櫂の願い
礼美の結婚をひと月後に控えた某日、流堂家には慎二朗の姿があった。
差し迫ってくれば打ち合わせ事項も多く多忙になるのは否めない。ましてや慎二朗はしがらみの多い職業に分類されるだろううえに、優秀で仕事も早い彼の将来を嘱望する上司の覚えも目出度い。
礼美は慎二朗の懇願で年末付で退職しており、今は時間はあるのだが友人や元同僚を招く段取りに奔走してやっと一段落といったところだ。
既に義父となる修の信頼も厚い慎二朗だが、まだ今ひとつ櫂の考えていることが掴めないでいた。
新しい義弟のこの少年は礼美と全く違って、時折り試すような言を向けてきたり、見透かすような目で見てくることがある。それでも信義に厚く家族思いの少年にわずかな苦手意識だけで済ませてきた。
しかし話の合間に少年の投げ掛けてきた言葉には、慎二朗も苦手意識など放り出さなければならなくなる。
「義兄さん、一つお願いがあるのですが」
「なんだい? 何か欲しいものでもあるのかな? 義兄さんに任せなさい」
あまり年長者である自分を頼ってきたりもせず、ましてや我儘も言ってこなかった櫂の願いだ。
経済的にも余裕はある。余程のことでもなければ聞いてあげたいと思っていた。
「約束が欲しいんです」
「約束? それはまた…」
膝を揃えて居住まいを正し深々と頭を下げた櫂は告げる。
「もし…、僕がまた居なくなったら、父と母のことをお願いできませんか?」
「なっ!」
その言葉は衝撃を振りまいた。
礼子は沈んで顔を伏せ、礼美は言葉も出せず瞳に涙の球を浮かべ始める。泰然としているのは修だけだ。
「何を言っている! 何を言ったのか解っているのか、君はっ!」
「深い意味はありません。心からのお願いです」
「余計に悪い! あの半年間、君は家族をどれだけ苦しませたと思っている!」
「……」
それが十分に理解できるだけ櫂には返す言葉がない。
「少なくとも家族にきちんと説明すべきだ」
一時の激昂は去ったが、慎二朗は納得できるものではない。
「熟考しました。本来であればそんな風に考えることは無かったと思います。でもあなたは、姉はもちろん、両親を託すに足る人物に見えたんで心が動いてしまいました」
「僕の所為にしないでくれ!」
「すみません、そんなつもりはないんです」
そこでひとつ呼吸を整えて語りだす櫂。
「ここは…、僕には生き辛いのです。法に従えば自分を殺して生きていくしかない。でも、見て見ぬふりなんて僕にはできない。僕の正義はそこに折り合いをつけることができませんでした。あの事件が色濃くそれを物語っています。しばらく我慢するぐらいのことはできるかもしれませんが、いずれまた大きな事件を起こして家族に迷惑を掛けてしまうでしょう。その自分も僕は許し難く感じてしまう。自滅するなら家族の傍に居るのは僕じゃないほうが良い」
それは血を吐くような独白だった。
その感性は慎二朗に理解できはしない。しかしその結論に至るまでに櫂が苦しんだのは解る。
「何か方法は無いのか。僕は君が非常に聡明であるのはもう分かっている。だから、何か…」
だからこその結論だと感じられてしまうだけ切なくなる慎二朗だった。
そこで無言を貫いていた修が口を開く。
「行くのか?」
「行きたいとは思っているけど、実は行けるかどうかも分からないんだ。そこに心残りがあるわけじゃないんだけど、まだやれることはいっぱいある気がするから。居場所も作ってくれる人も居るし」
「儂らはお前の居場所にはなれなかったか」
「ううん、馴染めなかった僕が全部悪いんだ。居場所を見つけてしまった僕の所為。だから僕の我儘を心に留め置いてください」
「解った。好きに生きなさい」
家長の宣言に否やを言う者は居なかった。
ただ涙の止まらなくなった礼美を櫂は抱きしめなくてはいけなくなった。