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群雄  作者: 元馳 安
38/41

兄弟 9



 扉が開かれるとそこにいた人物にタクシンとソンポンは驚いた。


 そこにいたのはステファンだった。


 広い部屋は薄暗く、机の上のパソコン画面の明かりに照らされるステファンの真剣な表情がタクシンたちの目に飛び込んだ。


 顔を上げたステファンはタクシンの姿に驚いていた。


「父さん、生きてたんですね」

 タクシンとソンポンがステファンに近付く。

 ステファンはパソコンからUSBを引き抜いた。


「敵は妨害しているようで無線が使えません。父さんのチームは無事だったのですか?」


 ステファンは自分と同じように倉庫二階の反対側の窓を突き破り脱出を図ったのだとタクシンは思った。


「タクシン……生きていたんだな」

 まるで生きていることが信じられないと言った様子だった。


「えっ? どうしたんですか? みんなは何処ですか? 誰か他には生き残っていないのですか?」

 部屋の周りを見渡すが、部屋にはステファン一人しかいなかった。


「私以外は全員殺された」


「えっ? …… でも、父さんだけでも生き残ることができて良かったです。父さんもマリアーノを捕まえにこの部屋に来たんですよね?」

 ステファンは何も語ろうとはしなかった。ただ、力無くゆっくりと首を横に振るだけだった。


「では、隊長はここで何をしていたのですか?」

 『SSC』の社長であるステファンは社員を「guards(ガーズ)」と呼んだが、『SSC』のメンバーはステファンを「コントラクター」とは呼ばずに「隊長」と呼ばせていた。

 ソンポンの問いにステファンは何も答えなかった。

 父の姿を見つめるタクシンは冷静さを保ちつつ口を開いた。


「父さんはここにマリアーノがいないと初めから知っていましたね?」


 ステファンがゆっくりとタクシンを見つめる。

 ステファンの装備が物語っていた。

 軍用小銃も汚れ一つなく、弾倉をフルで装備している。ナイフは使われた形跡もなく、傷跡がないどころではなく、服さえ汚れていなかった。


 ステファンに戦闘の跡がなかった。


「父さん……この任務は……警察と繋がっていたのではなく、マリアーノと繋がっていたのではないですか?」


 核心を突くタクシンの言葉にソンポンは目を見開いた。

 ステファンの表情が全てを物語っていた。


 しかし、タクシンがこの先知ることとなるこの任務の黒幕はマフィアや警察などではなく、さらに恐ろしい組織が関与していた。


 『SSC』は麻薬王マリアーノの身柄確保を目的としてこのアジトへの強制捜査を行なった。

 当初、『SSC』の独断によるものではなく、警察との合同任務としてタクシンたちは送り込まれたものなのだと思っていた。

 しかし、実際は違った。


「……ある日、マリアーノから連絡があった」


「えっ?」

 タクシンとソンポンはステファンの言葉に驚きを隠せなかった。


「私が警察を離れて『SSC』を設立したのには理由がある」


 ステファンが手にするUSBを持ち上げる。


「ここにはマリアーノと取引したデータが入っている。汚職警察官の証拠となる記録と、更に政府との不正取引に関する情報だ」


 汚職警官との遣り取りを録音した音声が入っているとのことだった。

 それだけではない。警察内部での証拠を取り上げても意味がない。悪はその更に深層部で根を張っている。

 大物政治家との不正取引に関する情報をステファンは何よりも欲していた。


 大物を捕まえるための証拠だった。


「私が『SSC』を作ったのは腐った警察を立て直すためだ。しかし、腐敗は私の想像以上に進んでいた。全てを正すにはマリアーノの力が必要だった。マリアーノは私が何をしたいのかがよく分かったらしい。正義に犠牲は付き物だ。これが私の正義だ。だから私はマリアーノに従った」


 タクシンは耳を疑った。


 マリアーノから情報を得るためにステファンは仲間を裏切ったのだ。


 マリアーノとの間で何が交わされたのかは不明だが、ステファンはマリアーノに『SSC』を、仲間の命を売ったのだ。

 その中には自分も含まれているのだと、だから、自分が生きていることに驚きを隠せなかったのだとタクシンは思った。


「父さん、『仲間がいなくなっても、SSCがなくなっても、正義は失われない』というのは理想や比喩などではなく、『SSC』を消滅させる見返りとしてデータを得ることを選んだんですね」


