■■第八章■■
“確立の瞳”それが今、ケリィに与えられた能力の名前だ。
黄金色に変わった視界の隅で、数字がチラチラと燃えている。燃え上がるそれが百に達した事を確認して、ケリィは手を伸ばした。深い草藪の中から、迷わずサナトスの破片を掴みだす。体をうねらせケリィの手から逃れようとする破片を、ケリィは黙ってエルピスに差し出した。
「――うん。慣れてきたじゃないか」
そう満足気に頷いて、エルピスが破片を受け取る。そしてそのまま、自らの黒い炎の中で破片を飲みほしてしまった。…いわゆる共食いだ。嫌悪感たっぷりに顔を歪めるエルピスの様子を見れば、当人にとっても気色悪い行為である事は確かなのだろう。
封印の箱を失った今になっては、これがサナトスを封じる最良の方法になるのだというが、流石にエルピスも、核までは飲み込めない。あくまでも破片の暴走を止める処置でしかないのだ。
「…やっぱり、封印の箱がないと不便だよね」
改めて考えれば、箱を壊した原因は自分なのだから肩身が狭い。そう溜息を零すケリィの言葉を、エルピスは愉快そうに笑い飛ばした。
「そんなに落ち込まなくて良い。あんな箱の代わりなんていくらでもあるんだから」
「――そうなの?」
パラディらポイメーンが気付いていないだけで、封印の箱は天の舟の中に大量に存在しているのだとエルピスは言う。そして、その中の一つをエルピスは地上に持ってきているというのだ。
「…それって、パラディに伝えておくべきじゃないか?」
ポカンと口を開き、ケリィは問う。封印の箱の消失を前にあれほど落ち込んでいた彼女の事だ。箱が存在していると知れば誰よりも喜ぶのだろう。
「というか…そういう事なら昨日の時点でその箱使ってくれよ」
「…確かに、それが出来たら一番良かったんだがね」
まだ、箱が使える時期に達していないのだと、エルピスは肩を竦める。
「箱は近い将来、必ずサナトスを封印するだろう。
しかしその事をパラディが知れば、奴は傷ついてしまうかもしれない」
「…なんで?」
首を傾げるケリィに向かって笑みを作り、エルピスはケリィの髪に手を伸ばす。
「知らせてはいけない未来というものもあるのさ、ケリィ。
キボウツキになった以上、その事は心に留めておいて欲しい」
…ふと、周囲の木々がざわめき出し、ケリィは空を見上げた。雲の流れが早い。どうやら、風が相当強くなっている様子だ。木々の隙間から入り込んだそれはケリィの髪を僅かに持ち上げ、黄金色に変色した左側の眼球を露わにする。
この左目には今、エルピスの持つ予知の力が備わっていた。
予測される未来は数字として視覚化される為、人間であるケリィにも理解しやすい。
“確立の瞳”と名付けられたこの能力は、予知の感覚を掴めていないケリィの為にエルピスが用意した…一種の訓練方法なのだそうだ。
「…とりあえずケリィはまだ、予知の初心者だからね…あまり怖い話はしたくない。
今は、能力の使い方に慣れる事だけ考えて欲しいな」
にこり微笑んで、エルピスは言う。そのまま促されて、ケリィは七体目の破片を探す事にした。
『サナトスを捕獲する』
ただ、そう呟くだけで“確立の瞳”は発動する。左目がじわりと熱くなって、視界に新たな数字が燃え始めたら、後はその数字が百になる場所を探って視線を移動させれば良い。 この数字はつまり、キボウツキの望みが叶う確立そのものなのだ。
単純でささやかな能力であるが、“決意の炎”と違って、強い感情を必要としない為、非常に使い勝手は良く感じた。
――見つけた。
視界の数字の桁が跳ねあがる。木の幹に潜んでいた破片を捕え、ケリィは呟く。
「…なんでパラディは、こんな事一人でやろうとしてたんだろう?」
一晩で満身創痍になった彼女の姿を思い、ケリィは溜息をつく。キボウツキの力でこんなに簡単に作業が進むのならば、パラディの努力は何だったのだろう。
…せめて相談してくれたら良かったのに。そう口にしたケリィに、エルピスは肩を竦めて見せる。
「あいつは何でも一人で抱え込む癖があるからな。
ケリィの力を借りようなんて、考えもしなかったんだろう」
「それって…僕が頼りないからって事?」
なんだか妙に悔しくなって、ケリィは問う。
…確かに、ケリィだってキボウツキである事を好んでいるわけではない。
だが、それでもサナトスを捕まえられるのならと、パラディを助けられるのならと望んで選んだ道なのだ。 何故パラディは、そんなケリィを信頼してくれないのだろうか。そんなに役不足に見えるのだろうか。思わず不機嫌になってしまうケリィに対し、エルピスは相変わらずのニヤけ顔で言う。
「違うよケリィ。パラディはただ、君を守りたいだけなんだ」
