隣に住む強者 2
帰り道だった。
戸森はこの日のファイトを悔やんでいた。最後のファイトである。
この日のファイトを思い出し、過去のファイトを思い出す。
こんなに殴られたのは中学生の時以来だと思った。
一方的に思っていたことだが、神崎を待つという決心は薄れ、いつの間にか消えていた。
工場から自宅までの長い夜道を歩く戸森。疲労困憊の体ではあったが、二百メートルほど後方から後を付けられていることは分かっていた。
人通りがない道とはいえ、灯りの少ない夜道に間隔を開けるのは自分が何処に向かっているのかを把握しているのだと戸森は思った。
尾行している者は戸森の家を知っているのだと。
戸森は気が付かない振りをしてそのまま帰路を進んだ。
家に近付くにつれ、だんだんとその距離が縮まる。尾行は一人である。
敵意はないように思えた。
戸森はわざわざ遠回りをして帰り道を変えた。
戸森を追う影は変わらずについてくる。
遠くからエンジン音が聞こえると戸森は左目を瞑った。
やがて、一方通行の道路沿い、櫛比する建物の中に家が見え始めた頃、後方から近付く車のヘッドライトが戸森を照らした。
戸森は舌打ちをした。
わざわざ遠回りをしたのは前方からしか車を来させないためである。一方通行のこの道では向かいからしか車は来ない。
目を瞑っていたのはヘッドライトの明かりが目眩しとならないようにするためである。
後方から来る車は全て敵であると判断して間違いなかった。
疲れた体を叩き起こすよう戸森は臨戦態勢に入った。
車が戸森の側で停車する。
立ち止まった戸森は車のドアが開かれるのを待った。
ガチャ。
ドアが開かれる音は三つ。
戸森は苛立ちで歯軋りした。三対一では勝ち目は無い。
俊敏に動く戸森は即座に光線から外れて暗闇に馴れている左目を開けた。
視界に三人の男が目に入る。
戸森は距離を取り構えた。
「戸森 勇気さんですね」
突然、掛けられる声は柔和なものだった。しかし、構えは解かない。
「何だよ?」
細身ではないが、プロレスラーのように大柄でもない。背丈は戸森の方が高い。
三人組の一人に答えると、真ん中に立つ老人が口を開いた。
「話がしたいだけだったんだがね」
「話だけのわりには物騒だな」
暗い夜道に車を逆走させてまで戸森を狙ったのだ。穏やかではない。
そして、戸森一人に対して相手は三人である。
「お前ら……最近、ずっと尾けてたろ?」
男たちは答えない。
今日のこの日だけではない。
後を尾けられていた戸森は警戒していたのだ。
「ファイトの時にも変なのがいやがるって思ってたんだよ。もう、俺のじゃねぇから関係ねぇけど」
「あんな子供同士のじゃれ合いが一端にファイトか」
もう一人の男の言葉だった。柔和な声の男とは正反対に戸森に対して敵意のようなものさえ感じられた。
「あ?」
戸森が凄むと男も反発するように戸森を睨んだ。
「お前をスカウトしに来た」
老人が二人を無視して話す。
戸森の視線は老人ではなく、じっと男を見ていた。
「他を当たりな」
素っ気なく断る戸森。
「まぁ、そう邪険に扱うな。……ちょっと歩こうか」
有無を言わさぬ物言いに二人の男が近付く。
戸森は構えを解いた。
逃げられない戸森は舌打ちをして素直に従った。
四人は裏路地へ歩き出した。
「人間、衣食が満ちると、道楽に走る。
思うままに快楽を求め、遊興も性への興味に近付き、やがては暴力的な興奮を求める。行き着く先は暴力そのものに移る。今の儂がそうだ」
老人の顔をまじまじと見た戸森はその狂気に背中に寒気を感じた。
「スカウトって何だよ?」
戸森の単刀直入な言葉に狂気を宿した目が反応する。
「一仕合につき五百万やる、買っても負けてもだ。仕合をしないか?」
「誰と?」
戸森は何の仕合かなど聞かなかった。
「強い奴だ」
戸森は答えない。
「私は刺激が欲しいのだ」
老人は興奮した様子で話し続けた。
「殴り合って勝った方に更に五百万。私を楽しませてくれたら、更にボーナスをやろう」
金につられる戸森ではない。
「俺のことを何で尾けてた?」
自分が闘う場所はファイト・クラブだけである。
自分のファイト・クラブの情報が何処から漏れたのかを聞き出すために戸森は訊ねた。
「冨樫というボクサーがお前のことを買っていた。
まだほんの日本チャピオンだが、こいつは強い」