 マリアーノにとって他国との繋がりがある『SSC』は目の上の瘤だった、だからマリアーノはステファンにその存在を消す代わりにステファンの念願である警察や上層部の一掃をすることがてぎる証拠を与えたのだとタクシンは思った。

 しかし、タクシンのその考えも違っていた。

 マリアーノは『SSC』など端から相手になどしていない。


「仲間の命を取引に使ったんですね」


「警察の中は腐ってる。しかし、本当に腐っているのは更に上だった。『SSC』の活動だけでは限界がある」

 タクシンはステファンの言葉を黙って聞いた。


「警察と繋がりのないマフィアは消されるというが、逆だ。マフィアと繋がらない警察官は潰されるのだ。そんなものは正義ではない。そんな社会を私は変えたかった」


 孤児として行くあてのない自分を拾ってくれた恩はある、それだけではなく、衣食住だけでなく、武術を教え、生きる道を示し、仲間を与えてくれたのも父であるステファンだった。

 そんな一番の恩師にタクシンは裏切られた。


「内通者は私だ」

 情報(ネタ)を売る。それは最もしてはいけない重大な裏切り行為である。


 ステファンとマリアーノの繋がりは分かった。しかし、それだけではない気がした。タクシンは言い知れぬ不安を感じていた。

 この任務には更に深い闇がある。自分ができることはその闇を確かめることだとタクシンは思った。


「死んだ仲間へのせめてもの償いはマリアーノを捕まえるしかありません。全てが終わった後、僕は父さんを捕まえます」


 タクシンは踵を返した。


 マリアーノを捕まえる。この任務は終わりではない。仲間の命を犠牲に生き残った自分に残された道である。


「マリアーノの元まで辿り着いたとしてもどうしようもない! 何も出来ない!」

 ソンポンがタクシンを止める。


 一人でマリアーノの元へ向かうタクシンの決死は目に見えていた。

 しかし、ソンポンの言葉にタクシンは足を止めようとしなかった。


「銃が無くなった今、どうしようもないんだ! 退路は絶たれ、応援もない! 隊長と別れれば俺たちはこのままここで死ぬ!」


「父さん、ソンポンを頼みます……僕は進むしかない」

 タクシンの決意に二人は何も言えなかった。


 タクシンは二人を残して部屋を出た。




 三階の部屋にマリアーノはいると聞いたが、その情報も嘘だった。

 倉庫でもない、平屋の建物に向かおうとタクシンは歩き出した。


 体は鉛のように重い。


 廊下を歩くと、一階部分から足音が聞こえた。

 出口に向かう足音を逃すまいとタクシンが階段へ駆ける。


 階段を覗き込むと二人の男が出口から出て行くのが見えた。

 その姿にタクシンは驚いた。


 マリアーノだった。


 十年以上も離れていたが、一目でマリアーノだと分かった。


「マリアーノ!」


 タクシンが叫ぶと出口付近にいるマリアーノが上を見上げた。


 マリアーノと目が合う。


 マリアーノは冷たい眼差しを向けるだけで何も言わなかった。

 タクシンに背を向けるとマリアーノはもう一人の男と共に建物を後にした。


 マリアーノは一階にいたのだ。


「くそっ」


 タクシンは階段を駆け下りてマリアーノを追った。


 しかし、一階に下りたタクシンの前に銃を持つ男が現れた。

 銃口を向けられるタクシン。


 タクシンの足が止まった。


 タクシンに銃を向ける男、男が放つ異様な雰囲気にタクシンは圧倒された。


 タクシンは死を予感した。


「そこの部屋に入れ」

 男の言葉にタクシンは怪訝な顔をしたが、素直に従った。


 階段に一番近い部屋、ソムチャーイが死んだ部屋である。


 しかし、部屋の側にはマフィアの死体もなく、部屋の中にはソムチャーイの死体もなかった。

 部屋には机と椅子、掃除用具が置かれただけで何もなかった。


「武器をそこへ置け」

 タクシンが机の上にトンファーとナイフを置く。


 男は手にしていた銃を捨てた。


「銃は味気無さ過ぎる」

