国境間近(地図)
商隊は酒の進まなかった一部の冒険者に見張りをお願いしてその場で夜営をした。
痛飲した者も多かったので、翌朝、昼の白焔が登っても夜営地は死屍累々といった有り様。遠く剣戟の音が聞こえてきているのだが、誰一人気付かない。
「そろそろ疲れてきたんじゃない? ほどほどにしないと昨日の疲れが残ってると思うけど」
「まだまだよ。ここのところしっかり振れていなかったんだもん。とびっきりの組手の相手が見つかったんだから本気でいくわよ」
そうチャムは宣言して更に打ち込みが強くなる。
言わずと知れた相手はカイなのだが、全くもって容赦なく真剣を振るってくる。
昨日までちょっとは使えるローノービスと思っていた相手が、西方に名の売れた使い手と解れば張り切ってしまうらしい。相手には災難以外の何物でもないが。
「どうせ私が一人で剣を振ってるの見て下手くそだって笑ってたんでしょ?」
「いやいや全然そんなことないって。チャムの剣筋はとても綺麗だから、あまり茶々入れたくないんだ。どれだけ振ってきたんだろうと思うくらいに。あ、もちろんまだ伸びしろは十分にあると思うよ」
「さっきから簡単にあしらわれてる相手にそんなこと言われると腹立つ」
「えー、じゃあどう言えばいいっていうの?」
なかなかに理不尽である。
しばらくするとさすがに手が止まり、「ふぅ、良い汗かいたわ」と剣が鞘に収められた。やっと終わったと喜んだのも束の間、爆弾発言がカイに投下される。
「じゃあ、あっちの陰で身体を拭きたいからついてきて」
それで期待に胸膨らませない男は居ない。
「それは鑑賞しろという意味でしょうか? それとも背中を拭けという意味でしょうか?」
「惜しい! 見張りをしろって意味よ」
たらいに水を張って湯にする作業を命じられたカイは大人しく従う。
軽鎧を外して薄着になっていたチャムが当然のようにそれを受け取り岩陰に消えていくと、ほどなく衣擦れの音がかすかに聞こえた。
「…拷問?」
カイの脳裏を想像の白い肢体がチラチラとよぎる。
だが、昨陽から呼びかけが「君」から「あなた」に変わっているのが、敬意と信頼の証だと分かってしまっている彼にそれを裏切る勇気は無いのだった。
◇ ◇ ◇
カイとチャムが戻ると商隊ものろのろと移動準備を始めていた。
二人も軽くドライフルーツを齧って定位置に収まる。タニアはまだ眠たげな様子だったので屋根の上はカイ一人だ。
しばらくすると御者の隣に座っていたオーリーが振り返って訊ねてきた。
「…あの、魔闘拳士さま、お礼金のことなのですが…。ご覧の通り馬車も少し破損していて色々と入り用なので、あまりご用意できなさそうですが、お許しいただけますか?」
「何をおっしゃっているんです、オーリーさん。取り決め通りの依頼料以外必要ありませんよ。それにそんな風に呼ばないでください。僕は冒険者のカイです。ただカイと呼んでください」
「いいのか。君は…、その…」
「お願いします。僕はそんな上等な人間じゃないんです」
「解った。悪かったよ」
世間はどうしても自分をそういう目で見がちだろうが、それでできてしまう距離はカイを寂しくさせてしまう。だから余計にバレたくないと思うのだ。
その後の旅は順調に続く。
再び魔獣レーダーの定位置に戻ったカイを『紅蓮の翼』の男たちは苦笑いと共に迎えたが、見る目が多少変わってくるのは否めない。実際に「掛かったらすぐに言ってくれ。指示に従うから」と言われては少し閉口する。
ただ、タニアはもう完全にベッタリとなり、彼の膝から動かなくなった。
「すごかったねー。カイお兄ちゃんがドカンってやったら悪い人がピューッて飛んでいっちゃったんだよ」
興奮覚めやらぬ様子が数陽も続くので、いたたまれない事この上ない。
父親の膝への引っ越しを勧めてみるのだが、オーリーに「西方一、安全な場所に居させてくれ」と言われたのでは無理も言えない。
たまにチャムが屋根の階にやってくる時もあるので話し相手にも困らないようだ。
◇ ◇ ◇
そんな感じで数陽の時が過ぎると、ホルツレイン国境が近付いてきて、『紅蓮の翼』のメンバーと契約解除となる街に到着する。
「じゃあな、魔闘拳士。あの英雄様と旅ができたなんて自慢話が増えたぜ」
「いや、言い触らすのは勘弁してほしいんですけど」
「まあ、そう言わずに酒の肴になってくれ」
「そんなこと言うなら、『紅蓮の翼』とかいうチームは全然たいしたことなかったって噂を流しますよ?」
「そいつぁかなわねえな」
彼らとは死線を切り抜けた仲になれたし笑い合って別れられたのは僥倖だろう。
その街のギルドに犠牲者たちの遺品を届け、警護要員補充の依頼を出した後、盗賊退治の褒賞金を手に入れたオーリーは全員で中打ち上げの席を設けて皆の喝采を浴びた。
騒ぎに騒いだ彼らは幾人かが街娼の立つ裏道に抜けたのを除いてオーリーに感謝の乾杯を捧げる。カイを引っ張り出そうとした者もいたが、彼は頑として受け入れない。
それどころか料理は楽しむものの、一滴の酒も口にしなかった。
その様子を見ていたチャムが「少しは羽目を外してもいいのに」という視線を送っていた。それをカイは、彼が裏道に行かないように監視していると誤解してずっと気付かない振りをしている。
そんな擦れ違いも含みつつ、夜は更けていった。
日常話と急接近でした。