元教師 2
初めて神崎の実家を訪れた翌日から神崎の家に下宿することになった戸森は、炊事や洗濯まですることになった。
しかし、一人分増えただけなので全く気にしなかった。
「お前はガキの頃から体を鍛えてたみたいだけど、やっぱ筋トレだな。これからは体のバランスを整える。後はひたすら組手だ」
神崎が最初に考えたメニューは自重トレーニングだった。
器具など使ったことのない戸森は素直に頷いた。
起床とともに道場に案内された戸森はあるものを渡された。
それは道着だった。
空手着のような薄地で袖が七分の道着は白無地で戸森によく似合っていた。
「着なくていいんだよ。筋トレするんだから短パンとTシャツでやれ、道着が臭くなんだろ」
袖を通そうとした戸森は怒られた。
軽い柔軟の後に行ったのは腕立て伏せとプランシェだった。
プランシェとは簡単に言うと足を地に着けない腕立て伏せの状態である。
腕だけで水平になる体を支える。足はまっすぐに伸ばし、そのまま静止する。
初めてやってできる者は中々いない。しかし、戸森は腕だけで体を水平に持ち上げた。意地だった。
鍛えられたのは腕や胸だけでなく、腹筋や背筋といった全体に満遍なく高負荷が掛かった。
「おっ、プランシェできんじゃん。もっと綺麗に足伸ばさないと駄目だけどな」
神崎の要望に応えることはできなかった。
プルプルと震える戸森は返事もできない。いつまでこの体勢を続ければ良いのか、我慢比べだった。
「そこから腕立てしろよ」
更に無謀な要望に戸森は体を地面に下ろした。
「まぁ、徐々にだな」
プランシェの状態から腕立て伏せをすることが目標だった。プランシェの状態から腕立て伏せをし、徐々に回数を重ねる。
まだ、苦難の道のりのほんの入り口である。
下半身強化には「馬歩站椿」の鍛錬を行った。
「空気椅子」と似ているが、足幅を狭く、腰をより落とす。決まりが多い「馬歩站椿」はその決まりを忠実に正確に行い、限界まで腰を落とすと、他武道の経験者でも一分と保つことは難しい。
戸森は神崎の指導のもと、馬歩を続けた。
型を直され、呼吸を指導され、少しでも動けばやり直され、馬歩を続けた。
十分間を三セット、微動だにせず耐えた戸森は汗だくで立つことすらままならなかった。
腕も上がらずに足も動かない。
「よし、組手やるか」
戸森は愕然とした。
これ以上は体が動かないという限界のところから修行をする。
組手は時間を設けず、戸森が意識を失うまで行われた。
稽古は朝から晩まで行われた。
中学生時代から稽古を積んできた戸森にとって体を鍛えることは苦痛ではない。それは神崎にも分かっていた。しかし、技を鍛錬することは違う。
現代に似つかわしくない武術は現代に生きる人々にとっては肌に合わないことが多い。戸森が修行に耐えることができるのか神崎は懸念していた。
しかし、杞憂だった。
戸森は殺す、若しくは壊すための技である殺法も吸収し、古武術の裏技である活法をも意欲的に学んだ。
徹底的に鍛えられたのは体だけではない。
負けない、折れない心を作ろうとしていた。
しばらく経つと、神崎のトレーニングにもついてこれるようになっていた。戸森が持つ元々の身体能力と運動神経が一般男性のそれとは違うのだ。
筋肉痛にも馴れ、神崎のする過酷な組手にも馴れると更に激しさは増した。
組手も喉を打つ、急所を蹴る、目潰しを狙うという喧嘩を想定した組手は顔面を保護するスーパーセーフや金的を守るファールカップなしでは大怪我した。
戸森が今までしてきたものとは次元が違った。
相手を殺す、若しくは壊す闘いを学んだ。
戸森は裏庭に行くことを嫌がった。
裏庭に呼ばれる戸森はあるトレーニングをさせられるのである。
「ドラム缶を持ち上げるだけ」
戸森が一番嫌がったトレーニングだった。