 男がタクシンと対峙すると構えた。


 タクシンには分からなかった。

 男が闘いを望んでいることは分かる、しかし、何故、自分の前に立ちはだかり、わざわざ闘いを望むのか理解できなかった。


 タクシンは従うしかない。マリアーノの前に立ちはだかる最後の壁である。


 素手対素手、一騎討ちの闘いだった。


 疲労しきった体で闘える相手ではない。しかし、タクシンは最後の力を振り絞り燃え尽きそうな体に火を入れた。

 呼吸は落ち着いている。



 アップライトスタイルで構える男が使うのはムエタイだとタクシンはすぐに分かった。


 男が構えるとタクシンも構えた。


 タイミングを見計らい、男が素早く距離を縮める。


 タクシンは冷静だった。初手は受けからそのままカウンターを合わせようと体が動いていた。

 先程までの数多の激闘を生き残ったことで、命の遣り取りがタクシンの集中力を最大にまで高めていた。


 男の動きが手に取るように分かる。


 男が動く前にタクシンは手を動かしていた。

 第一のジュルスである。


 タクシンを襲ったのは矢のように速い男のストレートだった。


 先に動くタクシンは男の重い右を払うと左の突きを繰り出していた。


 男の腹部にタクシンの突きが刺さる。

 同時にタクシンは投げの体勢に入っていた。男の首に腕を回し腰で投げる。


 しかし、男の体は微動だにしなかった。


「うっ」

 タクシンの体がくの字に曲がる。

 打たれながらも男は構わずにタクシンの空いた右脇腹に肘打ちを入れていた。


 タクシンの頭が下がると、男の蹴りがタクシンの顔面に飛んできた。


 タクシンの体が素早く反応する。


 ハイキック(上段蹴り)を掴み、残った軸足を蹴り飛ばすはずだった。

 しかし、男の鋭く重い蹴りの威力にタクシンの腕が弾かれた。


 蹴られた衝撃で後方に飛ばされるタクシン。すぐに体勢を立て直し、男と向き合った。


 男は黙ってタクシンを見つめていた。


 今まで出会ったことがないほどの強敵だった。

 タクシンの背中に嫌な汗が流れる。


「本気で来い。でなければ死ぬだけだぞ」



 嵐のような猛攻がタクシンを襲う。



 間合いを一瞬で積めると、男は上下左右から連打を浴びせた。


 近接距離から繰り出される肘と膝の攻撃がタクシンを苦しめる。


 タクシンのガードが甘くなると、腹部に膝を叩き込まれ、更にガードが下がると頭部に肘打ちを食らった。


 タクシンの体が大きく揺らぐ。


 速く、重い攻撃にタクシンの意識がほんの一瞬だけ飛んだ。


 男の猛攻は更に続く。


 この状況をどうにかしようと後先考えずに投げ遣りにタクシンが出した技が前蹴りだった。


 男の腹部を押すように放った前蹴りでタクシンは自ら後ろに飛んで後方に大きく退いた。

 タクシンは距離を置きたかった。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

 肩で大きく呼吸をするタクシン、疲労はピークに達していた。



 今まで出会ったことないほどの強敵、タクシンは死を覚悟した。



 タクシンは出来る限り腰を低く保ちながら、上体を起こした。


 男の身長よりも更に下がるタクシン。


 足幅を広げるスタンスは身動きが取り辛く、ローキック(下段蹴り)の格好の餌食となりやすい。


 しかし、タクシンは違った。


 男の速いローキックに素早く反応し、一定の距離を保ちながら避け続けた。


 業を煮やした男がタクシンを捕まえようと距離を詰める。


 同じタイミングでタクシンも距離を詰めると男の肘打ちがタクシンの顔面に飛んできた。

 肘を間一髪で避けると畳まれた腕ごと抱え込んで男の足を払った。


 絶妙なタイミングで体勢を崩された男の体が宙に浮く。


 投げると同時にタクシンが蹴りを見舞う。地面に着地する前に腹部を蹴り飛ばした。


 男の距離で闘うのはあまりにも危険である。しかし、それは組み技系を使うタクシンの得意とする距離だった。

