犯罪者 4
眼が覚めるた菊池は暗闇の中にいた。狭く、酷く息苦しい箱の中にいるかのような錯覚に陥った。
狭い中から見上げると、ガラスから薄っすら月明かりが見える。エンジン音と小気味好い振動から、辛うじて自分が車の中にいることが分かった。
ガムテープで隙間を塞がれ、完全に密閉された車内に繋がれた太いダクトホースからは排気ガスが送られていた。
目覚めた菊池は吐き気や頭痛で何が起きているのか分からなかった。気怠い体は動かそうにも動かず、頭は働かなかった。
田町組の高橋と宮崎の二人が一酸化炭素中毒で殺そうとしていることなど分かるはずもなかった。
暗い車内の様子は外からでは分からない。
高橋と宮崎が菊池の様子を知ったのは頭を起こして月明かりを頼りに外を見たときだった。
車内からは二人の様子が分かった。
菊池が二人を見ると自分がされた仕打ちを思い出した。思い出すと同時に言い知れぬ怒りを菊池は覚えた。
菊池が体を起こしてドアウインドに手を掛ける。
高橋と宮崎は車内で何かが動いた気がした。
菊池はビニールテープで堅く固定されたダクトホースを掴むと一気に引いた。
工業用の頑丈なダクトホースがまるで厚紙でできたダンボールのように破れた。
高橋と宮崎は何が起こったのか理解出来なかった。
外から見たら、いきなり車の窓に穴が空いたのだ。
その穴から出た手が掴むようにドアウインドウに添えられると、ドアウインドが飴細工のように一瞬で割れた。
高橋が思わず頓狂な声を上げる。
割れたドアウインドから苦しそうな菊池の顔が出てきた。
菊池は貪るように新鮮な空気を吸い込んでいた。
顔を上げた菊池の目には高橋と宮崎の二人がよく見える。
二人が人気のない場所に移動したのも、気を失った自分を車の中に入れたことも、そこで自殺に見せかけて殺そうとしたことも、
全てのことを理解した。
ドアから出てくる菊池を見た二人は慌てた。
検視の結果で薬物反応が出ることは間違いない。今の菊池の荒んだ様子から生活苦による自殺と警察は見る
覚醒剤にハマった中年男性が自殺というどこにでもありそうな事件で終らせたかった。
慌てた高橋は再度車に戻そうと菊池に襲いかかった。
スタンガン片手に襲う高橋。
菊池は高橋の手首を掴んだ。すると、高橋は感電を恐れてスイッチを押すことを躊躇った。
二人が揉み合う中、宮崎が拳ほどもある石を拾うと菊池の頭を殴りつけた。
「宮崎、殺せ!」
二人が菊池の自殺工作を諦めたのだ。
頭部から温かいものが流れる。菊池にはそれが何なのか分かっていたが、おかしなことが何故起こっているのか分からなかった。
痛くない……。
石で殴られた。頭から血が流れるほどの怪我を負ったはずが、全く痛くないのだ。
今まで経験したことのない不思議な感覚だった。薬のやり過ぎでおかしくなったのだと思った。
覚醒剤常習者には肉体的な症状の他にも精神的な症状がいくつも現れる。そのうちの一つが潜在意識の現出化である。
菊池の殺したいという心の奥底に眠らせていた欲求がマグマのように噴き出た。
高揚感にも似た気持ちが体を支配すると、抑えていた菊池の暴力衝動は箍が外れたように暴走した。
菊池の前にいた二人は菊池に殴られると、その力に驚いた。
思わずスタンガンを落とした高橋は焦るように菊池に襲い掛かった。
高橋がスタンガンを使わずに殴りつけると、菊池が高橋の拳を右手で掴んだ。
その瞬間、菊池が潰すように力を入れ、高橋の拳を握った。
「がぁぁああーーああーー」
激痛で高橋は膝を着くが、左拳は菊池に握られたままだった。
