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群雄  作者: 元馳 安
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アマチュアレスリング初心者 2



「君、体デカイね。見学?」


「レスリング部の上田キャプテンってどの人ですか?」


「俺だよ」


「先日、腕を折られて無理矢理退部させられた近藤の友達の川瀬です。上田って人にやられたって噂を聞いて来ました」


「はっ? で?」


「もし、本当なら、俺がそいつを懲らしめてやろうと思って来ました」


「あっ? てめぇ喧嘩売ってんのか?」


「まぁ、レスリング知らないし、喧嘩かな……上田先輩は強いの?」



 先程交わした会話で怒りを露わにする上田を思い出すと川瀬は軽く吹き出していた。


 プライドの高い奴ほど単純である。



 着替えを終えた川瀬が更衣室から出る。その顔には友人の敵討ちのことなどなかった。

 ただ、目の前の敵と闘うことだけを楽しそうに考えていた。


 三橋にはアマチュアレスリング部の主将であるギョーザ耳の上田が強いことは分かっていた。Tシャツの上からでも盛り上がる肩と胸の筋肉、袖から見える太い二の腕、短パンの下には逞しい太腿が伸びている。


 しかし、アマレス未経験の川瀬がその何倍も強いことも分かっていた。


 三橋の心配は他所にあった。


 相手が上田ならば恐らく壊れないだろうと、どうか壊れないでくれという心配だった。


 着替えを済ませた川瀬は長袖のよれたジャージを履き、白のTシャツだった。


 素足でレスリングマットの上を歩く川瀬。


 格好は何でもできるとはいえ、川瀬の格好はやはり素人の感が否めなかった。しかし、そんな見窄(みすぼ)らしい格好でも川瀬の姿は上田に見劣りしていなかった。


 Tシャツは筋肉で盛り上がり、袖口は窮屈に張っている。

 十分丈のジャージは太腿がパンパンに膨れていた。


 レスリングの公式的な試合ではシングレット、通称「吊りパン」と呼ばれるコスチュームとレスリングシューズを履いて試合する。

 練習ではスパッツや短パン、Tシャツなどを着て練習を行うことが多い。


 武帝高校のレスリング道場には衝撃吸収素材の硬ウレタンを敷き、その上からレザー製のレスリングマットを敷いていた。その試合場が二面ある。


 膝や腰、足を痛めないクッション性に優れている試合場、清潔で広い練習場、様々なトレーニング器具も揃えている練習環境はレスリングの輝かしい成績があってこそのものだった。