 タクシンは投げを狙った。そして、もう一つの攻めるポイントも見つけた。

 それがタクシンのたった一つの勝機だった。


 ジャングルの中での戦闘を得意とするシラットは様々な環境下で闘える。

 それはムエタイにはない低空の闘いもあった。


 後ろ回し蹴りを屈みながら回転して(かわ)すとその回転を利用して後ろ回し蹴りを放つ。

 タクシンの蹴りが男の両足を刈ると、男は地面に転がった。


 屈んだ状態で寝ている相手の顔面を蹴り飛ばす。

 立ち上がろうとする男は防御できずにまともにタクシンの蹴りを受けた。


 男も寝転んだ状態でタクシンに攻撃しようとするが、寝たままの状態では力が入らないようだった。

 タクシンが使うシラットは寝たままの状態であっても打撃を打ち込むことができる。


 不利な状況と判断する男が無理に立とうとする。


 男が立ち上がる瞬間、タクシンが寝転んだ状態から相手の蹴り足を捕まえて低空から相手の軸足を刈ると、再度、寝たままの状態に引き込んだ。


 何度も打撃を男に浴びせた。


 タクシンは姿勢を低くしながら打ち合うことができる。


 男がタクシンの蹴りを受けた時だった、伸びきったタクシンの足を抱え込むとそのまま膝十字に移行した。

 間一髪でタクシンが足を引っ込めると、後転して相手との距離をタクシン自ら開けた。


 タクシンの体から大量の汗が流れる。そして、背中には嫌な汗をかいていた。


 男はグラウンドも扱える。タクシンの直感だった。

 不用意に下の攻撃は仕掛けられなくなった。


 男は何かを隠している。しかし、慣れた様子ではない。


 男も肩で息をしていた。


「来い」

 タクシンの攻撃が効いている。顔の傷が物語っていた。


 男が再度アップライトスタイルでタクシンに迫る。


 男の右の横殴りを潜るようにしてヘッドスリップで体ごと躱しながら、右腕を掴み引くことで相手の体勢を崩しながら左からの反撃を潰す。

 右腕が伸びきり前のめりになった男の顎めがけて蹴り上げた。

 タクシンの蹴りがクリーンヒットした。


 男がタクシンの投げを警戒したことで動きが鈍ったのだ。


 右腕を離さないタクシン。


 男の右腕を掴んだまま地面に顔面を落とすように叩きつける。


 右腕は掴んだまま男の頭部を踏みつけようとするが、男が体を反転させるとタクシンの足にしがみついてきた。


 男は再度タクシンに足関節技を仕掛けようとした。


 堪らずにタクシンが距離を置く。


 タクシンは得体の知れない男に攻めきれずにいた。


「お前とやるとつい“約束”を忘れる」

 男の言葉の意味が分からなかった。


「はぁ、はぁ、はぁ……約束?」


「何でもない」

 男はアップライトスタイルを構えた。


 男の攻防で分かったが、使う武術はムエタイだけではないとタクシンは思った。


 何にせよ、今がチャンスである。


 タクシンが駆け出して男の不意を突く。


 放ったのは飛び膝蹴りだった。


 タクシンの今までにない突飛な攻撃に男は警戒し、がっちりとガードを固めていた。男も疲れていた。


 首相撲で首を極めるとタクシンは男に膝蹴りを何度も入れた。


 膝蹴りで動きの止まった相手の髪を掴み、壁へ叩きつける。


 男が(うめ)くと再度、頭部を壁へ叩きつける。苦悶の表情から意識を失いそうになる男、再度、タクシンは男の頭部を壁へ叩きつける。

 並の人間なら意識を失っている。


 しかし、男はタクシンの手を強く握った。


 膝から崩れ落ちる相手が地面に落ちる瞬間を狙い、同時に頸部を踏みつけて頚椎を破壊する。

 この男を止めるにはこれしかないとタクシンは思った。


 しかし、信じられないことが起こった。


 男がタクシンの手を握ると、地面に倒れ込みながらタクシンを引き込んだ。倒れそうになる体を支えるためにタクシンが踏ん張ると、その反動を利用して体を引き起こし、そのまま足をタクシンの首に引っ掛けた。


