獣の咢
上着の下、背中に潜ませてあるナイフの柄に触れる。それを抜いて領主の息子の背後に回り、喉首に突き付ける。
それだけでこの場を脱する事は出来る筈だ。その後の事はまた考えればいい。少なくとも今ここで捕えられるよりはマシな未来がある。
「そこまでにしておきましょうか?」
ナイフの柄を持った右肘が掴まれる。
「!」
「いい加減にしないと血を見ないと終わらなくなりますよ?」
思わず奪われた視線が黒瞳とぶつかる。そこに込められた殺気が背筋に氷の杭を打ち込んだ。
(何をしようとしていたんだ? そこから逃れられると思っていたのか?)
アイゼンフェルトは自分がとんでもない思い違いをしていたのに気付いた。
彼はずっと強大な獣の咢に頭を咥えられていた状態だったのだ。ほんのちょっとその牙に力が込められただけで全てが終わるそこに最初から捕らえられていたのが分かっていなかった。
どうしようもなく膝が震える。顎が恐怖に痙攣し、弁解の言葉も紡ぎだせない。痙攣が全身に波及し、指に力が入らずナイフを取り落とし、膝が大地に打ち付けられた。
ナイフが舗装路に落ちて立てた金属音で、皆がその異常に気付いた。
そこには肘を取られたムダルシルトの執事が頽れ、ガクガクと揺れている。その目は何も映しておらず、正気を保っているようには見えなかった。
「捕えよ!」
抵抗の意思を汲み取ったファクトランの命で領兵が動き、執事と共に商会主の身柄も押さえる。ヴァフリーは観念したように何の抵抗も示さず、目から光を失っていた。
「縛って衛士詰所の牢に放り込んでおけ。後で尋問する」
主だった者は連行され、帝国兵達も武装解除された上で、彼らが乗ってきた馬車に詰め込まれて待機を命じられる。罪を問われる事は無いだろうが、自由に帝都に帰らせる訳にもいかない。何らかの手続きを踏まねばならないだろう。
「君にも事情を聞かせてもらう」
内なる恐怖を見せないよう、平板な声で問い掛けるファクトラン。
「構いませんよ」
「協力感謝する」
軽く会釈した彼は、群衆に大音声で告げた。
「これで終わりだ! 皆、戻れ! 事の顛末は後に布告する!」
ファクトランのひと言で教会前広場の騒乱は幕を閉じた。
◇ ◇ ◇
貴族の青年が率いてきた領兵はそれぞれの監視に付き、ファクトラン本人は大司教の厚意で、教会で最も広い応接室に通された。
関係者はそこに全員が集まり、彼に事情を話す段取りとなる。
「もう六輪ぶりとなりますか? ずいぶんお美しくなられて驚きました」
全ての中心となったラエラルジーネを前にして、ファクトランは視線のやり場に困っているようだった。
「はい、良くお見えになられていたのにお顔が見られなくなって寂しく思っておりました」
「ずっと父に付いて領地経営に関して学んでいたのです。各地を巡ったり帝都に赴いたりと忙しくしていてこちらに伺う暇も無かったので」
二人は顔見知りだが、長い期間を置いての再会だった。
六輪前といえば、ラエラルジーネは十三。癒し手としては頭角を現して有名になりつつある頃でも、彼女自身はまだまだ少女然としていたのである。ところが再会してみれば、絶世の美女と言える女性に育っている。
その彼女が花のように笑い掛けてくるのに、ファクトランは戸惑っている様子を見せていた。
「それは大変でしたのね? 我儘を言って申し訳ございませんでした」
「とんでもない! しばらく前からやっと多少なりとも仕事を任せてもらえるようになって、一人で自由に動けるようになったので伺おうと思っていた矢先にこんな事になったのです。遅れてしまって申し訳ない」
お互いに謝り合って奇妙な空気になっている。
「次期領主様ともなればお忙しいのでしょうから、思い出してくださるだけでも光栄な事ですわ」
「いや、違うのです。我が領地の税収に於いて、クステンクルカはかなりの割合を占めているのです。それこそ首都インファネスを凌ぐほどに」