 レスリング部が強いというのは環境から分かる。


 二人はこれから試合うのである。


 上田と川瀬のスパーリングは五分間で行われることになった。

 公式の試合では二分を第三ピリオドに分けた計六分間行われるが、休みなしの五分間ということになった。


 時間を計るのはデジタル式の柔道タイマーだ。

 時間をセットして確かめる電子音が道場内に響いていた。


 周りの者は固唾を飲んで二人を見守っていた。見守るしかできなかった。下手に止めようものなら、上田からどのような仕打ちを受けるか分からない。

 上田はそれほど殺気立っていた。


「鳴らせ」

 上田の声に頷き、部員がタイマーのスタートボタンを押した。

 「ビーッ」という大きな音が道場内に響き渡る。


 上田は手を眼前に構えて低い姿勢をとった。


 百八十センチの川瀬は上田を見下ろしている。


 先に仕掛けたのは上田だった。


 川瀬の横に回り込むように上田が素早く移動する。しかし、川瀬は微動だにしなかった。


 高い姿勢はそのままに、変わらず油断している。


 そんな様子を上田は冷静に見ていた。

 両足タックルも片足タックルも決まる。どんなやり方でも転がせる。

 上田には最初から分かっていた。


 素人と経験者を比べることは愚の骨頂である。


 レスリング経験者は素人ならば、どんな相手でも簡単に転がすことができる。


 アメリカンフットボール出身のボブ・サップですら、MMAに出始めたばかりの当時は練習生に軽々と転がされていた。


 アメリカンフットボールというタックルもあり、激しくぶつかり合うスポーツで、更に体重は百四十キロ以上もある選手が転がされるのだ。

 格闘技かスポーツかの違いで、両方ともタックルがあるにも関わらずである。

 経験者はそんな相手をいとも簡単に転がす。


 タックルは持ち上げて投げることも、そのまま転がすこともできる。

 経験者と素人の間では体重差も筋肉も関係ないのだ。


 倒した後、レスリングは両肩と背中が着いた状態で一秒でも抑え込めばフォール負けとなる。ピンフォールと呼ばれるものである。


 上田はそんなもので終わらせるつもりなど毛頭なかった。

 タックルから川瀬を転がしてテイクダウン(相手を倒す技術)を取り、抑え込むよりも関節技を極めようと考えていた。

 タップアウト(降参の意思表示)させて、降伏させることで上下関係の“下”の意味を分からせようとした。


 初心者を一気に畳み掛けるべく、上田の渾身のタックルが油断した川瀬を捉える。


 上田のタックルは突風のように疾かった。


 川瀬の腰に肩からぶつかり、膝裏をガッチリと掴む。

 タイミングも、スピードも、力加減も、全てが完璧だった。


 しかし、不思議なことが起こった。



 川瀬が微動だにしないのである。


 大木のような太い足はそのままマットに根を下ろしたかのように微動だにしない。


 上田は焦りながらも、転がすよりも持ち上げようと腰を密着させた。


 しかし、川瀬は微動だにしなかった。


 一方、何も分からない川瀬は真似をするしかなかった。


 主将の上田は腰を落として低く構えて腰にぶつかるように自分に突進してきた。川瀬自身も見様見真似で左足を下げて重心を落とす。


 川瀬が屈むと下にいる上田がその圧力に押された。


 堪らず潰されないように上田が腰を上げる。


 絶好のタイミングだった。


 主将の見様見真似で放った初めてのタックルを目にした大上は思わず声を上げた。


「危ない!」


 川瀬のタックルは速く、綺麗で、何よりも力強かった。


 レスリングだけでなく、寝技がある総合格闘技の試合では、タックルを仕掛けられた選手は両の足をつっかえ棒のように真っ直ぐ後方に伸ばし、突進力を殺して倒されないように防ぐ。