 タクシンの腕が伸び切ると絡まる足がタクシンの腕の肘関節を捉える。


 腕拉ぎ十字固である。男がしたのは飛び技関節だった。


「くっ」

 完全に極められる前に前方回転しながら難を逃れる。


 壁に何度も頭を打ち付けたにも関わらず、反撃する男のタフネスにタクシンは尊敬すら覚えた。


「投げを狙うまでは良かったな。お前は強い、もう俺はムエタイしか使わない。“約束”だからな。でも、俺が使うのはムエタイだけじゃない。お前の攻撃はもう見切った」


 徒手の闘いを見ているということは多対一での戦闘も何もかも自分の動きを見ているのだとタクシンは思った。


 技は知られている。

 しかし、攻めるしかないタクシンはそれでも男に向かっていった。


 タクシンの攻撃が当たる前に男のテックワァー(右ミドルキック)が襲い掛かる。

 速さも重さも更に上がっていた。


 タクシンの足が止まる。


 一気に距離を詰めれると、男の猛攻を受けた。最初とは比べ物にならないほどにパンチもキックも重くなっていた。


 何よりも違うのは男が放つ殺気だった。


 堪らずガードが下がるタクシン。その一瞬の隙を突かれた。


 ハイキックがタクシンの頭部を捉えるとタクシンはそのまま地面に倒れた。



「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……俺は今、生を実感している」

 男が満足そうに呟く。


「もう少しだったな」

 男の言葉がタクシンの頭に何度も繰り返される。



 そうか……この男は僕を殺すのか。


 ここで僕は死ぬのだろう。



 タクシンは体全体を支配する痺れを感じながら、ゆっくりと立ち上がった。


 タクシンの最後の悪足掻(わるあが)きだった。


 タクシンにはシラットしかない。

 その技も監視カメラで技は見られている。


 この男よりも強い敵が現れたら太刀打ちできない。

 しかし、この男だけは命に代えても倒す。

 タクシンは心の中でそう誓った。


 タクシンが出す最後の技は決めていた。



 「シカップ・ハリマウ(虎の技)」から組み技系シラットに行き着いた先、ウィリアムズ流シラットの極意をタクシンは編み出した。


 男はムエタイ特有の独特な動きで距離を縮めながら攻めてきた。


 男のローキックを朦朧とする意識の中、カットするタクシン。

 「バチンっ」という鋭い音から、男が次に放ったのはミドルキックだった。

 男の強烈なミドルキックにもタクシンの体はブレずに受けきった。


 男の本命は蹴り技ではない。


 更に近接から肘打ちを繰り出す。

 タクシンはこれもガードした。


 ガードしたタクシンが相手の腕を掴んで引き込みながら後方に倒れ込むとそのまま金的を見舞う。

 股をガードした男に金的は通じなかった。


 首を掴まえて巴投げをした。

 しかし、倒れまいと男はタクシンの引き込みを堪えた。

 堪える足を蹴ると男が膝立ちの姿勢で止まる。

 上体起こしの体勢のタクシンと向き合う膝立ちの男。


 ムエタイしか知らない相手ならば、ムエタイにはない低空の技に男は反撃できないはずである。


 しかし、男が使う武術はそれだけではない。現に巴投げを阻止した。


 それもタクシンは読んでいた。


 何故かは分からないが、男はシラットのような攻撃に慣れていると思った。


 寝ながらの打撃は嫌がるが、寝技は嫌がらない。


 チキンウィングアームロック、ダブルリストロック、または腕緘(うでがらみ)、様々な名称があるがタクシンはその関節技を知らない。


 しかし、シラットには攻撃を受けながら、投げる際に関節を極めながら投げる特殊な技がいくつもある。


 多種多様な動きをするシラットだからこそ、タクシンは相手がどうすればどう動くが分かった。


 タクシンはただ腕の関節を極めただけ。


 膝立ちの男の正面に上体を起こしたタクシンが密着して抱くように男の腕を極めていた。


 タクシンのチキンウィングアームロックだった。


 腕を後ろに回されて身動きの取れない男は腕を絞り上げられて肩関節が極まっていくのが分かった。

 このまま前に倒れ込めば、更に極められる。

 男が逃れるには回転するしかなかった。それも足が妨げられて、動きが制限されている。


 だからこそ男が反転する体の動きに合わせ、次の技に繋ぐことができた。


 タクシンのオリジナル技である。


 ウィリアムズ流シラットでは肩で腕の関節を極める技を「極(condemn)」と呼んでいる。


 肩関節が極められる前に体を反転させる。男がタクシンの足を跨いだのは足で下半身を固定されないためである。

 男の動きが分かるタクシンはそれよりも先に動いていた。


 上体起こしから男が体の向きを変えるタイミングで膝立ちとなり、同時に回転しながら相手の首元を掬い上げるように手を回し、背中をぴたりと合わせるように背後に回り込んで肩と腕で相手の首をロックする。


