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こねこ

 


 


****あるひ、ちいさなこねこにあいました****







 ロアっという声が響いた時、男は思わず足を止めていた。

 声は暗闇だった場所に光をともすように明るく、影を遠ざける。軽い駆け足の音が近づいてくると、路地裏にも光が差した。

 その陰とともに遠ざかった人影は、すぐに紛れてしまっていた。追いかける必要はなかった。ただ、示された道を歩けばいいだけだ。

 男は、止めた歩みをすぐに再開した。

 長い足が、一歩二歩と前に進む。早くはなく、人に目を止められないほどの自然な速度で、ただ前へ。

 声がまた、響いた。

「ロアっ……ロア!」

 路地裏を抜ければ、明るい表通りだ。街の入り口にほど近いそこには、いくつか看板を掲げた店と、離れた場所には孤児院がある。

「ロア!!」

 一際大きな声とともに、小さな影が脇をすり抜けていった。回り込んで、正面に立ちふさがったのは、小柄な少女だった。走ったせいか、怒りのせいか、両頬は真っ赤に染まっている。

「ロアひどい! エナが呼んでいるのに、どうして行っちゃうの!?」

「……すまない」

 そう言わなければならない気がして、男は謝罪を口にした。少女の脇をすり抜けていくことは簡単にできたのにも拘らず。

 むくれたままのエナは、やや不機嫌なままに「どこに行くの?」と問いかけた。男が短く「森へ」

と答えれば、じゃあ、一緒にいく、と主張する。

「駄目だ」

「やだ。行く!」

 にべもなく断じても、さらにかぶさるようにエナが主張する。

「行く行く行く行く!」

 ローブの裾を掴み、地団太を踏んでいく、とエナは繰り返す。棒立ちになったまま、男は動けずにいた……どうすべきか、全く分からない。

「ロア、いっしょにつれて行って!」

 細い腕が伸びて、腰と背中に回される。黒い鎧のどこかで傷を作ったのか、かすかに血の匂いがした。

 小さくて温い子供の体温が、ロアにも伝わる。ぽた、と雫がまるく地面の色を変えた。

「エナ、大きくなったし、ごはん、好き嫌いしないもん! おつかいだって行けるもん!」

「……」

 男は動かなかった。引きはがしもしない。ただ、じっとエナの方を見つめるだけで。

「エナ?」

 ふわり、と優しく名前を呼んで問いかけたのは、黒く長い、独特な衣装は、神に仕える証だ。手には小ぶりの籠を持っていた。

「エナ、あなた、買い物はどうしたの? それに、そちらの方は……」

 誰、とは続かなかった。男が身じろいでローブの下の顔が見えたせいだ。はっとして息をのんだ。クレイドール、と口の形が動く。驚きに瞳は丸くなったが、恐れる様子はなかった。

「……しゅうどうじょさま」

 泣き声の混じった、たどたどしい口調で、エナは答える。すっと女性は歩み寄り、膝をついてエナに笑いかけた。

「どうしたのエナ。泣いてるなんて、珍しいわね」

 手袋に覆われた手が、エナの髪に伸びて優しく梳いた。

「大きくなって、強くなって、泣かなくなるのではなかった? 孤児院の一の頑張り屋さん?」

「うん。エナ、大きくなったし、泣かなくなったの。だから、ロアと一緒にいきたい」

「……ロア?」

「うん。ロア」

 ぎゅう、とエナがさらに男にしがみつく。まあ、とまた女性は驚いた顔で、二人を見比べた。

 大きな手が伸びてきた。エナが知っている中で、誰よりも大きな手だ。そして誰よりも……安心する手だった。

 黒く長い指が、顔のすぐ近くを通り、エナの茶色い髪を掠めて、軽く引く。離れていった指先には、枯れた葉がつままれていた。ロアの指の先から離れるまで、ついついその小さな葉っぱを追いかけてしまう。

 淡々としている声は、高くも低くもない。特徴が乏しい。エナには、聞きやすい声と言葉だった。

「ついて来るな」

「……」

 エナは、とっさに声がなかった。明確に拒まれたのは、初めてだったから。はっと息をのんでいた。それをロアがどう思っているのか、さすがにエナでも分からない。ただ、もう一度手が伸びてきた。

「危険だ」

 ごつごつとした感触が、一度頭に乗せられて、離れる。

「……」

「……」

「エナ、無理を言っては駄目よ」

 優しくたしなめたのは、修道女だった。頑固に、エナは首を振る。もう一滴零れた涙の筋を、柔らかな指先がそっと拭った。

「エナ、あなたはお使いの途中よ。投げ出して、どこかへ行ってしまうのは、良くないわ」

「でも……」

「ロアは、危険だ、とおっしゃったわ。今日は、我慢なさい」

「……」

 しばらく、抗って黙り込んでいたエナは、結局、小さくうなずいた。いい子ね、と呟きながら、女性がエナの頭をなでる。立ち上がると、今度は男に囁いた。

「褒めてあげてくださいな」

「……」

 白い仮面が、問い返すように修道女の方に向いた。目顔で促されて、今度は男の手がエナの頭をなでる。大きく長い、武骨な手が、ぎこちなくゆっくりと動いた。

 戻ってしまう前に、エナは両手でロアの手を掴んでいた。どんなに強く握っても、きっと離れていってしまう指を。

「じ、じゃあ……今度。危なくないところ。それなら、一緒にいっていい?」

「……」

 うなずいてくれるまで、エナは離す気はなかった。エナの手では、右と左で掴んでも、まだロアの手の方が大きい。ともすればすり抜けられてしまいそうだけれど、それでも必死だった。

 この時ばかりは、ロアの沈黙が耳に痛かった。

 じっと見合って……折れたのは、ロアの方だった。

「わかった」

「――っ」

 祈りにも似た気持ちが、通じて、エナの頬がぱあっと明るくなる。朱のさした顔と、青の瞳がぱっと輝いた。

「ありがとう、ロア!」

「よかったわね、エナ」

「うん!」

 笑いかけると、女性からは同じ笑顔が返ってきた。ざっと踏み出した男を、笑って見送る。

「またね、ロア。森は、この先の道を右に曲がると近道だから」

 遠くなっていく背中。振り返らなくても、今はよかった。


 男は、右に曲がったりしなかった。





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