人間を見守り続けるポイメーンにとって、自身が人間の負担になってしまう事は許されない行為だった。今回、サナトスの捕獲に人間を巻き込む事にも、パラディは否定的なのだと言う。
「特にケリィ、君はパラディにとって最も大切な人間だったからね。
あいつは中々…このキボウツキの計画に賛同してくれなかったよ」
だからパラディは、エルピスと共に地上に降り、ケリィを守りたいと願った。エルピスはそれを許可し…今に至るわけだ。
「…って。ちょっと待ってよ。最も大切な人間って…なんで僕が?」
理解できず、ケリィは額を押さえる。パラディとは昨日が初対面の筈なのだから、大切に思われている意味がわからない。それを問うケリィに、エルピスは意外そうに肩を竦めた。
「ポイメーンというのは、常に一対一で地上の人間を見守っているのだよ。
…その説明は、昨日聞いていたと思うけど?」
「――あ…」
…確かに、ケリィは昨晩パラディからその説明を受けていた。その事を思い出し、そして次の瞬間に気付いた事実に愕然とした。
「じゃ…じゃあ、パラディが僕を守る…ポイメーンだったってこと?」
そう問えば、エルピスは当然のように頷いてみせる。つまりパラディは、最初からケリィの事を知っていたのだ。ケリィが災厄に飲み込まれないように、この十四年間、ずっとケリィの魂を見守り続けていたという事になる。
「――…それならそうと、言ってくれれば良かったのに」
その正体を知っていたなら、少なくともお礼くらいは言えただろう。その事が残念というわけでも無いのだが…少々気になるというのが本音だ。
「…仕方が無いよ。
ポイメーンというのは、自分の守る人間に対して罪悪感を持ち易いからね。
自分の正体を知られたらケリィに嫌われてしまうと、パラディは考えてるんだろ」
「え…なんで?」
ぱちりと目を見開き、ケリィは問う。…そういえば昨晩、パラディが挙動不審になった瞬間があった気がする。確かあの時ケリィはパラディに「以前会った事がある気がする」と言ったのだ。彼女はそれを否定していたが、それは明らかに嘘臭かった。
「そりゃ…奴らが、人間の暗い気持ちを糧にして生きているからさ。
この手の感情や記憶が奴らの肉体や人格を形成してるようなものだから…
自分たちは人間にとって嫌われ者だと思い込んでしまってるんだよ」
…だからパラディは、いつだってケリィに申し訳なく思っている。故に、何よりもケリィを守る事を優先するのだと、そうエルピスは言う。
「パラディ…あいつ、そんな事、考えてたんだ…」
聞かされた彼女の本音に、ケリィは思わず、眉をしかめてしまった。…別に、暗い気持ちを糧に生きているポイメーンを悪く思ったわけではない。ただ、人間に対して罪悪感を抱き続けなければならない彼らの存在が哀れだった。
「何も気にしなければ良いのにね。
だって苦しい感情も、悲しい記憶も、無くなってくれたほうが、
僕らは楽に生きられるだろ?」
人間とポイメーンの関係には、互いに利益があるのだ。その考えを口にしたケリィに、エルピスは満足そうに頷いてみせる。
「…その通りだよ、ケリィ。
それがポイメーンの意味…彼らが人間を見守る事に適していると判断された理由さ」
パラディがケリィの暗い気持ちを吸収する事で、ケリィの魂は災厄を制御できる。二人の関係は重要と供給が成り立っている、分身みたいなものなのだと、エルピスは言う。
「分身…ね」
だからケリィは、あの時パラディを“懐かしい”と感じたのだろうか。そう問いかければ、エルピスは軽く首を傾げて、困ったような笑みを見せた。
「…うーん。その事なんだけどね、ケリィ」
躊躇うように、エルピスは一瞬視線を動かす。
「実はそれが、今一番危険な問題なんだ」
…本来、地上の人間にとって不可視の存在である筈のパラディが見えたと言う事、そしてその存在を懐かしんでしまったという事は即ち、ケリィの忘れていた気持ちが蘇る兆候なのである。
喰う者と喰われる者、守る者と守られる者。絶妙なバランスで成り立ったこの関係は、二者の距離が遠かったからこそ成功していたのだとエルピスは言う。
「――…パラディの身体は、ケリィが今忘れている気持ち…感情や記憶で成り立っている。
つまりケリィがそれらを取り戻してしまえば、奴はその分、生命力を奪われるんだ」
“記憶の逆流”そう呼ばれるこの現象が長引けば、パラディの身体は消滅してしまうだろう。低い声で告げられたその事実に、ケリィの肌は粟立った。
――パラディが…消える?
悪い予感はしていたのだ。先程パラディと離れてからずっと、ケリィは妙な胸騒ぎを感じていたのだ。
「…まぁ、例えそうなっちゃったとしても、心配は無用だよ。
ケリィには私が居る。君の魂はこの私が、一生守っていってあげよう」
そう言ってエルピスは、少々悪趣味な笑みを浮かべたのだった。