 男は何が起きたのか分からなかった。


 体を回転させると首を掴まれて天井を向いた状態になっているのだ。


 相手は首元を大きく開けた状態では力が入らず、ピタリと背中合わせになることで身動きが取れなかった。


 お互いが膝立ちで背中合わせの状態だった。


 しかし、首を極められた男はタクシンにされるがままだった。


 タクシンのオリジナル技、「極業(condemn for karma)」である。組み技系シラットを使うタクシンは打撃も扱う組技系格闘家(グラップラー)だった。


 karma(カルマ)(ごう)や因縁、行いという意味である。

 業や因縁、その行いを断罪するために必殺の技をタクシンは体得した。


「うっ……くっ……ん……」

 首を極められた男の口から呻き声が漏れる。


 タクシンが息を吸う。


「ぃやぁあーー!」

 肩で相手の頚椎を抑えながらタクシンが思い切り腕を落とした。


 ボグゥッ。


 嫌な音が肩越しに伝わった。


 男がそのまま地面に伏した。


「はぁ、はぁ、はぁ……」

 タクシンはしばらく立ち上がることができなかった。


 今まで出会った中で間違いなく最強の敵であった。

 手を抜いていたかは定かではないが、男がまだ何かを隠していたかのようにタクシンは感じた。

 今となってはそれも過ぎたことである。



 僕は生きている。



 タクシンは体を無理矢理動かしてマリアーノの後を追うために部屋を後にした。




 マリアーノを追うタクシンは建物を出るとその異様な雰囲気に不安を覚えた。


 外が静か過ぎるのだ。


 その時、タクシンは確かに聞いた。何かが爆ぜる音がどこからか聞こえた。


 小さな銃声だった。


 音を頼りにタクシンが向かった先は出口ではなく、平屋の建物であった。


 地下は麻薬を作る作業場ということを聞いていたタクシンだが、その情報も今となっては信じられるものではなかった。


 この任務は何かがおかしい。

 ステファンの裏切り行為により、『SSC』は消滅させられるために嵌められた。


 不審な点はいくつもあった。試験的な何かをタクシンは感じた。


 任務の始まりは倉庫での銃撃戦からである。

 まるで、SSCを迎え撃つかのように戦闘員であるマフィアが配備されていた。


 そして、外の様子である。


 カメラの数と敵の配置、情報とは違うカメラの数があった。

 そして、敵は屋内から出口に向かうソンポンを射撃してきた。

 外には人がいなかったのだ。まるで建物に誘い込むような狙撃であった。


 更に屋内での武器の使用。銃弾がなくなり銃が使えなくなったタクシンたちと同時に敵も銃を使わなくなった。


 そして、あの男……“約束”とはなんなのか。



 タクシンは様々な点を不審に思いながら建物の中に入って行った。


 建物の中にもやはり人の気配はなかった。


 建物の奥に地下へ繋がる階段を見つけた。


 階段を下りると、こちらも情報とは違い部屋には麻薬を作っている様子は伺えなかった。

 まるで屋内の物を最近移動させたような気配がある。

 地下室は一階部分の半分ほどの広さしかなかった。


 その何処にもマリアーノの姿はない。

 それどころか人の気配すらなかった。


 マリアーノはいったい何処へ行ったのか。


 出口から逃げたのだろうか。


 しかし、確かにあの時タクシンは耳にした。

 微かに銃声が聞こえたのだ。


 地下室の一室だけ居住スペースとは別の部屋があった。


 部屋の中を見ても特殊なものは何もない。

 しかし、隈なく室内を探すタクシンはあるものを発見した。


 それは床を踏んだ際の音の変化である。

 何度も踏んで見ては音の違いを確かめた。


 床下には隠し通路があった。ただの通路ではない。

 マリアーノが住む屋敷には地下水路があった。


