赤燐宮の四人
緑色の鉢金を着けた間諜は、彼の大振りな蹴りを躱して大きく跳び退った。とても今まで跪いていた人間の挙動とは思えない。しかし、それがこの夜の会という存在であるのは相違ない。
間諜が持ち帰ったのは剛腕ホルジアの戦死の報である。この緑がホルジアに付いていた組なのだ。しかし、ホルジアは夜の会を毛嫌いしていて、ろくに用いていなかったのも事実なのである。
緑もホルジアには協力的とは言えず、彼の動向を神至会に伝えるくらいしか機能していなかった。初めて帝室に対する務めを果たしたのが戦死報告というのは皮肉以外の何物でもないかもしれない。
間諜は用が済んだとばかりにそのまま身をひるがえして消える。帝室への忠は無く、あくまで神至会の命令にしか従わないという意思を感じさせる。
彼に付いている黒や橙の組もどれだけ指示に従ってくれるかは曖昧なものだ。極めて有能なのは確かだが、当てにしてはいけない相手としか言えない。
彼、虎威皇帝レンデベルは断を下したい気持ちを堪えて、私室の椅子から立ち上がった。
◇ ◇ ◇
水耕筏は非常に軽く出来ており、数名のエルフィンに手伝ってもらえば簡単に岸に引き揚げられる。彼らと目線を交わして上機嫌で筏の上に乗ったカイは、手にした鎌で根元からざくざくと刈り取っていった。
持ち上げた株は、細長い単子葉の合間から伸びたしなやかな茎の上にずっしりと重そうな穂を付けている。その穂に連なる籾の中に彼が待望する実が詰まっている。それを感じるだけで青年の頬は緩みがちになった。
皆で横並びに株を刈り取っていく。
水耕なのでその気になれば簡単に引き抜く事も可能なのだが、この後の乾燥などの手順を思うとここは刈り取っておいたほうが効率が良いのである。残った切り株は水耕に利用した腐葉土の残りと一緒に森に撒いておけば滋養になる。
その森の木が葉を落として腐葉土になり、また水耕栽培に用いられるのだ。ここにもまた循環の形が作れるのは自然を愛するカイの本旨に適っているのである。
刈り取った白麦の株は森の傍、増水しても水被りのしない辺りに建てられた乾燥室に運び入れる。温風の刻印が施された乾燥室に入れておけば二陽ほどで乾燥処理が出来る。
天日干しが理想であるのは間違いないが、豪雨が日常の密林地帯では不可能な望みなのだ。
温風刻印の成された乾燥室と冷暗所として維持される保管庫の存在が密林農業には必須。そちらの建設はエルフィンに甘えてしまったカイだった。
何枚もの水耕筏から収穫を進め、川に入って小さめの野菜筏から幾つもの収穫を得た彼の耳に歓声が飛び込んでくる。エルフィン達と作業しているカイとは別に、堤防の向こうの河原ではチャム達が釣りを楽しんでいるのだ。
「ちょーっと嘘うそー! こんなのあり得なーい!」
苦笑するエルフィンに収穫を託して、河原のほうを覗くと麗人の竿は大きくしなっている。楽しげな歓声の出元はそこだ。
「私ったら海の大物とも渡り合った釣り人なのよー! なのにこんなに手こずらされるってどういうことー!」
口にする内容とは相反して、その顔はにやけっ放しである。猛烈な引きと川の流れとが合わさり、彼女を満足させる手応えにしているようだ。
「おい、そろそろ勝負決めんぞ!」
「絶対に逃がしちゃダメですよぅ、チャムさん!」
「当たり前よー! 逃してなるものですか!」
流れに煌めく銀鱗に興奮も極に達している。
(盛り上がってるね。これは最高のストレス解消になりそうだ)
様子を見守っていた黒猫が気付いて歩み寄ってきたので、抱き上げながら失笑する。
取り込んだ大物は100メック越えの大物肉食魚だった。密林が育む大河にはこんな大物が普通に潜んでいるようだ。
河原で大きく跳ねる巨体の傍では、リドと一緒に白い子猫も跳ね回っている。その子猫は留守にしていた間に産まれた新しい針猫でキルケと名付けられた。
