こねずみ
****あるひ、ちいさなこねずみにあいました****
時間はかからなかった。
腕を振り上げていた薄汚れた男を、背後から拘束する。手にしていたナイフは切っ先が向けられるよりも早く、手首を折ったために用をなさなくなった。腕を後ろでくくる。
地面には、茶色いぼろ布の塊が転がっていた。その上を越えるように路地裏だったそこから、死なない程度の力で蹴りだす。
ただ、それだけ。
砂ぼこりの立った向こうでは、ざわざわと表が騒がしくなり、鎧のこすれる音や物々しい足音が聞こえる。だが、すでに一切のことは男の手を離れていた。
仕事は完了し、やることはすべて終わった。
どっかりと座り込む――ぼろぼろになった土壁に背を預けたのは、黒い鎧。
風体は異様だった。
額から鼻先までは、仮面に似たものにおおわれていた。白くて薄いそれは、顔に合わせて凹凸が付けられてはいるが、ざっくりと浅く、そして目の位置にあるはずの穴はない。塗り込められた漆喰のように均一で、無表情だった。口元だけは人のような肌が見えているが、常に引き結ばれているせいで、作りかけの人形じみた、無を感じさせた。
さらに、その身には指の先までも黒く硬質な輝きが覆っている。冷たく固い鎧をまとった姿は、大半が大きなローブの中に隠れていた。フードのついたそれは、建物の壁に紛れるような、濃い茶色をしていた。
男は、動かない。手足を投げ出し、身じろぎもしなかった。
意識さえも、ゆっくりと沈んでいく中で……不意に、手のひらに柔らかいものが触れた。
すぐに、顔をそちらに向ける。
敵意は感じない。ただ、視線を受けるだけ。
そこにいたのは……子供。まだ幼い。顔にも、手足にも泥と擦り傷が付いている。服も着古して、破れやほつれが目立つ。
先ほど布の塊だと、そう判断した。
丸い顔の中心で、真ん丸に見開かれた両目だけが、妙に大きい。
じっと男を覗き込む。青の目が、目があるであろうその位置を、ただ、ひたすらにまっすぐ。
男の手に触れていたのは、短く丸い指先だった。
「いたぁい?」
舌足らずな、言いたいことは伝わるだけの言葉。男が沈黙していると、もう一度同じ質問が繰り返された。「いたぁい?」と。
首をくっと曲げて……子供は案じていた。崩れるように座り込み、動かなくなった男を。
小さな指が、確かめるように男の親指を握った。回りきらない、子供の指。
「……」
今度は立ち上がって、腕を伸ばした。背伸びをして、ぺたぺたと顔に手を当てる。座っていても、子供の手は男の額に届かない。
「ねつ、なぁね? いたぁい?」
放置したところで、質問は続くと判断した。
「……熱はない。痛みは存在しない」
突き放すような声。言い放たれた言葉は固く、事務的だ。だが、ようやく得た答えに、子供――エナはぱあっと顔色を明るくした。
「いたなぁい? ほんとほんと?」
「ああ」
「ほんと?」
「ああ」
「いたないね」
「……」
「いいね。いたぁない……うれしっ」
止まらない。答えるのを男が止めても、嬉しそうに一人でしゃべり続ける。
ついに、きゃあっと歓声を上げて、子供は男に抱き付いた。いや、倒れ込んだ。
やわらかいものが、肩や腕に当たる。手があちこちに触れる。不安定な態勢で、すぐに転んだ。がつん、と額を鎧の胸辺りにぶつけても、エナは嬉しそうに笑っていた。
ふふふ、とまた男を見上げる。
「なま、は?」
「……」
「なま、は、なあに? あーた、だあれ? たし、エナ……です!」
誰かに教わった口調。間違えないように、ゆっくりと正解をなぞって……エナはしゃべった。
だが……その答えを、男は持っていなかった。
しかし、先ほどと同じように、エナは質問を繰り返した。じっと期待を込めて返事を待つ。何度も、何度も。
男には、休息が必要だった。感覚を閉ざして、機能を低下させる。次の仕事に備えて、用意をするのだ。だが、こうも絶えず話しかけられていては、いくら聴覚を「閉ざして」いたところで、簡単に覚醒してしまう。
だから、黙らせるために口を開いて……結局、また閉ざした。持ちようのないものは、出せるはずもない。
かすかに、息だけが漏れた。
答えだと思ったのに、聞き取れなかったと勘違いしたエナが、きょとんとする。首をかしげた。
「……ろあ?」
どう受け取ったのか。
疑問符を浮かべながら、エナがそう確認した。躊躇いなく、男は頷く。質問が終わるなら、なんでもよかった。
元々ないのだ。正解も、不正解もない。子供がロアだと思うなら、それでいい。
ぱっと、エナは今までで一番明るい笑顔を浮かべた。
「ロア……ロア」
手が伸ばされる。
固い鎧は、時折その指先や丸い腕を、容赦なく傷つけた。赤くこすれて……時には血がにじんだ。
それでも。
ろあ、とエナは名前を呼ぶ。ロア、ロア……ろあ。
「ロア、あぃがと」
まともだったのは、これだけ。
あとはずっと、日が暮れるまで。
男の――ロアの名前を呼び続けていた。