大袈裟な身振り手振りで商都の重要性を説く。
「父と話して今後は主にここに身を置く相談をしまして、諸々段取りや手続きを進めている最中に思わぬ報告を受けて焦ってしまいました。貴女の身に何か有ればどうしようかと」
「え? わたくしですの?」
「はい、輝きの聖女の評判が広まると共に人の動きも物の動きも活発になって、税収は右肩上がり。貴女はこのジャンウェン領の宝なのです。帝都に差し出すなどとんでもない。そんな事は俺が絶対に許しません!」
そう断言されてラエラルジーネは少し頬を染める。
それもその筈、幼い頃の彼女は、いつも穏やかな笑顔を向けてくるファクトランに淡い憧れを抱いていた。その当人が自分を必要としてくれるのは、女心をくすぐるには十分である。
「では、わたくしはこれまで通り目立っているだけでファクトラン様のお役に立てるのですね?」
そこには喜びとともに少しの落胆も混じっている。
「いや、俺がクステンクルカをもっと栄えさせて、貴女の負担を軽くして見せましょう。それが守るという事だと思っています」
人々の生活が豊かになれば、貧しい者が彼女だけを頼らなくて良くなる。輝きの聖女の名に引き寄せられる者は減らないだろうが、魔力の枯渇に苦しむ事は無くなる筈なのだ。次期領主の貴族はそれを目指しているという。
「まあ! そこまでお考え下さっているのですね?」
「い、いえ、それが皆が幸せに暮らす道だと考えていますから」
今度こそ頬を赤く染めて潤んだ瞳で見つめてくる聖女に、ファクトランはどぎまぎと答えを返している。
「お待ちを! ジーナ嬢は当教会の司祭なのです! 彼女の身は教会が守るのが筋というもの。お任せいただきましょう!」
「それはもちろんだろうが、彼女は俺の領民でもある。守るのは当然の事だ。心配せずとも、司祭の身分は尊重した上で任せてもらいたい」
「だが……!」
憎からず想っている相手が、急に現れた貴族に攫われては適わない。慌てたヌークトが口を挟み、二人は一人の女性を奪い合うように言葉を重ねた。
「これはお邪魔かしらね?」
その様子を面白そうに眺めていたもう一輪の花は、半笑いでそんな事を言う。
「そうかもね」
「まあ、そう言われるな。若いというの良いものだが、それだけで人の生活は回らないのだ」
ウェンダットは大司教という座に相応しい貫禄を持って、若人の営みを眺めている。
「訊いてもいいだろうか?」
「僕個人の事なら大概はお答え出来ますよ」
緊迫した状況下でも泰然と構え、適正な対応が出来るこの大司教を信用に足る人物だと思っている。
「貴殿にとってロードナック帝国は敵か?」
「ずいぶんと厳しい質問をしてきますね?」
切り込んできたウェンダットに、カイは苦笑いを返す。傍らで話していたラエラルジーネ達も思わず息を飲んだ。
「僕は先ほど指摘されたような西の尖兵ではありません。ただの流しの冒険者です」
隠しから取り出した徽章をぶらぶらとさせて見せる。
「基本的にはどこの国に与して動くというつもりはないのですが、世界が安定成長する事を望んでいます。そういう意味に於いて、帝国の拡大政策が妨げになるのは事実だと言えましょう」
「危険視していると受け取れるが?」
さすがにファクトランは座視出来ず発言する。
「今はそちらに天秤が傾いています。見極める為に出向いてきました」
「その結果いかんでは動くという事か?」
大司教は冷静にカイの真意を受け取ろうとしている。
「それ相応の覚悟が必要ですが」
「命を賭けてでも成し遂げるとおっしゃるか?」
しかし、それは読み違えだ。
「いえ、何百万人でも殺す覚悟です」
それは帝国の首に獣の咢が掛かっている事を意味していた。
咢の話です。カイの咢がどこに掛かっているか、という展開でした。帝国を中心に描く東方の章はまだまだ序盤ですが、カイはあからさまに帝国を敵対視していないというのを断っておかないといけません。全てはこれから次第なのです。




