兄弟 1
六百年以上も昔から日本の皇室と親交のある国、タイ。
古い歴史の中でも列強の侵略から東南アジアで唯一独立を貫き、その歴史を守り抜いている。
中国の影響を受けたとされるタイの食は日本人の舌に良く合い、美術や芸術、タイの文化は日本人にも人気が高い。
日本よりも治安の良い国を探す方が難しいほど、日本は他国と比べて犯罪率が低いため、タイも当然、日本よりも治安は悪くなる。しかし、体感的に感じる治安は周辺国と比べても悪いと感じることはない。それがタイである。
タイでは麻薬の輸入や輸出を現行犯で捕まると、場合によっては死刑となり得る。
麻薬に対しての罪は欧米よりも重い。
タイで日本人が殺されるといった重大事件に巻き込まれるケースも、旅行者の数から見て非常に少ないのだ。そのため、日本人の見地ではタイは安全であるとの認識がある。
タイの国のとある街に外装が真っ黒に施された大きな装甲車が唸りを上げて滑走していた。
機関砲や砲台を搭載させた歩兵戦闘車ではなく、機関銃を搭載しただけの兵員輸送の装甲車である。
大きな黒い塊が唸りを上げながら走る。
静かな街に響く物々しい様子も、日も明けきっていない時間帯ということもあり、街の者が目にすることはなかった。
「タクシン、大丈夫か?」
車内の空気は暗く重い。
悲痛な面持ちで床をじっと見つめる仲間を心配する友の言葉だった。
「あぁ、何でもない……大丈夫だ」
タクシンが我に返ると目に入ってきたのは友の顔と「父」の姿だった。
やがて「父」の声が耳に入る。
「いいかっ、これから行くところは今までに経験したことない地獄だ! 下手したら命を落とす者もいるだろう! 心して任務に当たれ!」
「はいっ!」
十一人の声が一丸となって車内に響く。
死地に向かう全員が真剣な表情で白人である父ステファンの言葉を心の中で反芻させる。
中央に座る白髪の白人が鼓舞する。
タクシンが「父」と慕う白人の男、ステファンとタクシンに血の繋がりはない。
ステファン・ウィリアムズは欧米で流行ったアジアの武術に傾倒して単身、インドネシアに渡り、そこで本場の武術を得ようとした。
カレッジスクールで青春を謳歌していた頃である。
幸いにも、貿易商を営む裕福な家庭で育ったステファンには留学という目的で他国に渡ることができた。
欧米人の留学先はヨーロッパの人気が非常に高く、特にイギリスはその立地から、アメリカやカナダ、オーストラリアに比べて、スペイン、フランス、スイスといったヨーロッパからの留学生が多く訪れる。
他国との交流があり、貴族文化に触れることができる国、イギリスに息子は行くのだとステファンの母親は思った。
ステファンの父親も留学を決めたステファンはヨーロッパへ行くのだと思った。
しかし、実際は違った。
東南アジアの国名を挙げる息子に母親は卒倒しそうになった。
そこでは留学先の語学学校のスタッフとしての正社員勤務が一般的な留学である。つまり、自分で働かなければならないのだ。
そこに友人は一人もいない。
可愛い息子の初めての留学は厳しいものだった。
しかし、ステファンの父は息子の留学を快諾した。
ウィリアムズ家は庇護に頼らない自助自立を教育理念としていた。
ステファンが籍を置くのも市内でも有名なリベラルアーツ・カレッジである。
マンツーマンであること、アジアという全く異なる文化圏で自立して生計を立たせること、自分たちも知らない文化に息子を触れさせることができるのが父を大いに喜ばせた。
ホストファミリーが国際交流の観点から生徒を受け入れていない点、半ば、ビジネスとして受け入れているファミリーであり必要以上の干渉がないのも父は大いに気に入った。
“武術留学”のステファンは弟子として迎えられ、必要以上の干渉があったことを両親は知らない。
息子が口にした国は“インドネシア”だった。
貿易商を営む父のコネクションが有効に働くのはタイであったが、無理を言ってインドネシアまで渡った。
五年間もの鍛錬で身につく技術など高が知れている。しかし、留学という名目でインドネシアに渡るステファンの時間は有限であった。
止むを得ずステファンは帰国した。
しかし、一度アメリカに戻るとすぐにまたアジアへ渡った。
今度はタイだった。
貿易商を営む父のコネクションにより、タイの警備関係の仕事に就くと、三ヶ国語を話せるステファンはそこではすぐに望むような仕事が見つかった。
そして、ある事件に巻き込まれることになる。
そこで出会ったのが幼いタクシンだった。
身寄りのないタクシンを養子として引き取ると先ずは武術を教えた。タイの子供は全員がムエタイを使えると勘違いをしていたステファンはタクシンがムエタイを使えないことに驚いた。
貧乏に対するコンプレックスが拭えないタクシンに将来困らないように英語も教えた。
そしてタイ語を学んだステファンがタイへ渡り、タクシンを引き取って数年後に民間軍事会社『SSC』を設立する。
民間軍事会社は、直接戦闘、要人警護や施設、車列などの警備、軍事教育、兵站などの軍事的サービスを行う企業であり、新しい形態の傭兵組織でもある。
国家はもちろん、企業、特定個人に対しても、自身らが訓練する軍事教育を活かしたサービスを提供する。
安全と思われるタイで民間軍事会社の需要はあるのか。
実際、タイでの需要はあった。
そもそも、タイでの犯罪や事件については「イスラム過激派によるテロ」「ギャング(マフィア)」「独裁民主戦線と反対勢力との対立」の三つがあり、その三つが治安に大きな影響を与えている。
貧富の差から市民団体が生まれるなど、タイの貧富の差は諸外国から見ても大きい。
原因の一つとして国民性が挙げられる。
九割以上の国民が仏教徒であるタイ。
上座部仏教では足るを知ることを重んじ、背伸びをして世の中で偉くなろうという上昇志向がない。
現世は今の生活に満足し、せっせとタンブン(善行を積むこと)して来世に備えるという考えを持つ人が多い。
日本のように勉強して偏差値の高い大学に入り、出世しようという考えを持つ者はもとより少ないのだ。
そして、国の税制も問題となっており、富裕層により財産を残すことごできる。タイの格差は市民団体と反対勢力による武力衝突が起こるほどに深刻な問題となっている。
そして、民間軍事会社『SSC』に依頼要請するのはタイだけでなく、周辺諸国からもあった。
しかし、タクシンたちが向かう先は武力衝突の仲裁でも、ましてや物資の輸送でも、要人警護でもなかった。
麻薬密売組織の制圧及び、首領の逮捕である。
「マリアーノ……」
弟の名前を呟くタクシン。
『人違いであってくれ』、その思いは遥か昔になくなっていた。
今や弟は麻薬密売組織の首領となっていた。
タクシンは今から弟を捕まえに行くのだ。
麻薬密売組織はその海外とのパイプから武器の密輸も行なっており、武装する犯罪組織でもあった。
潤沢するその資金から買収された警察はマリアーノを捕まえようとしなかった。
タクシンの血の繋がりのある家族は弟しかいない。その弟を捕まえに行く。最悪の場合、弟を手に掛けることになるかもしれない非情な任務だった。
タクシンの脳裏に過去の記憶が蘇る。
それはタクシンと弟が離れ離れになった夜のことだった。