 水路は別の利用目的として使われることとなった。何かあった時に敵を欺くための隠し通路として使用されたこととなった。


 タクシンは床を剥くと地下に繋がる梯子を見つけ、地下通路に下りた。


 ライトを取り出し暗い道を照らす。



 今なら分かる。

 ステファンの言っていた仲間の命を賭してまで引き換えにした正義の意味を。


 タクシンも同じ思いだった。しかし、タクシンの正義はマリアーノだった。

 マリアーノを守ることがタクシンの正義だった。


 あの日の夜、今走るこんな暗い中でマリアーノを探した。

 仲間を全て失った今のようにタクシンは一人きりでマリアーノを探した。


 マリアーノを探すために強くなり、マリアーノを救うために会いに来た。



 暗い通路の先には誰もいないと降りてすぐに分かった。

 人の気配がないのだ。


 続く暗闇の先に人の気配がない。物音一つしないのだ。


 それでもタクシンは進んだ。


 痛む体を動かし、動かない足を無理矢理引き摺り、タクシンはマリアーノのもとへ急いだ。


 マリアーノはここを通った。確信めいたものがあった。


 明かりに照らされる何かを見つけたタクシンは心臓が止まりそうになった。


 それは銃殺された死体だった。


 急いで近付くタクシン、死体をよく見ると安堵の息を漏らした。

 しかし、その安心はすぐに消えた。


 マリアーノではないが、マリアーノが建物から出るときに一緒にいた者だと分かるとマリアーノの身の危険を感じた。


 それはマリアーノの相棒のナバーロだった。


 マリアーノが撃つわけがない。

 やはり、この先に何かがある。


 マリアーノではないことを確認するとタクシンは先を急いだ。



 タクシンはマリアーノを守ろうとしているのだ。

 死刑になることは確実である。捕まえるということは殺すと同じこと。

 守る方法をずっと考えていた。死刑から逃れる方法をずっと考えていた。


 どうにかして生かしてやりたかった。


 通路の先に行き止まりとなる壁が見えた。

 その上部は薄っすらと光が漏れていた。


 壁にはその光に向かって梯子が設置されていた。


 梯子を登るタクシン。


 外はどうなっているのか分からない。蓋を開けることで身の危険すらある。

 しかし、タクシンは迷わずに蓋に手を掛けた。


 タクシンが蓋を開けると眩しい太陽の光に体全体で浴びた。


 そのあまりの眩しさに目を細めながら辺りを見回す。


 土埃が舞う地面には真新しいタイヤの跡がいくつかあつた。

 まで追えるほど新しかった。

 しかし、そんな情報などタクシンにはどうでもよかった。


 タクシンは視線を切らなかった。


 目の前に佇む黒人の男。

 上下白いスーツに身を包み、満面の笑みでタクシンを出迎えた。


「誰だ?」

 タクシンが口を開く。


「Speak English!」

 黒人の声は良く通った。

 タクシンは今後何かあったときのために武ステファンから武術と英語を学んでいた。


『あんたは何者だ?』

 タクシンが素直に英語で話すと黒人の男が嬉しそうに頷いた。


『私はモーガン、以後、お見知り置きを』

 柔らかな口調ではあるが有無を言わせぬ迫力がある。

 モーガンの両隣には黒スーツの(いか)つい男がいた。


 タクシンが周辺を見回す。


『君の弟はここにはいないよ』

 男の言葉にタクシンは驚きながら振り向いた。


 タクシンはゆっくりと地下から這い出ると腰元のナイフを引き抜いた。


『そう身構えなくてもいい』

 モーガンの言葉を聞きつつも警戒は解かなかった。


『君を雇いたい』

 モーガンの言葉の意味が分からなかった。


『僕を雇う?』


『素晴らしい闘いだった。ポーンが負けるとは』

 タクシンは不思議だった。頭の中で渦巻く全ての謎が氷解していく気がした。


