曲げた状態で落とす。
持ち上げた状態の二メートルの高さから落とし、その衝撃を頸部の一点に集中させる。太く頑丈な頸部もその衝撃に耐え得ることなど出来ない。
その落とした衝撃により頸部と頭部を同時に破壊する為に田賀が編み出した防御不能の必殺の技だった。
その技を田賀は『夜叉落とし』と名付けた。
田賀が軽く息を吸い込む。
夜叉とは仏典で人の悪心を表し、羅刹と並び、人を傷つけて人肉を食う悪鬼でもある。
これは成敗である。
遠くで鈴の音が聞こえる。
羆を探す討伐隊が黒い影を見付けた。
「おいっ! こっちさ来てみろ!」
その姿を見た者たちは一様に驚いた。
三メートル近くもある羆の死骸が横たわっていた。
羆の頭部近くに窪みがある。その最深部は二十センチメートル以上も凹んでいた。
絶命した羆はまだ温かかった。
羆の死が人の手によるものであることは明確であった。
翌日、短くはあるが人食い熊のニュースが全国に流れた。
そのニュースでは地元の猟師に射殺されたと報道された。
秋田県の人喰い熊事件の幕は閉じ、これが真実とされて事件は解決となった。
それから村では恐ろしい噂が流れた。
水晶山には天狗が出ると。




