第八話「破る者」
カラスは悪魔を可哀相だと思った。「自分以上に可哀相な存在」を、初めて目の当たりにした。涼しげな表情から見て取る事はできないが、その傷は癒えるものではないはずだ。
同時に、胸のあたりで何かが蠢いていた。とても嫌な感じがするが、それが何かは理解できない。
そんなことよりも、である。
「大変だったんだな。辛い事を話させてしまった」
「なに、嫌なら話さなければ良いのだから、お前がそうして気にしなくていい。俺の体験を聞いて、お前の望む理想のお前に一歩でも近づけるのなら、何よりだろう?」
悪魔の紫の瞳が、かすかに揺れた。いつも通り不遜な態度を見せてはいるが、まだ当時の傷が癒えていない表情をしている。
その儚さに、カラスの何かが口を開かせる。
「悪魔はそこまで私のことを考えてくれているのか。なぜそこまでしてくれるんだ。私のような脆弱な精神力しかない存在に」
「お前が望んだからだ。約束は守る。泣いて訴えたお前の真実を俺は信じているんだ。その願いを叶える為ならば、お前にさえ嫌われる覚悟を持っているよ」
「私はあんたを嫌ったりはしない。絶対にだ」
「それなら俺も、幸福だな」
悪魔の名に似つかわしくない、無邪気な笑顔が愛しいと思う。カラスは新しい決意が自分の中で生まれたのを感じた。
私が悪魔を守ってやる。この優しい悪魔を罵る全ての無理解な者から、ずっと、ずっと、命ある限り。
カラスは誇らしい気分になった。今まで無力だと卑下してきた自分が、どこか変われた気がした。使命を持って生きるとは、これほどまでに自信を持たせてくれるものなのか。
悪魔がカラスの願いを叶えてくれるように、カラスも悪魔の役に立てることが嬉しい。
悪魔はティーポットに残った三杯目のお茶を、慎重にカップへと注ぎ、おそらく渋くなっているだろうそこへミルクを入れた。一杯目は香り、二杯目は味、三杯目はミルクを入れて楽しむらしい。そこでやっと思い出したという風に、悪魔は言った。
「カラス、お前に一つ約束をしてほしい」
「何だ?」
「今日教えた話は、あまり他人に言わないでいてほしいんだ。聞いて幸せになれる話でもないし、何より簡単に話していい内容ではなくてな。話が広まって、私の居場所が神に忠実な天使たちに見つかったら、せっかくの平穏が台無しだ」
「そうか。分かった。誰にも言わないと約束しよう」
初めて悪魔から頼みごとをされたカラスは、興奮を抑えてうなずいた。そんなカラスを見つめる悪魔の瞳が、瞬間的に苦笑を浮かべたが、カラスは気付かなかった。
悪魔は約束を守る代わりにと、ほんのわずかな悪魔の力ではあるが、カラスに与えてくれたのだった。
悪魔の評判は、当たり前だが良くなかった。猫は話しかけにくいと言うし、スズメは何だか怖いと言う。
「そんなことはない。悪魔はとっても良い奴なんだ。悪魔といっても、助けを必要としている者たちを救おうと頑張ってる」
「それがウソで、騙して魂を奪うとかじゃないのか? 悪魔って願い事と引き換えに魂を要求するんだろう?」
ゴミ漁り仲間の猫は、遠くで使い魔の赤い鳥と話している悪魔を、ちらりと見た。じっくり見て見つかったら、食われると思っているらしい。
カラスはそういう根拠のない常識に縛られた猫に言ってやる。
「なら、悪魔の力をもらった私を、猫は嫌いになるか」
猫の全身が一度、ざわざわと毛を逆立たせる。大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
「悪魔の力をもらっただって! 正気かカラス」
「正気だよ。私はこの力で皆の役に立ちたいと言ったんだ。そうしたら悪魔が私に与えてくれた。もちろん、無償でな」
「信じられない。どんなことが起こっても知らないぞ」
「悪魔の事をよく知りもしないでそういうことを言うなよ。悪魔は大変な過去を乗り越えて今ここにいるんだ。他の悪魔がひどい奴でも、あの悪魔は違う」
「悪魔の過去だって? 他の悪魔と違うと言い切れる過去ってどんなだよ」
「それは」
売り言葉に買い言葉。カラスは腹立たしさにまかせて口にのぼりかけたそれを、ギリギリで飲みこんだ。
「それは、言えない」
「ふん。カラスのことは友達だけど、悪魔のことは認められないな」
不機嫌なのはカラスも同じだが、猫はつんとして寝床へと帰って行った。
だが、他の友達も似たようなものだった。誰もがカラスを嫌わなくても、悪魔への偏見を解いてはくれなかった。悪魔と引き合わせてもあまり効果はなく、カラスは憤慨した。
