戸森の友人 新垣 一成
戸森が久し振りに大学を訪れた。
人が疎らにいるクラスに新垣の姿があった。
戸森が気付くと同時に新垣も戸森の姿を見つけた。
「カズ」
挨拶代わりに手を挙げる新垣。
新垣 一成とは中学校からの仲だった。壮絶なイジメを過去に経験する戸森だが、戸森をイジメていたのが新垣である。
イジメを克服した今となっては戸森と新垣は親友のような間柄だった。
下顎を骨折して手術を受けた新垣のその口にはワイヤーとプレートが入っていると戸森はメールで伝えられていた。
戸森が新垣の隣に腰を下ろす。
「顎はまだ駄目なんだね」
首を横に振ることで戸森の言葉を肯定した。
橘に折られてから三ヶ月が経つが未だにリハビリ中である。
「カズにお土産があるんだよ」
戸森の言葉に新垣が眉根を潜める。今の今まで何かの見舞いをしたことなどなかったからだ。
しかし、戸森がバッグから取り出した物に新垣は固まった。
『堅焼きせんべい』だった。
トンカチで割ってからでないと食べられないと言われるほど硬い煎餅である。
「食えねぇよ」
新垣の言葉に戸森は笑った。
「今日、メシ食いに行こう」
戸森の言葉に新垣が頷く。
「フランスパンの美味い店があるんだよ」
戸森の笑えない冗談に新垣も馬鹿らしく笑ってしまった。
「デカくなったな」
腕は今まで着ていた服の腕周りを膨らませていた。一回り大きくなったのは腕だけではない。上半身よりもむしろ下半身の方が鍛え込まれていた。
神崎に再会を果たしたことはメールで伝えていたが、神崎の家で修行していることは言っていなかった。
「実は……」
修行していることを伝えると新垣はその内容に驚愕した。
戸森だからできることであり、何を目指しているのか分からない新垣にはついていけないことだった。
「お前は凄ぇよ」
新垣の言葉に戸森が首を横に振る。凄いのは神崎である。
戸森は自身の目指すところを親友に伝えることができなかった。
「今度は俺が橘の顎を割るから」
戸森の口から言えるのは新垣に対する慰めの言葉ではない。
リベンジマッチは近いことを示唆した。
しかし、そんな戸森の言葉に今度は新垣は首を横に振った。
「それは無理だ」
口を動かさないように喋る新垣を器用と思っていた戸森は新垣にあまり口を動かせたくはなかった。しかし、新垣の言葉に戸森はその考えが飛んだ。
「何で? 俺もそれなりに強くなったよ。「fight clubはもらう」みたいなこと言ってなかった? どっかでやってんじゃないの?」
「そうじゃない」という風に新垣が首を横に振る。
「橘はヤられたよ」
戸森は唖然とした。
橘が負けた?
「誰に?」
やはり、“fight club”なるものをしていたのだろうと新垣との言葉で悟ると、戸森には様々な疑問が浮かんだ。
橘がしていたものはどのような集まりなのか? 何処でやっているのか? いつやっているのか? 様々な疑問の中で気になったことは一つしかなかった。
橘は誰にヤられたのか。
戸森の真剣さに新垣が気圧される。
「あいつのは“fight club”なんかじゃねぇよ。完全な見世物として、殴り合いを披露してた。『ミッドナイト』っていうクラブみたいなところで、毎週のように殴り合いをしてた。
周りは酒飲みながら殴り合いを見てて、賭け事もしてた。完全な見世物だった。それでもウケてたな。毎週のように満席だった」
『El Dorado』の「天下◯武道会」が頭を過ぎった戸森はただ黙って新垣の言葉を聞いていた。
「そこには“fight club”の連中もいたよ。ほとんどの奴がいた。『ミッドナイト』で連んでたな。俺らは同士じゃなかった。あいつらはクソだぜ?
