トレバ皇国史(地図)
トレバ皇国皇王ルファン・メテウス・トルキウスは宣った。
「軍の編成を急がせよ。朕の地を取り戻すための戦いであると心得ぬか。朕が詔は神意と等しきものである」
齢六十は数えようかという皇王の目の奥には切迫感が隠されている。
度重なるフリギア侵攻は失敗に終わっている。万全を期して行った、九輪前のホルツレイン侵攻は一方的な敗北に終わり、逆侵攻を避けるためには国家レベルでも多額な賠償金が必要だった。
このままでは自分の御代に於いて何も得られずに終わってしまう。後世に、国家に経済的な大打撃を与えた無能な皇王として語られるのは耐えられない。幾ばくかでも領土拡張を果たさねば、それは確実だ。
「申し訳ございません、陛下。兵の徴用にも時期が悪く、兵装の確保も儘ならない状態でありましたが、陛下の御慧眼により鉱山に送り込んだ者の効果もあって、お待たせした編成も整いつつありますればもう少々のお時間をいただきたく存じます」
「ふん、そなたの無能も朕の名案で助けてやったのだ。これ以上待たせるようなら、そなた自らの鉱山送りも考えておったが、仕方あるまい。猶予を与えてやろう。感謝せよ」
「はっ!陛下の御寛容、我が身に染みておりますれば、御下命に沿えるべく粉骨砕身働く所存にございます」
クアルサス軍務大臣は平伏して下命を承っている。
元々、侵攻軍の編成には不向きな時期の勅命だった。その時期に兵の徴用を急がせれば耕作地を放棄せねばならず、半輪としないうちに餓死者が続出していただろう。本来なら国家備蓄の放出でそんなことは起こらない。
しかし、兵装の補充のために鉱山労働者の動員に農民を駆り出し、男手の減少した耕作地は十分な作物を産出できず、度重なる増税で流民化する民も多く、食料自給率は急転直下の様相を呈している。
軍務大臣が勅命を嵩に、他の大臣を突いたところで無い袖は振れぬと返される有様だった。
◇ ◇ ◇
トレバ皇国建国の詳しい経緯の記録は無い。ただ、魔王に対せし勇者に啓示を与える神使の血族による建国史が残っている。
しかし、それは歴史などと呼べるような代物ではなく、むしろおとぎ話に近いと言っていい。
それは太古の昔、神使に率いられし先進魔法王国の民がこの西方に根付き、トレバ皇国の祖となったという単純な話である。皇王ルファンの言葉はこの建国史に基づいているため、自らを神の代行者と称しその言葉を神意としているのだ。
だが、それが真実などとは誰も信じてなどはいない。それが本当ならトレバ皇国は魔法大国に発展していなければ辻褄が合わない。
長き歴史に魔法技術が失伝することも有り得るだろうが、全てが失われるのは無理がある。生活に密着した一端なりとも残っていなければ妙な話になる。更に言えば、そこから発展した特殊な魔法体系が存在していてもおかしくはない。
ところがトレバの魔法技術は西方はもちろん、魔境山脈の向こうの中隔地方や更に彼方の東方と大きな差異は無い。
要するにトレバ皇王が神使の家系というのは、国家としての箔付けに過ぎない。それでもそこに真実を主張し、国是として他国に訴えるのが一国の支持基盤になっているのも事実だ。つまりルファンの思い込みが国の礎石であるのも否定できない真実なのである。
魔境山脈という天然の防壁に守られた西方は大きな侵略の経験なく歴史を紡いできた。
最初は都市国家程度だったトレバ皇国も魔法を基本とした急速な発達と人口増加に支えられて巨大国家に成長していった。
北部密林地帯周辺、東部魔境山脈周辺、沿岸地帯の一部を除き、全てが皇国の版図にまでなる。要するに皇都ロアジンの威光が届かぬ外縁部危険地帯以外は皇国となったのだ。
その歴史が五百輪を数えた頃、唐突にその版図は割れた。
魔境山脈に対して防塁のような役割を担ってきたホルツレイン大公家がその功績に免じられ、ホルツレイン公国の建国を許されたのである。それは本来体面上の扱いであったはずだ。
元々、大公領はその性質上独立性を高く認められていた所為もあって、領民もそこが一国であるかのように振る舞ってきたきらいがあった。危険な役割の継続を求める代わりに、名目上でも国家と認めることで不満を煽らないようにとの配慮の結果だ。