悪魔は常に優しかった。果物などを誰にでも分けてくれたし、ミルクやキレイな水も出してくれた。願いを叶える対象であるカラスには、厳しいところが抜けないけれど、他の者達にはさり気ない気配りもしていたし、悪魔に汚点などなかった。
その悪魔を悪く言う友に対して、カラスは寛容でいられない。
悪魔だというだけで嫌われる姿は、かつての自分を思い出させた。誰もが上辺だけを見て役目を決めて、ついには穢れたモノにしてしまう罪を知らないんだ。カラスは悪魔にそのことを教えられて、もう知っている。
悪魔は嫌われても傷ついたそぶりはない。そういう目で見られることを熟知しているし、それで誰も困らないのだからかまわないと言う。ヘタに近寄って不幸になられる方が迷惑だと。
日に日にカラスは我慢ができなくなってきた。
悪魔を守ってやると言ったのだ。今こそ、その時ではないだろうか。
猫や犬やスズメや、他の生物達に向かって言った。
「悪魔は悪い奴ではない。悪魔は元は天使で、辛い想いをして悪魔になったんだ」
悪魔はカラスに言った事がある。
「物事は移り変わり、常に過去が正しいわけではない。現在や未来にそぐわない約束事ならば、訂正や撤回は必要な時がある。臨機応変に動ける身軽さも、また強さと呼べる」
臨機応変で約束を破るのは今しかない。悪魔の理解者である自分しか、カラスの友達に真実を教える事はできないのだから。
村人を救おうと死んだ子供。無残に殺される動物。聖女と出会うまでの様々な不幸の数々。そして、聖女とその家族の死がもたらした、悲惨な結末。
語り終わる頃には、カラスの話に最初胡散臭そうな表情を浮かべていた者達が、しゅんと頭を下げていた。誰もが悪魔の悲しみを知り、その光景を想像し、今の悪魔の優しさに気付いた。
「僕達が悪かったよ。悪魔って本当にいい人なんだね」
スズメが一番にそう言うと、猫や犬たちもうなずいていた。
カラスは満足して悪魔の元へ飛んだ。皆が分かってくれたと、教えてやりたかった。猫とスズメが着いてきて、悪魔はリンゴの香りのする紅茶を飲んでいたが、カラスはかまわず喋った。
すると、悪魔は想像通りに驚いたが、それはカラスが期待した笑顔にはならず、眉間にシワを寄せて睨んできたのだ。
「お前は俺との約束を破り、話したのか」
それを言われると弱い。カラスは事情を一生懸命に話した。全て悪魔のためなのだと。
そんなカラスと悪魔を、猫とスズメはハラハラしながら様子を見守っている。悪魔の怒りに怯え、会話に入れないのだろう。
「俺をかばうためと言うが、自由に俺のことを話す権利がお前にあるのか。お前は約束を守ると言ったし、俺はお前を信じて力を与えたんだ。最低だな、まったく」
「最低まで言わなくてもいいだろう。さっきも言ったが、あんたが嫌われすぎるから、話した方が皆理解すると思ったんだ」
「・・・・・・お前は自分が正しいと、信じたいんだな」
悪魔は、猫とスズメが緊張しているのを見て、ミルクと水を用意して差し出した。優しく微笑み、猫の背をなでた。
「怖がらせてすまなかった。お前達は何も悪くないのに、目の前でケンカされれば居心地も悪いだろう」
まるで天使だ。猫とスズメは先ほどまでの恐怖も忘れて、美しい悪魔に見惚れてしまった。
猫とスズメを落ち着かせた悪魔は、冷たい瞳でカラスをしばらく見つめたが、やがて小さく息を吐いた。ニヤリと微笑する。
「まぁ、いいだろう。済んだことだしな」
自分の手から木の実をスズメにやり、悪魔はカラスの失態を許した。
カラスはほっとして悪魔に謝罪した。
なのに、なぜだろうか。胸の辺りがもやもやとする。先ほどまであんなに悪魔を嫌い、緊張し、恐怖していた猫とスズメが悪魔に懐いている。
自分が悪魔にとって特別な存在であるはずが、猫とスズメにも悪魔が優しいからだろうか。例えば猫が困った事を悪魔に相談すれば、悪魔はカラスに対するのと同じように、全てを投げ打ってでも助けようとするのだろう。
いや、それともこの感情は別の何かが原因だろうか。悪魔といると常に感じる何か。悪魔の過去を聞いた時から、いっそう酷くせり上がってくる何か。
カラスは知るのが怖かった。悪魔はもう見透かしてしまっただろうか。悪魔はもう、カラスが気付いていないその感情を、深い紫の瞳で読み取ったのだろうか。
カラスは気にしないよう努力して、スズメと一緒に水を飲んだ。