 この事を「タックルを切る」と言う。


 素晴らしい反応を見せた上田は川瀬のタックルを切るために両足を地面に斜めから突き立てるように真っ直ぐに後方に伸ばした。

 そのはずだった。


 まるで津波が押し寄せるかのように、バカでかいトラックが衝突するかのように上田の体が吹き飛んだ。

 人間の力では到底抗うことが出来ない力がぶつかってきた。


 川瀬のタックルで上田はマットに頭を強打した。衝撃吸収のウレタン製とはいえ、あまりにも激しい衝撃だった。


 その衝撃により、上田は頭を打ち軽い脳震盪を起こしていた。


 上田の視界が歪む。


 逃げようとするが、半分意識を失った上田は体が言うことを聞かなかった。


 そして同時に川瀬の動きが止まった。


 相手を庇ったわけでも、労ったわけでも、心配したわけでもない。

 単純にルールを知らないのだ。一秒でも抑え込めば勝ちということを知らなかった。試合前に言われていたことを忘れていた。


 川瀬がまごついている内に上田が意識を取り戻すと、痺れた体に鞭を打ち、起き上がった。

 そして、同時に体を回転させて川瀬のバックポジション、背中から抱きつく態勢を取った。もはや、ポイントなどどうでもよかった。


 あまりの上田の素早い動きに川瀬はついていくことができない。


 両手両膝をマットに着けた状態の川瀬はあまりに不恰好な態勢である。


 川瀬が振り返るように右腕をマットから離した瞬間だった。

 一瞬の隙を突いた上田が川瀬の右腕を抱えて体重を掛ける。


 川瀬の右腕を抱えたまま、上田は川瀬の頭に体を寄せて徐々に体重を掛ける。上田の体が川瀬の背中を覆うまで体重を乗せた。

 川瀬をマットに沈める。上田はそのことだけを考えた。


 しかし、川瀬は微動だにしなかった。上田はそれでもよかった。


 ずっと耐えてろ。そう上田は思った。


 上田の狙いは右腕だった。正確には右肩関節である。

 肩関節を極めていた。

 常人ならば折れているところまで体重を乗せていた。


 大上は止めようとしなかった。川瀬に危険はないと思ったのと、単純に試合を見ていたい気持ちに駆られたのだ。


 傍目(はため)から見ても上田の攻めは余裕を見せる川瀬には通用していなかった。


 両腕でがっちりと抱え込まれて伸ばされた肘関節を川瀬が片腕の力だけで曲げる。


 腕を動かすと上田は振り回された。


 極まっていたはずの腕が簡単に解ける。


 腕にしがみつく上田が無様にマットに転がった。


 インターハイチャンピオンの上田の力ではどうしようもなかった。


 力だけでマットに放り投げられた上田が仰向けに転がる。


 上田は本能的に仰向けの体をうつ伏せの状態にした。


 川瀬は腕を取られたことを関節を極めにこられたのではなく、上田が自分の体を返そうとしたのだと思った。

 うつ伏せではなく、仰向けの状態の相手を抑え込むことで勝敗が決すると始める前に上田が口にしていたことを川瀬は腕を取られた時に思い出した。


 川瀬がうつ伏せの上田の脇につく。


 すると上田は肩肘を張り、足を真っ直ぐに伸ばしてうつ伏せの状態を保った。


 返されるわけがない。大上が見ている前である。何が何でも初心者に負けるわけにはいかなかった。


 川瀬は上田のように腕を取ることはしなかった。ただひっくり返せばいいのなら簡単な方法がある。


 川瀬が上田の細い腰に手を回す。


 上田は手を入れさせまいと腹這いの状態から更に腹をマットに押し付けた。

 手だけではなく、液体、気体さえも、なんの物質さえも入る余地が無いほどに上田は腹をマットに押し付けた。


 しかし、川瀬の腕は何の抵抗もなく入った。


 上田の腹回りに通した両手をしっかりと握る。

 ただひっくり返すだけなら、持ち上げればいい。


 クラッチという言葉には様々な意味があるが、レスリングで用いられるクラッチとは、自身の手と手、または、相手の腕や首・足などを掴むことを意味する。


 誰からも教わらずに本能の赴くままに相手を制圧する川瀬には溢れんばかりの才能の片鱗がこの時既に表れていた。


「止めろー!」

 大上が慌てて止めに入る。


「ぐふっ」

 上田の口から情けない声が漏れた。


 この時、上田の(あばら)が折れた。

 川瀬のクラッチの力が強過ぎて肋骨が折れたのだ。


 しかし、痛みを感じる前に上田の体は宙に浮いていた。


 川瀬が初めてした『俵返し』である。


 誰に教えてもらったわけでもない。ただひっくり返しただけである。

 霊長類最強と言われたアマレス王者アレクサンドル・カレリンを彷彿とさせる技だった。


 プロレスラーがするサイド・スープレックスの形を為すが、川瀬が繰り出すと必殺の技となる。

 違いは落下速度であった。正確には投げるスピードである。


 一瞬で床から一メートルもの高さまで持ち上がると山形(やまなり)に急落下した。


 七十キロ近くもある上田の体がまるで玩具(おもちゃ)のように乱暴に扱われる。


 高速で叩きつけられた上田は失神していた。


 三橋は誰よりも早く救急車を手配した。





 翌日、上田は部活を辞めたが、変わりに川瀬が入部した。



 川瀬が在学中に残した成績はどれも輝かしく、将来は日本を代表する選手になるはずだった。

 オリンピックに出れば間違いなく金メダルを獲得できたと言われていた。


 しかし、栄光は川瀬の手には入らなかった。


 それはタイミングが合わなかったという他なかった。

 高校在学中のみのレスリングだった。


 川瀬が入部する一ヶ月前に夏季オリンピックが開催された。次は四年後だった。


 高校を卒業する前に川瀬の父が倒れ、川瀬は大学を諦めて家業を継ぐことになった。


 家業を継ぐ川瀬はアマチュアレスリングができなくなったが、それでも体を鍛えることを止めなかった。


 車に轢かれてもノーダメージで立ち上がるほどのタフネスを持ち、相手の防御など無に帰すほどの攻撃力を持つ。


 川瀬が唯一不遇だったことは最強を目指すには余りにも『実践』が少ないことだった。



 川瀬が小さい頃に抱いた心の中の(わだかま)りが氷解するのはずっと大人になってからだった。


『俺はどれだけ強いのだろうか』


 その答えに辿り着くのはまだ先の話である。


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