第七話「絶望する者」
「・・・・・・私に、他の任につけと、そうおっしゃるのか」
神の命を受け、悪魔は声を震わせた。少女の死を確認した悪魔が報告をすると、神はまったく別の地で仕事をしてくるようにと言った。
「お前はあの娘に想いを寄せすぎる。残した家族に対してもそうだ。禁断の果実に手を伸ばすのを、見過ごすわけにはいかないのだよ。大丈夫、あの少女の魂は楽園へ連れられた」
「しかし、私は約束を」
「それは他の天使にまかせる。良いか、救うべき命は人間、いや、あの娘だけではないのだ。あらゆる命を導く使命を忘れてはならない」
悪魔は長い間うつむいていた。神はそれを静かに見守り、悪魔が返事をするのを待った。やがて悪魔は顔を上げ、神の命を受け入れた。
翌日から以前どおり、人や植物や動物、あらゆる生物の声を聞き、時に励まし、慰め、神との間を繋ぐ役目を果たした。そうしながら、悪魔の心はふさいでいた。少女を失った心の穴を埋められぬまま、時に叫び出したくなる衝動を抑えて働いた。
どうしてあの少女を救えなかったのだろう。なぜ、何者よりも優しく美しい心を持った少女が、地獄の苦痛を味わいながら殺されなければならなかったのだろう。
あの日、少女の願いを聞いて、力を与えたのは自分だ。人間の中では稀少な、あの力を与えるべきではなかったのではないか。農夫の死を、運命として受け入れさせなければならなかったのでは?
そうすれば、救った相手に殺されることはなかった。
なぜ、人は人を殺すのだ。感情のままに殺してしまうのだ。真実を見れもしないクセに、それが許されると思うのだ。
あれは救うべき魂の資格を持った生物なのか?
あらゆる生物の魂を救うために必要なのは、人間を滅ぼしてしまうことじゃないのか。
悪魔はそこまで考えて、慌てて首を振った。
神を疑うのか。人間を否定するのか。あの少女や少女の家族やその村の人々、これまで出会った多くの優しい人間たちまで、なかったことにする気か。
幾度も繰り返し問答を続け、悪い結論に違うと叫び、悪魔の心は日に日にひび割れていった。少女の死から一ヶ月たった頃には、自分が今何をしているのかさえ、定かではなかった。
礼を言う声も耳に入らないのに、顔だけは笑っている。神に喜びを報告し、次の任に就く。砕けそうな心を抱えて、偽りの平安に身を置いて、ようやく気持ちが落ち着くまでに、半年かかった。
少女の、最期の笑顔を信じよう。
悪魔の心の中で、今も美しい少女が、こちらに笑いかけていた。少女が笑うなら、悪魔も全てを慈しもうと思った。
少女の死から、十ヶ月がたった頃。その事件は起きた。
悪魔の耳に悲鳴が聞こえた。数人の、人間の命が次々消えていくのを感じた。悪魔の視界は赤く染まり、嫌な映像が頭を駆け巡る。
ある村で、善良な一家が惨殺された。豊かではない平凡な家。子供達の将来を思って置いていた金も、全て奪われていた。
一家を殺した強盗たちは、仕事を終えると笑いながらその家を出た。
「楽な仕事だったな。あっという間だったじゃねぇか」
「こんなことで大金がいただけるたぁねぇ。あの奥様も怖い方だ。女一人殺すだけじゃ飽きたらねぇとはな。そんなに死んだ旦那を愛していらっしゃったってワケかい?」
「いやぁ、あそこのご亭主様はとんだ女好きだって有名だろ。嫉妬でとっくに頭がイカレてたって話だぜ。あの奥様は」
強盗たちの噂話は、無意味なほど乾いて聞こえる。強盗たちとすれ違い、家の中へ入ってみた。
農夫が入り口近くでうつぶせに倒れていた。驚いて逃げようとして、背中を斬りつけられていた。少女の夫は胴と首が離れていた。子供達は奥の部屋へ逃げこみ、すぐに追いつかれて刺されたようだった。農夫の妻はそんな孫達の部屋の前で殺されていた。
「・・・・・・なんなんだ、これは」
呆然と悪魔はかすれた声を出した。
少女の愛した子供達の顔を、一人一人確かめ、抱きしめてやるが反応は返ってこない。まだあたたかいその体から流れる血液が、悪魔の体にべっとりとついたが、悪魔は気に留めなかった。
羽根が落ちた。一枚、また一枚と、悪魔の背の両翼から。まるで雪のようにひらひらと、穢れない白い輝きと共に。
「神よ。我が主よ。これはどういうことなのですか」
抜け落ちていく羽根は血に染まっていく。ぬかるんだ床を絨毯のごとく覆いつくしながら、真紅へ。
「彼等を守る天使はどこに? それともこの惨状を見守らせたもうたのか」
ああ、何ということだ。神の言葉をもう信じられなくなってしまった。
悪魔の目から涙が零れたが、それは血の色をしていた。耳元で、何かが壊れる音がする。ずっとキシキシ音を立てていたものが、完全に砕けてしまっている。
「あなたは何をどう救いたいのだ。地獄のような恐怖の内に殺されてしまう彼等や、動物や、他の生物たちの気持ちはどうなるのだ。善良に生きるモノを、なぜお救い下さらない」
そこまで言ってから、悪魔は驚愕した。血の海に映る己の姿を食い入るように見つめた。
「私は見返りを欲していたのか」
神に人の行いを報告し、人に神の意思を伝える役目を持った天使に、あるまじきことだ。
昔、あの子供が崖から落ちた時も、動物達が遊戯として殺される様も、少女のことも、こんな気持ちになるのは自分の行いに対して見返りが欲しかったからだ。自分の望む結果、働いた分だけの良い効果を。