水を半分ほど入れた容量二百リットルのドラム缶をひたすら抱きかかえるという謎のトレーニングだった。
指先や腕、肩だけてなく、下半身が取り分け鍛えられた。
馴れたら水の量を増やすのだろうと、持ち方を変えるのだろうと、益々過酷になることは目に見えていた。
「ロープを上り下りしろ」
天井から吊るされたロープを腕の力だけでゆっくりと登るトレーニングがあった。しかし、このトレーニングは下りるときは倍の時間を掛けて更にゆっくり下りる。握りにくく、摩擦を減らすために軍手を着用させられた。
元々、筋肉質だった戸森の体は更に迫力を増す。
一ヶ月が経った頃だった。
「今、橘とやったら瞬殺できます」
戸森の正直な気持ちだった。
「お前は橘とやりたいのか?」
「いえ、先生にやられたらやり返せって言われるかと思って」
戸森の言葉に神崎は逡巡した。
「……戸森は「喧嘩」を覚えなさい」
喧嘩とファイトは違うのである。
「喧嘩ならできます。何でも有りってことですよね?」
戸森の言葉に神崎は露骨に残念がった。
「お前ほど、「口は易し行うは難し」を体現している奴を俺は見たことがない」
「何が言いたいんですか?」
「実際に見た方が早い。今度、出掛けるぞ」
人生で初めての出稽古だった。
しかし、戸森は納得していない。
「答えを教えてください。俺は間違えてないです」
「もうムキになるな。子供じゃねぇんだから」
神崎のふざけた宥め方も戸森は気に入らなかった。
「前科持ちのクセに」
戸森の言葉に神崎が鼻で笑う。
「お前も大して変わんねぇよ。とにかく、来月教えてやる」
「……分かりました」
それから数日が経った頃、神崎は戸森に声を掛けた。
「俺の知り合いがやってる店で時々、格闘技のイベントやるんだけど、そこに連れてってやる。懐かしい奴に会えるぞ」
神崎のテンションの高さに不気味さを感じる戸森。
「もしかして、店やってる人って、中学の時のファイトクラブに冨樫連れてきた一条って人ですか?」
遠い過去の記憶が蘇る。
「覚えてたのか。察しがいいな」
変わらず神崎はテンションが高かった。
冨樫を連れて来た人物である。
そこが何の店なのかは定かではないが、油断できないことは確かである。
『El Dorado』というクラブのような店がある。
踊ることが目的の若者が集まるクラブではなく、銀座のようなクラブ・ラウンジでもない。
『El Dorado』は高架下の開け放たれた広大な空間を贅沢に使っていた。
ガレージのない、鉄扉が設置されただけの不気味な入り口しか見当たらないそこは、通行人の人々は商業用としては使えない不思議な倉庫と思う。
鉄扉を開けると中は二重扉になっている。その扉のすぐ横、壁に設置されたテンキー錠の六桁の暗証番号は会員しか知らない。
そして、二つの扉を開ければ、外とは全くの別世界が広がる。
梳毛で織った唐草模様の毛の長い高級絨毯が入り口から店内を覆い、明る過ぎず、暗過ぎない店内を演出するのは水晶でできたシャンデリアだった。暖色の灯りは高級感を十分に表していた。
高架下にあるということを忘れさせる店内の内装は大理石の壁で覆われ、所狭しと並べられた本革張りのソファーはボックス席のような空間を作り、個室のように寛げた。
キャバレーやナイトクラブのように見世物を催すのがこのクラブの特徴だった。
ある時は食事やお酒を飲みながら、ジャズの生演奏を楽しんだり、またある時は短くはあるが見応えのあるショーが繰り広げられる舞台を楽しむ。
日替わりで様々な出し物が催される。
中でも店を訪れる客たちは、ある見世物が目当てで挙って店を訪れる。
そこは月に一度だけ、店の中央にリングを設置し格闘技イベントが催される。
『El Dorado』、そこは人生に飽きた人々が刺激を求めて集まった“黄金郷”だった。




