天才ボクサー 4
それから一ヶ月後にボクシング日本王者とムエタイ世界王者の対決が正式に発表された。
国内試合のマッチメイクとは言え、異例の早さである。
それは偶然と言えるほどに運が良かった。
元々、テレビ局側が「格闘技の祭典」という格闘技イベントの開催を考えていたため、さいたまスーパーアリーナという興行場所を押さえていたのだ。
二人の試合は大々的に報道された。
前売りチケットは即日完売し、生放送で放映される特別番組だった。
試合当日、さいたまスーパーアリーナは一万人を超える超満員となった。
この興行で組まれた試合は各階級のタイトルマッチを行うほどのビッグイベントである。
そんな中で行われたメインイベントはなんとノンタイトル戦であった。
それはボクシング対ムエタイの世紀の対決である。
冨樫対高藤戦の前に行われたタイトル戦など、全ての試合が前座だった。皆が一つの試合だけに注目していた。
それは視聴率の変動を見れば一目瞭然だった。
冨樫と高藤の入場の時点で視聴率が跳ね上がった。
冨樫と高藤がリングに入場しただけでアリーナが揺れた。
冨樫と高藤の対決を皆が心待ちにしていたのだ。
「冨樫……靴履いてねぇぞ」
リングサイドに座る黒田の言葉にアシスタントが冨樫の足元に目を遣ると、その足にリングシューズはなかった。
ムエタイ選手で蹴り技を使う高藤が履いていないのは当たり前であるが、冨樫が履いていないのは理解できない。
冨樫が高藤に合わせ余裕を見せているつもりなのだろうか。
靴を履いているかいないかの違いだが、フットワークに影響はあるはずである。いつもとは違う様子に悪影響は出ないのか。
皆が固唾を飲んで見守っていた。
リング中央で対峙する二人、高藤も冨樫も無表情だった。
不思議な空気がさいたまスーパーアリーナを包んだ。
静かだった。お互いのリングに戻り開始のゴングを観客が待つ中、試合のゴングが鳴らされた。
コーナーから中央まで一直線に向かう高藤。
ムエタイ特有の上体を起こした構えから体を揺らし、左足を前に出すオーソドックスの構えから出した足を小気味よく上げ下げしている。
タイミングを計りながら、距離を詰める。
冨樫は前傾姿勢を保ちながら相手との距離を測っている。
上体を起こすのはムエタイやキックボクシングには蹴り技があるためである。
前傾姿勢ではキックは出せない。
大きく見える高藤は冨樫を見下ろしていた。
そして、冨樫を前にした高藤は不思議な感覚に襲われた。
隙のない冨樫に向かえば返り討ちに遭うという感覚に襲われたのだ。
リングの中と外では違った。
間合いは蹴り技のある高藤が圧倒的に有利である。
「なんか……冨樫ちっちゃく見えますね」
プロデューサーである黒田のアシスタントを務める葉梨の言葉だった。
「ボクシングとムエタイは姿勢が違うんだよ。蹴りがあるのとないのとで距離も違うし。
それだけじゃなくて、高藤の方が八センチ高くて、ナチュラルで二十キロ近くも重いんだよ。まぁ、高藤も落として十キロくらいの差だと思うけど」
体格の差は大きな戦闘力の差となる。体重が重いだけで強さに差が出る。
ボクシングが約三キロずつで階級分けされているのも、それだけ強さに開きがあるからであった。十キロの差は三階級ほど差がある。
当初、二人の試合が組まれないと言われていた理由もその体格差が一因していた。
しかし、不利であるはずの冨樫サイド立っての希望だった。
「大丈夫なんですか?」
冨樫の体の心配よりも、試合になるのか、興行が成功するのかということを心配した言葉だった。
「……ああ」
黒田の自信のない言葉に葉梨の不安は募った。
八対二で高藤の勝ち、これが観客の考えであった。
試合はすぐに動いた。
最初に仕掛けたのは冨樫だった。パンチの間合いを一瞬で詰めるとジャブを見舞った。
ムエタイの前蹴りも、ローキック(下段蹴り)も、ミドルキック(中段蹴り)も、ハイキック(上段蹴り)も、膝蹴りも、勿論パンチでさえ、肘打ち以外の全ての攻撃が当たる絶好の間合いに冨樫自らが不用意に飛び込んできた。
高藤の顔面にヒットしたジャブ。不意を突かれた高藤は慌ててローキック(下段蹴り)を出した。
しかし、咄嗟に高藤が出した冨樫の足を狙った左のローキックは躱された。
その瞬間、高藤の左のローキックを狙い澄ましたかのように、冨樫は相手の足が戻りきる前に距離を詰めてジャブとストレートを見事に高藤の顔面にクリーンヒットさせた。