近い将来、ボクシング対ムエタイで一躍有名になり、ラスベガスでタイトルマッチを物にすることなどこの時は知る由もなかった。
「強い奴に強い奴を聞くのが一番手取り早い。
冨樫が強いと認めたのはお前らしい。闘いに華があるとさえ言っていた。お前はお墨付きらしい。お前の情報は“知ってる奴”は知ってたよ」
老人が不気味に喜ぶ。
「どうだ? やってみんか?」
「何の仕合だよ?」
冨樫の名前が出てくるということは全うな格闘技の話なのだろう、法に触れるような何かだと思っていた戸森は拍子抜けした。
冨樫はスポーツマンということになっている。
「『阿修羅道』と言う。儂らは修羅道、修羅戦とも呼んでいる。ルール無しの過激な闘いだ」
「お前の言うファイトがチンケなもの思えるぜ」
追従する男の一人の言葉にも戸森は冷静に無視した。
「興味ねぇよ」
「一生かかっても手に入らないものが手に入る」
「例えば?」
「金や女、目先の物以外では絶対に出会わないような強敵とも戦える」
「やんねぇよ」
戸森が一蹴する。
「お前は人生において最も大事な判断を誤った」
「帰れ」
「最後にもう一度だけ聞くが本当にいいんだな?」
戸森が「帰れ」と言うか、殴るか迷っていた時だった。
「出ろよ」
声の方に視線を向けた戸森はその姿を目にすると固まった。
老人の護衛二人が驚くように声の方に振り返る。全く気配を感じ取れずにいたのだ。
そこには懐かしい恩師が立っていた。
「先生!」
声を掛けた男の名前は神崎 勇心だった。元中学校教師で事件をきっかけに教員免許を剥奪されたのだ。
やはりファイト・クラブに神崎はいたのだ。
工場からずっと尾けて来たのは神崎だったのだろうと戸森は思った。
「久しぶりだな」
戸森にはどうでもいいことだったが、老人は踵を返して戸森のもとを去っていった。
「お久しぶりです」
「ちゃんとやってるみてぇだな」
戸森が嬉しそうに頷く。
そうだ、忘れていた。必ずあの時の恩を返せるようにファイト・クラブを守ろうとしていたんだ。
くだらないことに流されて心が荒んでいた。そや結果が今日のファイトである。
この日のファイトを見られていたのだろうと思った。
神崎がボコボコに腫れた戸森の顔をまじまじと見つめた。
「もうファイトする場も取られました」
「そんなに大事だったのかよ」
「先生が来るのを待ってたんです」
「そんなに欲しいなら取り返せよ」
「先生、またファイトクラブやりませんか?」
「その話はまた後だ。友達が来てるぞ」
「友達?」
「明日、ここに来い」
神崎は戸森に紙片を渡し、そう言い残すとその場を後にした。
「戸森さん」
声に振り向くと隣人の山田だった。
「戸森さん、顔、大丈夫ですか?」
逡巡する戸森に山田が心配そうに顔を覗き込む。
「このくらいなんでもねぇよ」
病院へ行くほどの怪我でも戸森にとっては何でもなかった。
「ファイト・クラブって言ってましたけど、それって……本当にあったんですか?」
「知ってたのか?」
「都市伝説みたいな話を聞いたことがあります。喧嘩自慢が集まるみたいな。本当だったんですね」
隣人の山田が知っているくらいなのだから、『阿修羅道』の話を持ちかけてきた老人が知るのも頷けると戸森は一人で納得した。
「本当だよ」
「噂で聞いたことあります。そこの代表は負けたことがないっていうのも。
戸森さんが仕切ってるんですか?」
「「仕切ってた」だな。ファイトに負けて取られた」
まさか隣人がファイト・クラブで最強を誇っていた者だとは思いも寄らない。
「取り返すんですか?」
「もう……俺じゃ続かねぇよ」
「取り返さないんですか」
「潮時だったんだよ」
「そうですか……都市伝説を聞いた時は一度は見てみたいって思ったんですけど……」
「今日、俺に勝った奴が似たようなことやるってよ。行ってみろよ。強い奴がいるぞ」
「そういえば、冨樫って誰ですか?」
「冨樫 進って知らないか?」
「テレビあんまり見ないんで」
「ボクサーで前にやったことがあんたよ」
「ライバルですね」
「そんなんじゃねぇよ」
今日の出来事を戸森は一生忘れない。
神崎から受け取った紙片には住所が記されていた。
戸森は疲れた体を引き摺りながら山田は帰路を共にした。
山田とこんなに話すのは初めてだと思った。