産まれた子猫はかなりの多数に上るのだが、雄の白い子猫キルケは彼らに非常に懐いており、どこにも付いて回るようになっている。活発で好奇心も旺盛であり、活力を取り戻しつつある神使の国を象徴するように良く動く。
まだ両手の上に収まるくらいの小さな身体なのに、キルケは彼らの視線を奪う中心となっていた。
針猫は長毛種なのでどうしても頭部が膨らんだような印象があり、頭身も小さく見えて全体に幼く感じてしまう。ボスを務めていたエルミでさえ若々しい印象は拭えない。
もっとも彼女は本当に若く、推定だが二十歳前後である。魔獣である彼女らは寿命も長く六十輪くらいは生きる。なのでエルミもまだ妙齢の女性なのである。
キルケに至っては本当にまだ子猫で、歩き回っていても珠が転がっているようにしか見えない時がある。彼が可愛がられる所以でもあろう。
チャムが釣り上げた大物ではリドやキルケの手には余るので、犬耳娘が魚籠から30メックほどの程よいサイズの獲物を出してやる。喜んだ二匹は跳ねる魚を協力して取り押さえると、早速嚙り付いていた。
カイが手頃な魚を何匹かを手早く下ろして刺身に仕上げると、彼らはお茶に興じる。片身をもらったエルミも抱え込んで、はぐはぐと忙しい。
「調子良さそうだね?」
「今陽は午前中に豪雨があったから、程よい濁りが入って最高だわー!」
興奮冷めやらぬ青髪の美貌は手を眺めて感触を反芻している。
「まだまだがっつりいくわよー!」
「おいおい、魚を全滅させるなよ」
「あははー、そんな勢いですぅ」
魚醤をちょんと付けた刺身を嗜みつつ、青年は冗句に笑みを見せる。
「ほどほどにね。あれは燻製にするには骨が折れる」
「あ……」
絞めたばかりの大型魚は、かなり小さく切り分けないと燻煙が回るのに時間が掛かってしまう。
支流の脇には、乾燥室などとは別に燻煙室も設けられている。釣った魚は捌いて燻製にするのが主流になっていた。
赤燐宮も徐々にではあるが食料自給率が上がりつつある。
「でもぉ……」
チャムの上目遣いには勝てない。
「構わないさ。でも、僕一人じゃ手が回らないから、クララナ達にも感謝するんだね」
「そ、そうね! お願いするわ、クララナ。アコーガも」
「仰せのままに」
女王付きのエルフィン達は頭を下げる。
彼らが女王に従うのは当然の事であり希望にも沿っているのだが、言葉が有ると無いとでは張り合いが違うだろう。青年は彼女が忘れがちな部分を促しておく。
満腹で更に丸くなってしまったキルケがフィノの膝で寝息を立てるのに、皆は口元を綻ばせた。
◇ ◇ ◇
(立腹しておるのう)
ジギリスタ教会の地下。足音荒くやってきたこの国の至高に座する者は、彼女に散々不平をぶちまける。権力の頂点に在ってさえ、全ての希望が叶う訳ではない。比較的強権の主ではあるが、儘ならぬ思いは抱えているのだろう。
主に彼の希望に沿わないのは息子達であろう。
宮廷貴族にも彼の意に沿わぬ行動を取るものはいなくもないが、面従腹背が基本である。聞こえてくる不満は遠く離れた場所からであり、周囲を固めるように圧力を感じて折れる事になる。
あからさまに意見してくるのは、帝位の継承に躍起な息子達だ。唯々諾々と従っているだけでは成果は得られないので意見もする。その競い合いは彼の血の有能さを知らしめているようで、寛容に応じているようだ。
(さすがは神屠る者、一筋縄では落ちまいて)
その息子達も一人消え二人消え、とうとう一人となってしまった。魔闘拳士の前に敗れ去ってしまったのだ。
(さて、ひとつ揺すってやろうかのう?)
首座アメリーナは肘掛けに体重を預けて身を乗り出した。
白麦収穫の話です。エピソード「恩讐の玉座」開幕。ホルジア戦死の報が届き皇帝の怒りが爆発する頃、彼ら四人は呑気に趣味に興じている展開でした。とりあえずはのほほんとした幕開けになります。このエピソードは少し長めになるかもしれません。