クソは糞溜めがにあう。
そこは腐ってた……酒とタバコだけじゃねぇんだぜ? 薬もやってんだよ」
仲間たちが集まるも、橘の色に染まったかつての同士にfight clubの面影はもうそこにはない。
まだ『El Dorado』の方が健全である。
「腐ってんな」
戸森の言葉に頷く新垣。
「その『ミッドナイト』で何があったの?」
「橘がやられた日、俺は行けなかった。
だから聞いた話なんだけど、そもそも橘は因縁吹っ掛けられたらしい」
「因縁?」
戸森の言葉に新垣が頷く。
ヤクザにケンカを売るほど命知らずな橘がどれほどの過去を持つのか戸森は知らない。
命を狙われている橘は腐るほどの因縁が田町組とはあるのだ。
「店に売人に紛い者がいたらしい」
ショーとして殴り合いが行われるミッドナイトに田町組の売人が堂々とクスリを売っていたというのだ。
「ヤクザにやられたの?」
新垣の言葉にヤクザの繋がりがあることを悟った戸森だが、ヤクザに橘がやられたことが信じられなかった。
「正確にはヤクザに雇われた奴だな。
売人は田町組の息の掛かった奴で店のスタッフに現場を押さえられて『苦畏無』にボコボコにされたんだと。その報復で橘はヤられたらしい。
いちゃもんつけてそのヒットマンをその仕合に上げさせた。
ヤクザなんかに負けないと高を括った橘はボコボコにされた。
裏では田町組から来た奴はワザとスタッフに見つかったんじゃないかって言われてる」
戸森は新垣の言葉を反芻した。
「橘やったヤクザの用心棒ってどんな奴?」
「菊池って言ういい歳こいたおっさんで、俺も実際に見てないからなんとも言えないけど、橘が動けなくなるまでボコボコにしたらしい。
橘は今、面会謝絶だとさ」
骨折した顎で一生懸命に情報を伝えようとする新垣は口をあまり動かさずに器用に会話していた。
「橘は殴り合いでヤられたらしい」
『殴り合いでヤられた』という言葉に戸森は言い知れぬ屈辱感を覚えた。
戸森は拳を握り締めていた。
「そっか……カズ、ありがとう」
戸森はその後、新垣と別れるまで口を開くことはなかった。考え込んでいた。
El Doradoでの一戦が戸森の頭から離れずにいた。
El Dorado最強の戦士である鬼王山を余力を残してくだした川瀬という男と、自身の師である神崎との一戦が戸森をおかしくしていた。
闘いたい。
今まではっきりと考えたことなかった気持ちが今は戸森の心の中で暴れている。
そんな戸森だからこそ分かる。
橘がただの殴り合いで負けるなど信じられなかった。本当にただの殴り合いなのだろうか。
「カズ、フランスパンはまた今度にしよう」
神崎の家に帰った戸森はこの日に聞いた橘のことを神崎に話した。
「お前が負けた橘っていうガキも格闘技は何も知らない、技を知らないで闘うのがスタイルなんだろ?」
戸森が頷く。
「技を知らないってことはそれだけ本能で闘わなきゃいけない、それは攻撃だけじゃなく、防御だってままならないと思います」
「分かってねぇな。囚われないから自由なんだよ」
「殆どの人間が技を覚えて強くなる。確かにそれは間違ってはいない。けど、みんなそうじゃねぇよ。
そもそも技って何だよ?」
戸森は言葉に詰まった。
「ボクシングだって最初は突っ立ったままで、ただ殴り合うだけのものだった。そこからフットワークを使うようになって、様々な技術が生まれた。
突っ立ったままの殴り合いで無敗だった大男が、フットワークを使われただけで小柄な男に負けたらしいからな。格闘技の技術は軽視出来ないくらい凄ぇのは確かだ。技っていうのは勝つための手段だ。自分を守るための道具なんだよ」
戸森が黙って神崎の言葉を聞く。
「だが、稀に技を覚えて弱くなることもある。本来の動きが囚われるからだ。それは人それぞれだ」
神崎の言葉をいまいち理解できない戸森は何も答えることができなかった。
「技は弱者が考えた強者に勝つための手段であることは否めない。強いから勝つんじゃない。勝った奴が強いんだ。本当に強い奴は何も知らなくても勝つっつうことだ。技を覚えたばっかりに技に溺れる奴も、自分が出せなくなる奴もいる」
「橘 正男には殴り合いで勝ちたいですね」
ファイトは戸森が優勢だった。
気が散ることなく、続けていれば戸森が勝っていたかもしれない。
しかし、戸森の言う殴り合いとは相手の攻撃を流すことなく、真正面から受け止め、力と力をぶつけ合うことを指していた。
神崎も戸森の気持ちを察した。
「お前の得意とする闘い方は殴り合いじゃない。
橘とそのおっさんは技なんて何にも知らない者同士で殴り合ってより強い方が勝った。橘に勝ったおっさんは単純に殴り合いが強かった。それだけ」
「殴り合いだけで橘よりも強い奴がいるとは思えません。いたらそいつは化物ですよ。橘に勝った奴が何を使うか気になります」
神崎は強い。しかし、防御も何もないただの殴り合いでは神崎すら橘に勝つのは難しいのではと戸森は思った。
橘と殴り合った時は寝技に引き込めば、技を使えば、などと勝つ手段が頭に浮かんだが、その時の自分はそれを許さなかった。
お陰で橘の深部が見えた気がした。
やはり戸森の心の中ではEl Doradoでの一戦が尾を引いていた。
心をかき乱す何かがあった。
神崎に対しては勝てる気が一切しないが、川瀬に勝てるかも戸森には自信がなかった。
考え込む戸森をじっと見つめる神崎は戸森の青さに不安を覚えた。
まだ早いのか……。
戸森にはこれから先は危ない世界である。
「世の中には化物みたいな奴はいるよ」
神崎の言葉に戸森は何かを言いかけて止めた。
「お前が何でそんな橘に拘るのか知らねぇが、やる気出させてやる。これ見ろ」
TVの電源を付けて、録画していたらしい映像を見せると戸森は目を見開いた。
「冨樫」
ボクシング対ムエタイという文字が踊るように画面に映っている。
「前代未聞の異種格闘技戦だ。現チャンピオンだぞ」
試すように、からかうように神崎が戸森に笑いかける。
「冨樫は勝つ」
「……でしょうね」
過去の記憶が想起されると橘のことなど戸森の頭から離れた。