文字通り、「握り潰された」。
菊池の怪力に宮崎は竦み上がった。
菊池が空いている左手で高橋の喉を掴むとそのまま握り潰した。
高橋は人形のように倒れたまま動かなくなった。
高橋のスタンガンを拾い上げた宮崎はそのまま菊池にスタンガンを押し当てようとした。
しかし、先に届いたのは菊池の拳だった。
菊池にまともに殴られた宮崎は後方に吹っ飛んだ。
そのまま宮崎は動かなくなった。
菊池の荒い呼吸だけが辺りに響いた。
菊池は自分でも信じられないほど、気持ちが高揚していた。
倒されるかもしれないと思った。倒されまいと殴ると相手は簡単に倒れて蹲った。
闘う喜びを知った瞬間は最高の気分だった。
闘うという刺激が薬物以外で初めて自分を満たすものだと分かった。
麻薬のような快楽を知った。
菊池の障害は暴力依存を伴った。
そして、菊池は闘いを渇望した。
プッシャー二人から覚醒剤を奪うも、二人は薬を売り捌いた後であり、少量の覚醒剤しか持っていなかった。
菊池は少量の覚醒剤が入ったセカンドバッグと財布から金を抜き取ると足早にその場を去った。
逃げるようにその場から去った菊池は当てもなく歩いた。
自分がどれだけ歩いたのかも、今どこにいるのかも分からなかった。
自身が経験したことのない興奮と快楽を幾度となく頭の中で反芻しながら歩いた。
少ない薬を少量ずつ使用するも菊池の体はそれだけでは満足しなかった。
公園を歩いている時だった。菊池は突然、猛烈な気怠さに襲われ、言葉では言い表せない不安と焦燥感に苛まれてベンチに腰掛けた。
太陽が沈むのを菊池は黙って眺めていた。不安で一杯になるもじっと静かに時が過ぎるのを待っていた。
日暮れ時の公園は人が疎らにいた。
周りに人がいなくなり、薬物の禁断症状が現れ始めると、ポケットの中に手を入れて覚醒剤を探した。しかし、そのポケットには何もなかった。
むず痒くなる体は自分のものではないかのような錯覚に陥った。
気を紛らわすように頭の中で考えていたことはやはりあの奇妙な体験だった。
殴ったことも、殴られたことも、潰したことも、殺されかけたことも、全てを何度も頭の中で反芻した。
ふと、菊池は自分を呼ぶ声に顔を上げた。
菊池は老婆に声を掛けられた。
初めは老婆が何を言っているのか菊池には理解できなかった。
傷の手当てをする、晩御飯を食べさせる、寝るとこがないなら寝させてやる。
まるで、捨てられた子犬が子猫の世話を焼くような老婆だった。
菊池はそんな老婆に対して有り難味も何も感じずに、知らず知らずのうちについて行った。
菊池は玄関に入るなり老婆を絞め殺した。
気を鎮をるためだけに老婆に手を掛けたのだ。
最初に声帯を潰すと老婆は助けを呼ぶことができなくなった。
掠れても大声を出そうとする老婆の口からは空気の漏れる音しか出なかった。
暴れようにも体を抑える菊池の怪力が一ミリたりとも動かすことを許さない。
骨を握り潰す度に老婆の体がビクン、ビクンと波打った。やがて老婆は痙攣して意識を失った。
その後もどこか丁寧に慎重に老婆の骨を一本一本折っていった。
我に返った菊池は老婆をバラバラに解体して公園に棄てた。
老婆を手に掛けて気を静めるも、薬が切れて意識が鮮明になるにつれて怠さが菊池の体を支配していった。
呼吸が荒くなり、身体中がむず痒い。何度も奥歯嚙みしめる菊池からは嫌な汗が流れた。体温調節などの温熱性発汗ではないじとっとした汗が止まらず、倦怠感は増すばかりである。
覚醒剤が手に入らない今、頭にあるのは暴力のことだった。