櫂と拓己
一言で言えば、流堂櫂という少年は険のある男の子だった。
我が強く頑固で、自分を通すには暴力も厭わないという態度を示すのだが、それが少々父の修を悩ませている。長男ということで甘やかして育てているつもりはない。むしろ自分は怖い父親だと感じられているのではないかと思われる。
困るのは、それがただの我儘からくるものではないからだ。
例えば公園での一件を見るとそれが顕著に表れている。
公園で遊ばせておけば知らない同士でも子供たちはいつの間にか仲良くなっていると考えるのは大人の見方である。実際には遊具を巡る争いなど日常茶飯事だ。
櫂は自分から強く遊具を望んだりはしない。誰かが遊んでいれば静かに見守り、奪いに行ったりすることなどまず無い。ただ、大きな子たちがそれを占有して女の子や小さな子が遊ぼうとすると追い出そうとする場合には、無言で近付いていって暴力を以って排除するのである。
そしてその後はそのまま離れていったり、誘われれば一緒に遊んだりもする。前者はともかく、後者の場合が大人たちには奪い取りに行ったように見えてしまうのだ。
そうなれば苦情が流堂家に舞い込んでしまうこともある。修はその一面だけでいきなり叱り付けるようなことはしない。櫂を座らせて事情を詳しく訊くところから始める。そして判明した事実に叱責を躊躇い、注意を与えるだけに留める。
櫂は独自の正義感のみに従って行動している。それが修の見解だった。
修は、長じれば社会性や協調性を学び取ってその傾向は形を潜めていくものだと思っていた。そう思わせる一因には、彼の隣に居る一人の少年の存在がある。
流堂拓己は櫂の同い年の従兄弟だ。少々離れてはいるが、同じ市内に居を構える修の弟の子である。
拓己は櫂と対極にある生粋の平和主義者だ。柔和でいつも笑顔を絶やさず、誰とも争うことをしない少年なのだ。対立しそうになれば必ず自分から退き、譲ってしまうところがある。
この、一見水と油に思える二人は実に仲がいい。ただ何事も拓己が退いているから上手くいっているわけではない。櫂が拓己の言うことなら聞くからであった。
二人で公園に遊びに行けばトラブルが発生する頻度は激減する。少なくとも苦情に発展するような大事にはならないのである。彼らはお互いに足りない部分を補い合って子供社会に馴染んでいるだと修は思う。
そうしてお互いから学び合って成長していけば問題無いと考えていた。
◇ ◇ ◇
姉の礼美にとって櫂は理解し難い生き物だった。
幼い頃は「お姉ちゃん」と呼んで付いて回っていたものだが、小学校に上がった頃にはそんなこともなくなった。
彼は基本的に微笑を浮かべて自分を見ている。用を申し付ければ文句一つなく言うことを聞いてくれる。ところがある一線を越えると途端に「ダメだよ」「いけない」と頑として拒んでしまう。櫂の中では決まった基準があり、どうやらそれを越えるのは許してくれないようだ。
その微笑は、礼美にはニコニコではなくヘラヘラに映る。それが相対的なものである以上、こういった誤解は生じるものだ。
要するに礼美にとって弟とは、時々は反抗的だが従属的な生き物だという結論に至っていた。
クラスで弟の居る友人に尋ねてみると、不仲な場合も多く彼女らは「生意気だ」と感じているようだ。弟と仲の良い比率も少なくはなく、彼女らは一様に弟を「可愛い」と言って愛玩に近い感情を抱いているように感じる。親愛の情とペットに対する愛玩感情は、子供心では大きな差異は見られないのだが、そんなことは彼女自身が子供である礼美にもまだ理解できない。
そんな礼美にも「可愛い」に分類できる存在が居る。従兄弟の拓己がそれだ。彼はいつもニコニコと言える満面の笑みで「礼美お姉ちゃん」を慕ってきてくれる。温和な拓己は彼女に一切反抗すること無く、そんな彼に礼美も無理を言うことなど無い。だから二人の間はいつも円滑に回っていた。
