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■■第七章■■

 結局、二人が学校に到着したのは授業開始の鐘が鳴り終わってからだった。

こそこそと教室に入り窓際の自席に着けば、すぐに平凡の幕は上がる。

 壇上では、教師が算術の公式を説明し、生徒たちは自身の石板にを使って計算に取り組んでいる。勿論、ケリィも、即座に問題に取り組むのだが、一向に集中力は湧いて来なかった。

――パラディの奴。何処に行ったんだろう?

 頬杖をつき、ケリィは考える。昨晩の出来事が夢ではなかったと確信できた以上、気にかかるのはパラディの行方だった。

窓の向こうで風は流れ、膨張した雲がゆっくりと形を変えて行く。彼女は今、どこで何をしているのだろうか。確かに彼女は人間ではないし、口調や仕草だって充分大人びている。しかし見た目だけは、どう見てもただの子供なのだ。ケリィだって心配したくなってしまう。

――出て行くのなら、一言声をかけてくれたら良かったのに。

思わず溜息が出た。

算術の授業が終われば次は歴史の授業があり、その後は昼食を挟んだ放課後が待っている。大陸の学校へ進学を考える生徒の多くは居残り、自主学習に精を出すのだが、ケリィのように進学の意思を持たない人間にとっては完全な自由時間なのである。用事のある者は帰宅し、暇な者は親しい友達と遊び呆けた。

 …勿論ユアンも、この時間は親しい女の子たちに混ざり会話に夢中になっている。

穏やかな性格を持ち、なおかつ聞き上手な彼は、昔から婦女子に人気があった。気が付けばいつも、彼の周りに教室中の女子が集まって来るのだ。

 ユアンにとって、彼女らは妹みたいな存在なのかもしれない。そう、ケリィは予想している。事実、ユアンは彼女らの面倒を良く見てあげていたし、年小者の中には、彼を「兄様」と呼ぶ輩まで居るのだから、この予想もあながち外れてはいないのだろう。

 そんなユアンは今、彼女たちを喜ばせる為に似顔絵を描いてあげているらしい。

ユアンがスケッチブックに鉛筆を走らせる度に、辺りから黄色い歓声が上がっていた。


 いつものケリィならば、この時間は読書をしたり居眠りをしたりして潰す事にしている。ユアンが帰る頃合いを見て、一緒に教室を出る事が、今のケリィの習慣なのだ。

 …だが、今日に限って、ケリィにそんな余裕は無い。木綿のサックに荷物を纏め、ケリィは席を立った。

「…ユアン。僕、今日は先に帰るよ」

 会話の輪の中心に居るユアンに声をかけるのは心苦しかったが、まさか黙って帰るわけにもいかないだろう。ユアンを囲む女の子たちを見下ろしつつ、ケリィは言う。

唖然と口を開けたユアンは数瞬後、慌てたようにスケッチブックを閉じた。

「あ…ごめん。もしかして僕、待たせ過ぎちゃった?僕ももう帰るから…」

そう言って、わたわたと机の上を片付け始める。途端、女の子たちからは不満の声が飛んできた。

「えぇ!私だけまだユアンに描いてもらってないのよ?皆ばっかり…ずるい!」

「ケリィなんてどうでも良いじゃない。もうちょっと私たちと一緒に居てよ。」


 そんな声ばかりが、次々と出てきてしまう。どうやらケリィは、彼女らの機嫌を随分と損ねてしまったらしい。非難の目に凍り固まってしまったユアンを前に、ケリィは深く溜息をつく。

「…別にユアンまで僕に合わせる必要ないよ。ただ、今日は用事があるだけだから」

そう言って、背を向けた。ユアンが寂しそうに表情を曇らせたのが解ったが、今はそれを気にしている場合ではないのだ。

「パラディ…探さないと」

 呟いて、教室を出る。校庭に視線を巡らせれば、そこには数人の少年が居る。彼らは、ゴム玉を蹴って遊んでいる様子だ。

少年らの明るい笑い声に包まれた校庭を横目に、ケリィは林道へ向かう。探す宛てがあるわけではないが、とりあえず一度、家に帰ってみようと思うのだ。もしかしたら、パラディが既に戻ってきているのかもしれないし、そうでないなら、もう一度エルピスを呼び出せば良い。自室の中なら、キボウツキも別に恥ずかしくはないだろう。そう考え、校庭に背を向けたケリィは次の瞬間、異様なざわめきに振り返る事になる。

