こぎつね
****あるひ、ちいさなこぎつねにあいました****
その日は、ひどく太陽が眩しかった。
日差しは厳しく、容赦なく外気と大地の温度を上げる。乾いた風さえも吹かない、酷暑の日だった。
街の住人達はことに暑い一日に、不平を言いつつ仕事をしたり、買い物に出かけたりしていたが、どうしても、普段よりも道行く人影はまばらだった。
クレイドールにしてみれば、暑さも寒さも、さほど仕事には影響しない。
ただ、人の波に紛れることが出来ない分、より一層影のように音と気配を消して行動するだけ。太陽の力が強い分、建物や道に張られた天幕の影は、色濃く男の通りやすい「道」を作っていた。
一仕事終えた後に、影から影へと移動していた男が、ふとその足を止めた。
建物の隙間に、気を取られたのだ。
路地裏と呼べないほど、ひどく狭い。男の肩は両の壁についてしまうぐらいだ。その上、ゴミのような袋やバケツが転がされていた。足の踏み場はほとんどない。
入口より、二歩ほど入った暗がりの中。
隠れるようにしてうずくまった……人、がいた。
衣服は女性の着る丈の長いスカートで、今は裾が地面に着くのもかまわず、じっとしゃがんだまま動かない。袖が擦り切れ、布地は薄くなった場所やごわごわと毛羽立ったところもある。当て布をし、何度も洗濯を繰り返しながら、だましだまし着ている服だった。
と、人が動いた。
肩をふるわせた後、ゆっくりと顔を上げる。
男の後ろから差す日差しに、眩しそうに目を細めてから……ゆっくりと青い双眸を驚きで見開いた。
「ろ……あ…?」
信じられない、と語る顔は、どこか青白い。唇は白っぽく、声も掠れていた。
男がじっと見降ろしたまま、動かずにいれば、すぐに表情が変わる。眉尻が下がって、困惑と……躊躇いを浮かべた。もう一度顔が上がって、丁度男の両目がある位置をぼんやりと見上げた。
生気のない、精彩の欠けた姿。
男の中に、ふと違和感がよぎった。
――おかしい、と。
思いめぐらせて……その思考はあり得ないと否定する。
差異を見つけることなどできはしない――――
見ず知らずの人間の「普通」を知る由もないのだから。
そう、断じた。
けれど。
男は、動けない。
「ロア……」
手が伸びる。細い、白い指の先が震えている。力が入らないのか、少女は立てないままだった。壁を支えにし、なんとか立ち上がろうとするが、動けない。
「ロア…ロ、ア……」
近くならない手。触れない指先。縮まらない距離。
「ロ、ア」
声だけが、同じ「音」を繰り返した。何度も、何度も。
「ロア……」
ぱたり、と腕が地面に落ちた。土を擦るかすかな音がした。それでも、もう一度……伸ばされる。
黒い指を持つ大きな手のひらが……今度は、白い手を包んだ。
手を掴み、肩を引き寄せる。脇を支えて、少女を――エナを、立たせるが……足に力が入らず、くずおれるところを、さらに太い両腕が浚った。
懐に抱き込めば、熱が伝わる。高い……高すぎる、温度で。
呼吸は浅く、早かった。
ほとんど意識のないエナは、それでも、ロアのローブをしっかりと握っていた。ろあ、と音にならない空気が呟く。
男は歩き出した。
また影を縫い、人の目の合間を進む。
胸元で、エナが呟くたびに、そっと少女を抱えなおす。
行き先は、エナが目覚めていれば、孤児院の方角だとすぐに分かっただろう。
その路地を抜ければ、目的地という道に入った時……唐突に、目の前に人影が現れた。
立ちふさがったのは、銀の髪の魔法使い。
微笑みを完全に消した端正な顔立ちは、美しさと相まって、ひどく冷たかった。
「……その子供、どうするつもりなのかな、クレイドール?」
男は答えなかった。氷柱のように尖った魔法使いの言葉と声音にも、何の反応もない。
そしてもとより……答えを、持ち合わせていなかった。
どうする? ――問われて、正気に返った気分だった。
どうするのか、と。
ただ歩いてきただけなはずなのに。
「仕事は、もうないよね? それなら僕は……いつも通り、君を連れていかなくてはならないよ?」
「……」