(拓己が弟だったら良かったのに)
そう思ったことは一度や二度ではない。よく解らない櫂に比べれば余程仲良くできる自信がある。
それをつい母親に漏らしてしまったことがある。その時はさすがに母もかなり怒っていた。どうもこれは内心に収めていた方が利口であると彼女は理解する。
或る時、公園で櫂が上級生らしい子供と揉めているのを見たことがあった。
背後に女の子を庇っている彼は敢然と上級生に立ち向かい、鋭い視線と力強い拳を以って追い払ってしまった。子供のことなので叩いた叩かないのレベルの喧嘩なのだが、それで家に相手方の親が怒鳴り込んでくる。穏やかに応対する父が子供同士の問題は子供同士でしか解決できないと突っ撥ねてしまったが、櫂が父に迷惑を掛けているのは間違いない。
それほどの気概があるなら、もっと自分にも反抗的でないとおかしい気がするのだが、弟の態度には変化が無い。そうなれば姉としては思ってしまう。弟は、姉にはあまり逆らわないヘタレなのだと。
その後も何度か櫂の蛮行を見かけたり噂を聞いたりもするが、彼は今も姉の指示でスーパーまでアイスを買いに走らされている。
そんな感じで礼美の意識は固定化されていってしまうのであった。
◇ ◇ ◇
母の礼子にとって櫂は手の掛からない息子だった。
家庭では反抗的な様子を見せることはほとんどなく、聞き分けの無い態度を取ったりはしない。全ては円滑だというわけではなく、時に彼の思いと異なる言葉を受けることは少なくも無かったようだが、そんな時に息子は困った顔をして考え込んだ挙句に譲歩案を出してくるのだ。
礼子は、機転の利き過ぎる櫂には不安を感じてしまうが、実害が無いのでそれを理由に叱るわけにもいかない。
少々暴力的な所が見られる櫂に、世の一般女性と同じく忌避感を抱く礼子は幾度となく修と相談しているが、夫は自分が処理するので問題無いとの一点張りだった。
それでも息子の将来を危惧する母親として、伝手を辿って櫂を空手教室に通わせることにした。武道を習わせれば礼儀正しくなり、暴力行動も減るだろうという先入観からだ。
これは礼子の認識不足なのだ。武道経験者でない修にも諫めることができなかったが、武道というのは武技の習得を目的とし、主に身体を武器とする技術である。精神修養が伴うのは、それが無ければただの武器を作り出すに終わってしまうからだ。刀を打てば一緒に鞘も作りなさいという考えに基づくものである。
つまり、本人が精神修養に対する有用性を認識していなければ効果が無い。実際に武道を修める者の暴力事件も後を絶たない。それらは精神の未熟さから感情に振り回されて起こるものだ。
櫂の場合は違う。彼は自らの正義を疑い、自らの正義を信じ、常に吟味し続けている。そんな人間に、頭ごなしに暴力を振るう危険性を説き聞かせたところで意味は無い。彼は精神修養の有用性を認めていないタイプだった。
大きな変化があったのは、櫂が小学校の上級生に上がった頃だった。普段は割と微笑に納めていた顔付きが、朗らかなそれに変わっていったのだ。
それを礼子は、息子の中で大きな心情の変化があったのだと理解した。まるで従兄弟の拓己のように変わってきた櫂に、夫の修が言っていたように影響し合って成長してくれたのだと喜ぶ。武道の効果も相まって大人に近付いてくれたのだろう。そう思っていた。
あんな事が起こるまでは。
幼い頃の櫂の話です。カイの昔語りのような導入の形を採りましたが、日本過去編は事実描写で進めます。まずは櫂に対する客観的な見方から入りました。彼の成長には切っても切れない存在が居たという事です。