ところが皇国の思惑とは異なり、ホルツレイン公国は一気に独立独歩の道を歩み、僅か数十輪で王国へとその姿を変貌させる。しかし、元が独立当時の皇王の詔によるもの。今更返せというのは如何にも体裁が悪く、そのまま大国への成長を認めた形になってしまう。
それから二百輪の後、フリグネル辺境伯の叛乱によって更にトレバ皇国はその版図を減じていき、現在の西方三大国の形がほぼ出来上がる事になった。
その後、七百輪の時が刻まれ、国境線も安定の度合いを増して現在に至るのだが、トレバ皇国によればホルツレイン、フリギア両王国ともに元はトレバであり、奪われた領土という主張に変化してきている。それはトレバ皇国が衰退の一途であるのに対し、両国が発展の度合いを増してきているからこその変化であろう。
現皇王ルファンが両王国国土を「朕の地」と称するのはこのような歴史を踏まえてのことであった。
◇ ◇ ◇
皇都ロアジン西部平原には二万五千を数える軍団が編成され、各部隊単位での訓練が盛んに行われている。形ばかりではあっても戦闘訓練を終えた兵が編成されているので、行われているのは行軍訓練である。
軍は戦闘がその主たる任務であるが、行軍を基本とした団体行動ができなければその真価は発揮できない。その九割が徴兵であるこの軍ではその基本から叩き込まねばならないのである。
しかし、普段は鍬だの鋤だのを持って働いている農民がそのほとんどを占める状態では、まともな行進訓練さえ困難を極めるのだ。
そんな訓練の様子を、2ルッツ離れた林から窺う影が四つ。言わずと知れたカイたちだった。
「想定外の状況ね」
「それも最悪の部類のね」
本来ここまでセネル鳥を進めてきたのは、ロアジンに潜入してトレバ皇国の情勢を調査するのが目的だった。だが、ロアジンを前にしてこの有様だ。
「こりゃ、潜入なんて無理な感じじゃねえか」
「無理どころじゃない。下手すればあれの中に編入されかねないよ」
いくら身分を偽って潜入するにしても、それは冒険者としてであってそれ以外の方法を取るには準備が必要になる。もしそのまま冒険者としてロアジンに入ろうものなら、強制徴用を受けて軍に編入される危険をカイは指摘している。
フィノなど、そんな会話を聞いただけで既に顔を青ざめさせているのだ。彼らが無謀な賭けを打つことなどは無い。
カイは「ともかく連絡だ」と言って隠しから遠話器を取り出す。僅かの後に反応があったようだ。
「カイです。ご無沙汰しています」
【これは魔闘拳士殿。今陽はまたどのような御用でしょう?】
「お忙しいでしょうが緊急連絡です、バルトロさん。しばらく時間をください」
気は急くが、相手をおもんぱかって一応の前置きをする。
「僕らの現在地はロアジンの西3ルッツほどの所です。ここから見える平原に…、三万?」
「いや、二万五千ってとこだな」
トゥリオが補足してくれる。
「すみません、二万五千ほどの軍勢が編成を進めています。直ちに国王に進言して迎撃態勢を整えてください」
【な…! いや、申し訳ありません。解りました。迎撃部隊の編成を急ぎます】
「お待ちを。トゥリオに代わります」
【お願いします】
自分では状況説明が十分でないと悟った彼は遠話器をトゥリオに渡す。
「ああ、バルトロ。こいつぁ、洒落になんねえぞ。見たとこまだ行軍訓練中だが編成は済んでるし装備も整ってる。進発は時間の問題だな。急げよ」
【解ってるさ。実際に今、奥城の廊下を駆けている最中だ。すぐに陛下に進言して兵を動員する】
「それでいい。……それで俺らはどうする?」
「見張ったところで何ができるわけじゃないから、国内の様子を探ろうと思う」
「そうか。……俺らはもうちっとトレバを探ることになる。そっちは頼むぞ」
【了解だ。何か解ったらいつでも報せてくれ。ああ、魔闘拳士殿に感謝を伝えておいてくれないか?】
「おう。忙しくなるだろうが、身体は労われよ」
【解ってるさ。ありがとう】
西方は一本の遠話から風雲急を告げることになるのだった。
西方の歴史の話です。本話数からトレバ編に入りますが、当面は序編となります。とまれ、戦乱の予兆からのスタートになるので本編がどう推移するのかは想像に難くないでしょう。