 ポーンとはあの最強の男のことである。

 約束の相手はマリアーノではなく、この男のことである。


 何故、自分がここから出ると分かったのか。

 何故、自分が英語を話せると分かったのか。

 何故、自分が弟を探していると知っていたのか。

 何故、強いと分かったのか。


 この男は、自分の生い立ちを知り、自分の出来る事と出来ない事が分かり、自分が何を望んでいるのかを知り、今の今まであの闘いを見ていたのだとタクシンは悟った。


 この男は全てを知っている。そして、その男がこの任務の黒幕であるとタクシンは悟った。


『君は闘士として私の下で働いてもらう。武器有り、殺し有り、ポーンや君みたいな強い戦士が大勢いる。しかし、ルールが有る』


『ルール?』


『そう、闘うためのルールだ。私たちはこの闘いのために莫大な金を注ぎ込んでいる。この闘いがもたらす恩恵のためだ』


『ルールとは何だ?』


『この闘いは遠い昔から始まった。トクガワという男が始めたと聞いたことがある。この男は勝負事が大好きだったらしい。負けず嫌いで勝つまでとことんやる。

 ある戦争で負けた時はその負けた顔を自画像として残したそうだ。余程負けず嫌いなんだろうな。私にはその男の気持ちが分かる。だから、この闘いの意味も分かる。「ASHURAーDO」と言う。勝負の名前だ。ルールは自分で決めていい。その仕合に乗るかどうかはその勝負師の腕次第。仕合をするのは君のような闘士だ。君の弟も私が雇った』

 タクシンの目が見開く。


 タクシンにとってモーガンの話は奇々怪界だった。


 モーガン曰く、時代の移り変わりを経て変化した「ASHURAーDO」というものは闘う闘士、簡単に言ってしまえば「駒」を、どういった戦局で闘わせるか、闘いのルール決める「使い手」とに分けて闘わせるというものだった。

 Aという「使い手」がA'という「駒」を持っている。

 ルールは拳銃無し、ナイフ有り、あるホテルのワンフロアでの殺し合いというものに設定するとする。

 その勝負に乗ってきたBという「使い手」がB'を闘わせる。

 まるでチェスのプレイヤーのように。


 勝利したものには何があるのかなどはモーガンは口にしなかった。ただ莫大な金が絡んでおり、更にその恩恵があるとしか。


 果たしてそんな世界が本当にあるのだろうかさえ疑わしかった。しかし、モーガンという男を見ると、タクシンはそんな世界があるのだと自然と受け入れていた。

 殺しが正当化される世界。そんな深い闇にマリアーノは消えたのだろうとタクシンは思った。


『お前が辿った道よりも更に険しいものが待っている。日本では「SHURAーNOーMICHI」と言うらしい。お前がここに来るまでに何人殺した?』

 タクシンは血で真っ赤に染まる自身を見た。


 阿修羅道とはどういうものなのか、どんな奴が待っているのか。

 弟を餌にして兄を阿修羅道の闘技者として引き込んだモーガンも信じられる存在ではない。


 その時、一台の車がモーガンの近くで停車した。


「そんな……」

 後部座席の窓が開かれると、タクシンは驚きを隠せなかった。


『手を抜いていたとはいえ、私のお気に入りのポーンを倒したのは見事だった』

 現れたのは先ほどタクシンが倒した最強の敵、ポーンだった。


『何故? 首を折って殺したはず』

 ポーンの首にはコルセットが巻かれていた。


「もう一捻りされたら、完全に頚椎を破壊されていた。俺の体は丈夫なんだよ」

 ポーンは英語が話せないようだった。



『お前も立派な闘士だ』


 タクシンは腰元にナイフを仕舞うとモーガンに素直に従った。

 モーガンのもとに弟がいるのだから。



 僕はこの世界でならお前を守れる。


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