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群雄  作者: 元馳 安
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誰も知らない柔道家 4




 柔道家石丸が柔道界を離れた時、男は事前に引退の話を石丸本人から聞いていた。唯一、男が連絡を取れる相手が石丸だった。


 石丸は十九歳という若さで金メダルを獲得し、日本の柔道界の将来を期待されていた。


 最重量級で金メダルを取った石丸の将来は約束されたようなものだった。


 しかし、翌年にはまさかの引退を発表し、総合格闘家としてデビューした。


 石丸の謎の行動に周囲の者は唖然とした。

 大学、監督、そしてスポンサーだけでなく両親、親族までもが当然のように引退を引き止めた。


 柔道界では将来を約束されていたのにも関わらずである。



「柔道で一番強くなって自信を付けたかったんです。でも、俺は強くなかったです。だから、強くなるために柔道を辞めます」



 石丸の言葉の真相は高校時代にまで遡る。



 彼の高校時代を知る者は少ない。


 石丸は入学当初から体が出来上がりつつあった。高校一年生の時には既に最重量級で世界と渡り合える一流アスリートとしての肉体を持っていた。


 しかし、やはり経験とテクニックを長年の練習で培いインターハイニ年連続出場を果たしている主将である三年生の堂馬(どうば)が一枚上手であった。

 試合形式で行われる立ち技練習の乱取りでは石丸は堂馬に勝てなかった。


 ある日、石丸が道場に行くと男がいた。


 男とは顔見知り程度で石丸には男が柔道経験者などということは分からなかった。


 何をしに来たのか石丸が訊ねると男は「試合をしに来た」と短かく答えた。


 主将の堂馬と男が乱取りをするに至った経緯は男が堂馬に試合を申し込んだという単純なものだった。


 対して主将の堂馬は百キロ超級のインターハイチャンピオンである。何故、堂馬が承諾したのかが石丸には不思議であったが、堂馬は全国大会に臨むようなやる気に満ちていた。


 男の身長は百七十そこそこの身長だった。


 百八十センチ以上の身長の堂馬に百七十センチが、百キロ以上の堂馬に八十キロが挑む様は頼りなかった。


 監督が来る前に試合を行おうとした。

 しかし、部活動の時間前でありながら、人が道場に集まり出していた。

 ギャラリーが増えた道場前は異様な熱気に包まれていた。


 更衣室から出た男の姿に柔道部員は惚れ惚れした。

 柔道をする者は皆、柔道着が似合ってくる。


 体型の違いに関わらず、太かろうが、細かろうが、似合ってくる。まるで、強さと比例するように着こなすのだ。


 素人ではない。男の道着はしっかりと洗われて綺麗だが、ボロボロだった。黒帯は糸が(ほつ)れに(ほつ)れて灰色をしている。


「やろうか」

 声を掛けたのは堂馬だった。

 お互い開始線で向き合うと、阿吽の呼吸で一礼し、誰の合図もなく始まった。


 石丸は目が離せなかった。


 男と相対した堂馬は体格的に有利であるにも関わらず、慎重に歩み寄った。


 組み手争いと呼ばれる試合運びから始まり、組んだところで相手を崩して投げる。

 柔道は組み手から入る。


 勝負は一瞬だった。


 不用意に男が組んだと思うとその瞬間には男は片足で堂馬を跳ね上げていた。


 「内股」という技である。


 意識を上体に向けられた相手は態勢を崩し、その内腿に足を掛けてそのまま跳ね上げる技である。

 井上康生などが得意とした技で投げられた相手は空中で綺麗に回りそのまま背中から落ちる。


 男が放った内股は人間の技とは思えないものだった。


 受けた堂馬はまるで大波に(さら)われ水中で揉みくちゃにされたように、ミキサーにでもかけられたかのように、空中で回った。抗うことのできない内股だった。


 投げられた堂馬は畳の上で横たわったまま足を押さえて立ち上がることができなかった。


 大腿二頭筋を断裂したのだ。


 技を受けただけで腿裏の筋肉を断裂した。


 いつの間にか来ていた監督は慌てて、堂馬を手当てした。


「次は自分がやります」

 石丸の口から出た言葉だった。


 監督の耳には届いていたが、何も言わずに堂馬の手当てをしていた。

 これは監督が了承したということだと石丸は思った。


 堂馬の敵討ちなど更々頭にはない。石丸はこの男の強さを肌で感じ、勝ちたかったのだ。


 石丸は立ち技よりも寝技に定評がある。


 主将でも勝てない立ち技は最初から捨てていた。石丸の寝技はこの時には既に主将たち先輩、誰よりも強かった。