無言のまま、男が魔法使いの脇をすり抜けた。制止する声も、止めようと伸ばされる腕もない。魔法使いはただ一歩ずつ遠くなる、黒い背中を見送っただけだった。
歩み続けてたどり着いた場所の入り口では、長い道衣を羽織った男が、眉間に皺を寄せて立っていた。
前庭を通り抜ける黒い影に、怯えた子供たちが彼に知らせたためだ。
「クレイドール……」
何の用だ、と言わんばかりの威圧感は、腕に抱かれたのが誰かを知るなり、青くなった顔に取って代わった。
「エナっ!?」
「……ど、うしさま?」
呼ばれた名前に、エナの意識が浮上する。重たい瞼を持ち上げて、声の主を探した。
「ごめ……なさ……買い物、終わって、な……」
「いい。しゃべるな。後で聞いてやるから……シュレン!」
緊張が含まれた鋭い呼び声に、何事かと奥から走ってくる足音がした。すぐに、神に仕える黒を基調とした独特の衣服をまとい、一人の女性が姿を現した。
導師と……クレイドール、そして抱えられたエナを見るなり、まあ、と驚きを浮かべた。
「一体どうしたというの、エナ! それに、ロア? あなたがこんな所にいるなんて」
「ロア? シュレン、知り合いか?」
怪訝な顔で、二人を導師が見比べる。
「いえ。私も二度ほど見かけたほどで……いえ、それよりもこちらへ。ロア。申し訳ありませんが、エナを部屋へ運んでください。導師様、構いませんね?」
「お前がそう言うなら、問題ない。さあ、行ってくれクレイ……じゃなかった、ロア。俺は医者を呼びに行く」
「お願いいたします」
促されて、建物に入る。古い教会を改築した孤児院は、どこもかしこも子供だらけで、好奇心と怯えの混じった視線がいくつも男に注がれた。誰もかれもが遠巻きにし、決して近づいては来ない。
時折、エナが抱えられているのに気付いて、様子を見ようと背伸びをする子供もいた。
案内されたのは、簡素なベッドと机が置いてあるだけの狭い一室だった。男が入れば、かなり窮屈になる。シュレンは掛布を取りに、すぐにどこかへ行ってしまう。
残された男は、慎重にエナをベッドの上に寝かせた。ゆっくりと腕を抜き、頭の下には枕をあてがった。
エナが、またふっと目を覚ました。
「ロア……」
離れようと身を起こしかけていた男が、エナの言葉に動きを止める。焦点の定まらない青の瞳が、それでも黒い人影を見つめようと必死だった。
「ここ、家、だね。ありがと、ロア」
「……」
「また、助けてもらったね。いつも、い、つも……」
「……」
「…………」
「……」
ふう、とエナが息をついた。
「ロア、ギュって、して?」
持ち上がらない腕の代わりに、双眸が懇願の色に染まった。行かないで、とすがる。熱のせいか、舌が回らないせいで、どこか小さな幼子のようだった。
男が、小さく頭を振った。
「だめだ」
「……どおして?」
泣きそうな顔で、エナが尋ねる。目じりには潤んだ涙が、溢れて零れそうだった。
男の長く、黒い指がエナに触れた。頬の、僅かに赤くかすったような跡に指の腹を当てる。びりり、と走った痛みに、エナが目を閉じた。
涙が、筋になって落ちる。
「お前に傷が付く」
「……っやだ」
あとからあとから、しずくがエナの頬を伝った。ふるふる、と首を振って嫌だと繰り返した。
「やだ、やだやだ……痛くない。痛くないから……」
「だめだ」
「ほんと、だよ。お願い……ギュって、して」
「……」
「痛くないよ。どこも、いたくないの。でも」
すん、とはなをすする。苦しそうに、それでもエナは大きく息を吸い込んだ。
「……してくれないのが、痛いよ」
「……」
沈黙があった。
声も物音もしない時間が。
エナは待った。沈みそうな意識を、どうにか保ちながら、ずっとずっと……。
布地が、擦れる音がした。黒くて長い指と手のひらが、エナの頭をすっぽりと覆って支える。背中にはさらに力強い腕が回った。
目の前に迫ったのは、黒い鎧だったか、それとも。
途切れた意識を覆う闇だったか。
ロア……と掠れた呼び声は――彼に届いたのか。
分からないままに……エナは、眠りの淵に沈んでいった。