悪魔は声を出して笑った。ひたすらにおかしかった。
故に、神を恨んだのか。神の思し召すまま働いた自分に、良き結果だけを与えはしない神を、憎悪するのか。
なんと醜悪な魂だ。誰も恨まず天へ旅立った少女に比べ、どこまでも汚い。天使と呼ぶには穢れすぎているではないか。
悪魔は剣を手にした。それは忌まわしき悪魔と対峙する時のみ使われる、唯一の武器であった。それを右手で持ち、自らの背にまわすと、左手で押さえた両翼の根元から一呼吸で切り落とした。
焼けるような苦痛を感じたが、目の前の惨状と己の浅ましさの方が、悪魔の心を焼いていた。
悪魔の両翼は、あれほど絶える事のなかった光を失いながら散らばった。子供たちの体を、優しく床に並べて寝かせ、悪魔は膝をついたまま前を向いた。
祭壇があった。少女の家にあるのではない。悪魔の心の中の景色だった。
その祭壇の上に、黒い髪に黒いスーツの男が、やはり片膝をついてうずくまっていた。
悪魔は男へと手を伸ばした。男はゆらりと体を起こし、悪魔を見た。笑った。自信に溢れた笑みだった。男の紫の瞳と目が合うと、悪魔の意識と体が崩れていくので、思わず叫んだ。
言葉にならぬ叫びと、男の微笑む両目と、崩れいく己の体と、見えるものがめまぐるしく変わり、悪魔の意識はぷつんと切れた。
「私は私を殺す事を望んだ。私が私を生かし続ける事は叶わぬからだ」
血の海に沈んだ羽が、毒々しい動きで集合し、塊へと変わっていくのを見下ろした。
祭壇の上の男の背に、翼が生える。男は立ち上がり、塊に向かって話を続けた。
「天使を殺した私は、その大罪により天から追放されるだろう」
塊は形をさらに変えて、生き物の姿を現した。男の背の、真紅の翼と同じ色を持つ鳥の姿へと。鳥は男の下へと飛んで、差し出された腕にとまった。姿は鷹に似ているが、明らかにこの世の生物ではなかった。
その証拠に、鳥は耳障りの良い女の声で言語を話した。
「我が主よ。天使がこちらに近づいておりますが、いかがなさいますか?」
「さて、どうしてやろうかな」
男は一度目を閉じて、開いた。かつて天使だった体も、今は神の呪縛から解き放たれて、押しつぶされそうな想いもいっそ心地よかった。
背後に気配を感じて、男は、いや、誕生したばかりの悪魔は薄く優雅に笑んだ。
「あ、あなたは・・・・・・」
「やあ、遅かったな」
振り返る悪魔の顔を見て、さらに天使は信じられないという表情で後ずさった。天使はここにいる悪魔の顔を知っていた。一家を見守るよう神から命じられていた天使は、前任者である悪魔と、神の御前で会っていた。
反対に、悪魔は悲しみに沈みきっていたため、天使の顔や名前を記憶していなかった。が、それは重要度の低いことだ。相手の固有名詞を知らずとも、その任務が何であったか想像がつく。
「悪魔へと堕ちられたのか」
「誕生の瞬間に立ち会えず、残念だったな。ここの様子を見ていたのではないのか? ああそうか。先に偉大なる我らが神に、ご報告に行かれたのか」
「私への皮肉は甘んじて受けよう。しかし、神を愚弄される事だけは許しがたい」
思えば、悪魔は天使の頃に、眼前の天使のように神を侮辱する言葉に対して、これほど激怒できただろうか。そこまでの愛を、神に持てていたのだろうか。
おそらく、元々悪魔は、こちら側に向いていたということだ。
「神は彼等を見捨てろとおっしゃられたのか?」
「人の行いに手出しできぬ決まりを、忘れておられるわけではないでしょう。それはたとえ、神が選んだ聖女の家族とて同じ事。今彼らを助けても、人の世でこれ以上平穏に暮らすことは叶わない。神はそれにいたく同情され、死した魂を天へと拾い上げられたのです」
「天使は神の命なくば、指先一つ動かせぬもの。哀れな愛玩人形だな」
天使は何も言わずに剣を抜いた。悪魔はそれを見ても眉一つ動かさなかった。
「哀れな愛玩人形は、哀れな死者の体を踏み砕きながら戦うおつもりかな?」
からかうように言ってやると、天使はひるんだ。二人の間にある、哀れな人間たちの亡骸を、傷付けるわけにはいかない。また、傷付けずに倒せるほど、この悪魔はたやすい相手ではない。
「偉大なる神に伝言をしていただこうか」
「・・・・・・無礼なことならばお断りする」
「天使に断る権限はないだろう。あらゆる出来事を包み隠さず報告するのが天使という存在だ。それに、悪魔になる以上の神への侮辱など、ありはしないしな」
腕にとまっていた鳥は、悪魔の肩へと移動した。鳥の喉をくすぐってやりながら、悪魔は世間話の口調で言った。
「私、いや、俺は、自らの醜悪さに気付いて堕天したのであり、神を否定したわけではない。ただ、天使としての正義と、あるべき姿が異なっただけなのだ。結果的に天使を殺したことを詫びる」
「なっ・・・・・・」
「そう、伝えてくれ」
悪魔は闇の中へと一歩後退した。
「待て! そんな戯言を信じろと言うのか」
「おそらく神は、お前とは別のことを感じ取るだろう。お役目ご苦労。では、縁があればまた会おう。先ほどまでの同胞よ」
品良く一礼をした悪魔は、今度こそ闇の中へと溶けた。
魂を求めず願いを叶える悪魔の噂が、天使たちの間で囁かれ始めるまで、さらに百年の月日が流れていった。