 柔道は利き腕の違いで持ち方が変わる。


 右利きの場合、相手と向かい合った時に右手で相手の左襟を掴み、左手で相手の右袖口を掴む。

 自然と右手が上がり、左手が下がる状態になる。その形が右組手と呼ばれる形だ。


 「大外刈り」だった。


 組んだ状態で相手の足を刈る単純な技である。

 しかし、自分よりも大きい者を相手にするときには使わない技でもある。

 何故なら倒せないから。


 相手と向き合った状態で自分が前方に力を入れると、相手は後方に向かって力を加えられた状態になる。

 この時、相手は後方に倒れまいと前方に力を入れるため、力と力がぶつかる。その時、自分よりも相手が大きいと力で負けてしまうことは想像に難くない。


 相撲でも体を大きくするのは体格の差が如何に大きいかを知っているからである。大きくなればなるほど有利になる。


 しかし、石丸は自身よりも十センチメートル身長が低く、自身よりも二十キロも体重が軽い男に豪快に投げられた。


 畳に叩き付けられた石丸はしばらく動かなかった。動かない石丸を皆が心配するも誰も割って入ろうとする者はいなかった。


 しかし数秒後、石丸は仰向けの状態で男に掛かっていった。


 明らかな一本負けの後に寝技を仕掛けたのだった。


 石丸のその行動に男は喜んだ。


 呆気なく終わったのでは期待外れもいいとこである。男は石丸の勇姿に好感を持った。


 畳に叩きつけられた石丸は驚くことに失神していた。

 三秒ほど意識を失い、覚醒すると無我夢中で敵に飛びついたのだ。

 自分が一本負けを喫したことなど石丸の記憶にはない。


 起きたら敵が目の前にいたのだ。


 寝技の態勢で覚醒した石丸、男と石丸の寝技が始まった。


 それからの試合は大人と子供のようだった。子供のように扱われる石丸を見た部員たちはその男の強さに言葉を失った。

 石丸は意識が無い方が良かったかもしれない。


 男は石丸と同い年である。


 石丸は男に一生勝てないと悟った。


 石丸が戦意を喪失すると男の用はここにはなかった。誰も男と戦おうとする相手がいなかった。


 男は挨拶もそこそこに着替えて道場から出ようとした。礼節も何もない冷淡な態度を誰も咎めようとはしなかった。


 そこへ監督の木村が声を掛けた。


「柔道部へ入ってくれないか? お前ならすぐにでもオリンピックで金メダルが取れる」

 監督の言葉に男は首を横に振った。


「柔道の修行がしたいんです」

「だったら、ここですればいい」

「ここでは出来ません」

 監督は石丸よりもその男に強く惹かれた。


 入部せずとも練習に参加だけでもしてほしい、特待生として受け入れて学費も免除すると口走った。


「柔道の今の姿は違う」

「柔道の姿?」

「俺は柔道家です。柔道の修行をします」



 業堂館柔道の歴史は明治から始まった。

 柔道が生まれて世に浸透すると、警察や学校にまで広く普及していった。しかし、時代を経てスポーツ化した柔道は危険且つ、その最も大事な「道」を見失ってしまった。


 「道」という言葉は根本であり、「術」という言葉は応用である。

 男は「柔道」を武術の基本と捉え、その考えは打投極有りの「何でも有り」であり、現在ある様々な武術の中でも柔道は最強であると考えていた。


 男は柔道の戦いに打撃を想定し、対武器を想定し、多対一を想定する。それだけに留まらず、人以外の戦いすら想定していた。それが、柔道のあるべき姿だと確信していた。


 遠い昔のように感じられる男の記憶である。



 陽光が遮られるほど、木が覆い茂る森の奥まで来た。登山道から離れて歩く道は獣道である。


「いた」

 男は呟くと上着を脱いだ。


 前方にはもぞもぞと動く黒い影があった。

 その影に向かって進む男の足取りには迷いがなかった。距離にして十メートル。


 草陰から這い出た黒い影は羆だった。羆と目が合う。


「柔道家だから、柔道着を着たいところだけど、持ってくるのが面倒だったから許してくれ」


 柔道は手を顔前に構えることが多い。組手と言われる柔道特有の攻防では、手を眼前に構えることで利を得る。


 しかし、男の構えは違った。


 男は右拳を握り、左手を手刀のように構えた。


「かかって来い。毛玉野郎」


 柔道家を名乗る男の名前は田賀(たが) 哲夫(てつお)


 今にも襲いかかってきそうな羆を目の前にするも、微塵も臆することなく嬉々としていた。




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