高藤はその衝撃に首が後方に吹っ飛んだ。
初弾のジャブから、ワン・ツーの攻撃まで高藤は自分で気づかなかったが、後退していた。
冨樫のパンチに高藤の体がロープに詰まる。
十キロ以上も軽い体重のパンチの重さではないと思った。
ハイキック一発で終わらせようと考えていた高藤は考えを改めざるを得なかった。
パンチの射程距離など遠く及ばない蹴りの距離のはずが、冨樫に当たらない。
ミドルキックが当たらない距離から、一瞬でパンチを当てに来たかと思えば、その刹那に射程外距離へ逃げ果せるのである。
冨樫の踏み込みの速さが異常であり、それがあってこその芸当であった。
通常、総合格闘技の試合でも多用されるローキック(下段蹴り)は間合いを図るためと、相手の逃げ足を潰すのに効果的である。
高藤の右ローを距離を保ったままサイドステップで避けながら、ジャブを繰り出す。
相手の右足よりも右に逃げれば当たらない。しかし、反対の足からの攻撃は最もスピードが乗り、体重を乗せた絶好のローキックの餌食となる。
パンチの間合いはキックの間合いよりも短い。しかし、当たらなかった。
フェイントを混ぜた高藤の蹴り技をカットすることなく、冨樫は回避していた。
全ては冨樫の軽やかなフットワークにあった。
試合時間は一ラウンド三分間である。まるでダッシュを三分間休みなく繰り返すような動きだった。
高藤が右ミドルキックを繰り出した時だった。
冨樫が狙い澄ましたかのように伸び切る高藤の右膝頭に右フックを合わせた。
高藤は右膝裏靭帯を痛めた。
冨樫が鋭い踏み込みでヒットアンドアウェイを繰り返す。
リングの中を縦横無尽に動き回る冨樫を高藤は追うことが出来なかった。
膝裏靭帯を痛めた高藤はミドルキックも前蹴りさえも出し辛くなった。
冨樫は前蹴りが来たら、掴まえて内側の側副靭帯に拳を叩き込もうと考えていた。
高藤の顔面を何度も捉えている。恐ろしいのはその正確さであった。
顔に打撃が集中しているが、しっかりと左右ボディーなどを打ち分けている。
高藤のTゾーン(両眉から鼻を結んだ線)は赤く腫れている。
的確に顎にフックを見舞うと高藤の膝が傍目から見ても抜けているのが分かった。
プロデューサーの黒田は息を呑んだ。
冨樫は試合前に番組プロデューサーと話し合っていた。
「どのくらいの試合時間がテレビ的にはいいんですか?」
まるで試合時間を思い通りに出来ると言わんばかりの冨樫の発言を黒田は強がり、自信の無さの裏返しと取った。
「五ラウンドをフルで戦えるように時間は取ってあるよ。もし、一ラウンドで終わるようなことがあっても大丈夫と言えば大丈夫だよ」
黒田は冨樫のプライドを傷付けないように気を付けた。
「一ラウンドで終わっても大丈夫なんですか?」
一ラウンドで終わんなよ。
心の中で毒吐く黒田がいた。
「これは勝負だから、何分で決めてくれなんて言えないけど、後番組との兼ね合いもあるし、この枠は二時間枠で生中継される予定だから、五ラウンド中、三ラウンド。試合自体はインターバルを入れて十九分も激しく打ち合ってくれれば、客は喜ぶし、尺的には十分かな。早く終わればダイジェスト流すし。ていうか、冨樫君の試合がメインだけど、他にも試合はあるからね」
ムエタイだけでなく、キックボクシング、総合格闘技の選手たちはなにも冨樫のファイトにばかり注視していたわけではない。
高藤の蹴りは決して鈍らではない。
日本人王者の高藤もやはり強かった。
軌道が見えづらいだけでなく、その速さにあった。柔軟なバネから繰り出される十分に腰を乗せた蹴りはその威力もさることながら、回転の速さも一級品だった。
その高藤の蹴りを全て避け続けるのだ。
冨樫が足を使い、同時に打ち続ける。パンチを打つ時は無呼吸である。
パンチの連打は無呼吸が続く状態であり、その上、冨樫のフットワークは百メートルダッシュを三分間繰り返すようなダッシュである。更に、大観衆の中の重圧もある。
いかにボクサーが十ニラウンド闘い、この試合が五ラウンド制とはいえ、異常なペースの冨樫の体力は持つのだろうか。
今までの試合でも見せたこのない異常なハイペースでの冨樫の攻めだった。
ずっとそのファイトスタイルを貫けば後半はバテる。
三ラウンド保たないと誰もが思った。
その後もヒットアンドアウェイで打たせずに打つ闘いを披露した冨樫は見事だった。
第一ラウンド終了のゴングが鳴った。