獣人郷の今
「カーイにゃー!」
元気良く駆け込んできた影が黒髪の拳士の胸に飛び込んでいく。
「大きくなったね、アムレ。良い子にしていたかい?」
「いっぱいしてたにゃ。ナーフス園のお手伝いもしてるにゃ」
(重くなったね)とも思う。仔猫の一輪半は長い。あっという間に大きくなってしまう。
すぐに跳び下りて一緒に居るピルスと抱き合う。彼女も最近は女の子らしい仕草が増えてきた。兄のアキュアルが陽々逞しくなってきているのだから、当然と言えば当然か。
当のアキュアルは、今陽は王宮まで付いてきているレスキリと話している。彼らはなぜか仲が良い。彼女が黒狼の少年に獣人居留地を旅していた頃の話をせがんだのが始まりで、今は良く兄妹で自宅に泊まりに来ているそうだ。
ウィノが不機嫌になるので程々にして欲しいとアサルトに零されるのだが、それを言われても困るのである。
「これはエレイン北辺卿。ご機嫌麗しゅう在られますか?」
歩いてきた白猫に挨拶を送る。
「冗談はおよしになって、カイさん。良かった。お会い出来ました」
「貴方が伺候なさると聞いていたので上がったのですよ」
レレムは現在、爵位持ちである。
ナーフス園の成功は、つまり人口爆発を意味する。エレイン郷はもちろん、スーチ郷も出産ラッシュが巻き起こった。
簡単に狩れる魔獣。順調な採集。そして容易に手に入る主食。それで生活にゆとりが出ない訳がない。ゆとりが出来れば意識は子孫繁栄に向いていく。
狩場は豊かで郷の規模を大きくしても食料供給に問題は出ず、配慮の必要無く戸数は増やしていける。その為に、無理に連分けはせず、通路を繋げて新たな集落を建設してその周囲に新たなナーフス園を広げていく形になっている。要するに衛星集落が周囲に増えていく方向で落ち着いた。
更にフリギア領獣人居留地からの流入も盛んである。
レレムの元を訪れた若者達は、纏まった数であれば新たな郷を建設する許可を得て北域各地に散らばっていく。それが形になればそれぞれが新たな郷名を付け、それを伝えられたレレムが政務大臣グラウドに申請して徴税の手筈が整えられていく。
中には少数のグループがレレムを訪れてくる場合がある。その者らは一時的にエレイン郷に滞在して、幾つかの連が纏まって独立していく。その滞在用の集落までも建設された。
独立を望まない連も現れて、現在エレイン郷は六つもの連を抱えている。その連の住居を確保する為にまた集落が建設され、今やエレイン郷は周囲に四つもの衛星集落を抱え、十字の形に発展を果たしていた。
この連を増やす前の段階で、レレムはカイに相談をしていた。郷の規模を大きくするのは彼女にしても未知の世界であり、不安が拭えなかったらしい。
レレムの管理能力に微塵の問題も感じなかったカイは郷を大きくする事を勧め、衛星集落の素案を示唆する。この時、カイの頭の中には獣人族による都市の建設に思考が至っていた。
そして、もう一人頭を捻っていた人物が居た。政務大臣グラウドである。
予想されていた人口爆発とは言え、その速度が想定を軽く凌駕している。これまでのような伝言ゲームのような管理では、近い将来齟齬が生じると考えた。
これはどう見ても正式な書類による管理が必要とされている。レレムは優秀な統治者であるのでそれに不安は無い。しかし、公式文書の遣り取りとなれば、双方に責任者を置かねばならない。最終的な責任の所在はグラウドが自分で受け持つ心積もりではあっても、名目上の責任者が必要である。それも公的な地位のある人物でなければ筋が通らない。
それを国王に計ったグラウドは、アルバートから爵位の下賜を引き出した。とは言え、政治的軍事的功績の無い者を通常の貴族に叙する訳にもいかない。討議の結果、男爵位に相当する『北辺爵』という特別な爵位を制定し、それにレレムを叙する事にしたのだ。
それによって、同じ男爵位の者には僅かに下位となる爵位だと説明し、下の騎士爵の者には政治的な爵位である事で納得させた。
そんな経緯を辿って「レレム・エレイン北辺爵」が誕生したのである。
その結果生まれたのが伺候の義務である。
現在、レレムは半輪に一度の伺候の義務を負っており、それが今陽だったという訳だ。
「助かります。遠話器で済まない事はないのですが、直接ご相談出来ればと思っていましたので」
「何か困り事でも?」
赤眼が不安に揺れているところを見れば放置など出来はしない。
「獣人同士の事であれば何とでもなるし、頑張る事は出来るのです。ですがいかんせん、公式の書類仕事となると今までの経験が役に立たずに難儀しています。政務卿が書式の資料をお送りくださったのですが、勉強しつつ実務に従事し後継まで育てるのはあまりに難しくて……」
「それ、最後の一つが余計なんじゃ?」
皆が思ったのだが、チャムがつい突っ込んでしまう。
「でも、レレム一人が実務を覚えても、今後の分担が出来なくなってしまうでしょう?」
「そうですね。長期的視点で見ると、貴女が全面的に正しい」
カイの肯定にレレムはホッとした顔を見せる。
「侯爵様はご自身があまりに優秀なので出来ると思ってしまうのですよ。レレムのような人のほうが希少だと分かっていらっしゃらない」
「幾分かの負担軽減をお願いするか、参考資料の取り纏めだけで清書を専門の方にお願いできないかと申し上げたいのですけど、こちらの事情に配慮して爵位までいただいたのに出来ないというのは申し上げにくくて。どう説明申し上げればご理解いただけるかと?」
「それは止めましょう。もっと抜本的な解決が必要です」
「え?」
「一緒に参りましょうか?」
白猫婦人はカイに連れられて、王宮の奥へと向かっていった。
「……という現状なのですよ、侯爵様」
普通に政務大臣執務室の扉を叩いた彼に、おっかなびっくりレレムは従う。いきなり大勢の客を迎えたグラウドだったが笑顔で迎え、お茶が供されて思い思いに寛いでいた。
「それは申し訳無い事をしましたな、エレイン卿。私の考えが浅かった」
「そんな風におっしゃられると、身が縮む思いです」
「いやいや、想定すべき事態でしたな。で、どうしろと言うのだ、カイ」
話を振られた彼は、チャムのいつもの観察するような視線を意識しつつ持論を披露する。
「爵位まで設けたのですから、もう北域は一個の政治単位として考えましょう。執政府の建設を進言致します」
「む、本格的なものをか?」
「無論。侯爵様は若手政務官の修行場所が欲しくは有りませんか?」
グラウドの眉がピクリと上がる。絶好の修行場所であるルドウ基金を失ったばかりである彼には、あまりに甘い誘い文句であった。
確かに政治単位と考えれば、未熟な北域の政務は単純で修業に適していると言えよう。基金に引き抜かれた人員を補充するにはそういう場所が必須なのは事実だ。
「そう来たか。痛いところを突いてくる」
「損はさせませんよ、僕は」
「これは私の負けだな。財務に話を回しておく。場所柄、安全確保も考えねばなるまいからな」
相手がグラウドだと話が早く済むとカイは思う。
「少し大きめに計画していただけませんか? 中に勉学所も設けたいのですけど」
「彼らにも教育を? ふむ、拾い物が有りそうな話ではあるな」
レレムのような才能ある者を掬い上げる算段だ。将来の職員も育てられるし、政務官向きな人物が生まれてきても不思議ではない。先進的なグラウドだからこそ出てくる発想だ。
「興味深いな。ではエレイン卿、早急に取り計らう故、そちらでの執務をお願いしたい」
「重ね重ねのご配慮感謝致します」
彼女は深々と腰を折った。
こうしてホルツレイン北域に、政治的にも新風が吹く事になったのだった。
獣人郷の話です。レレムの爵位の話を早めにしておかねばと思ったのですが、どこかに放り込めるくらいの軽いエピソードのつもりでした。でも書き出したらこれですよ。バッチリ一話分に膨らんでくれます。勇者来訪エピソードの最終話が短く纏まったから油断すればこれだ。さあ、次がホルツレイン編の最終話に纏められるでしょうか?