 校庭の中心に、巨大な烏が居た。

遊んでいた少年らが恐怖に足を竦ませ、一人、また一人とその場を逃げ去って行くのが見える。そうして露わになった烏の全貌に、ケリィは目を見開いた。烏の足元に、幼い子供が居るのだ。鋭い鍵爪に抵抗し必死で足を踏ん張るその姿は、昨日以上に傷だらけである。

「――っパラディ!」

すっと血の気が引くのがわかった。強く地面を蹴り、ケリィは走り出す。

 背負っていたサックを肩から外し、烏にぶち当てると黒い羽根が飛び散った。烏は悲鳴を上げ、高く空に飛び上がる。そのまま、しばし頭上を旋回してはいたが、直に遠くへ去って消えた。

「…大丈夫?パラディ」

 慌ててパラディを抱き起こした。柔らかな肌に浮かぶ生々しい傷跡。眉をしかめたケリィの前で、パラディは一滴の涙を零してしまう。

「あ…あと少しで捕まえられたのに。あの烏めが…烏めが!」

悔しさに唇を噛みしめ、パラディは言う。どうやら、彼女は昨晩散り散りになったサナトスの破片を追いかけ、烏の巣に侵入する羽目になったらしいのだ。

「結局逃がしてしまった…」と項垂れるパラディに、ケリィは茫然と声をかける。

「…まさか君、昨日の夜からずっとそんな事してたの?」

既に身も心もボロボロに成り果てている事は一目瞭然だった。流れる涙と血を拭ってあげようと手を伸ばし…そしてケリィは慌てて振り返る。誰かがじっと、こちらを見つめてい気づいたのだ。

 それは、先程までゴム玉で遊んでいた少年の一人である。

短く刈り込まれた茶髪と珈琲色の瞳、笑うと八重歯の覗くこの少年の名は確か、ハルといったか。今年で十歳になる彼は、島の子供たちの中でもケリィに次ぐ高身長で、少年たちの中でもリーダー格の存在だ。ケリィにとっても、印象に残る存在ではあった。


「…お前、すげぇな。あんなでかい烏、怖くねぇの?」

瞳を輝かせ、ハルは言う。他の少年らから離れて、一人でケリィに話しかけようとする辺り、彼は相当な変わり者らしい。

「…別に。僕はただ、焦ってたから…」

肩を竦めて、ケリィは返す。勤めて冷静な振りをしてはいたが、その内心は不安で一杯だった。

 …パラディとの関係を問われたら、何と返答すれば良いのだろうか。

ダラリと冷や汗が頬を伝った。


「――ケリィ。行くぞ」

不意に、パラディが口を開く。

「ここはちと、目立ち過ぎるようじゃ」

そう言って、のそのそとケリィの背に登るパラディ。やはりそこが彼女の定位置であるらしい。

「目立つって…そりゃここ、学校だもん」

恐る恐る周囲を見渡す。校庭に居た少年らは勿論の事、教室の中の生徒の視線も集めていた事に気づき、ケリィは赤面する。特にユアンは、驚愕の余り、顔の色さえ失ってしまっている。ケリィは思わず、一歩、後ずさった。


「ごめん…僕、もう行かないと!」

続くハルの言葉すら聞かず、ケリィは校庭に背を向けた。そのまま全力で走り出し、林道を突っ切る。

「――え…っちょ、ケリィ…?」

背後で、ハルが何やら叫んだのが聞こえたが、気にする余地はない。息を切らせて、ケリィは走った。

 岩壁に飛び上がり、羊歯に覆われた地面を蹴って行く。滝のように汗が零れた。

耐え切れなくなって、思わず地面に身を投げ出した時、そこには大きな湖があって…

「…っはぁ…はあ!」

仰向けに転がって、胸一杯に酸素を吸う。

 地面に降りたパラディは湖の縁に這いより、ガブガブと水を飲み始めた。


「―――困ったな。パラディの事、皆になんて説明しよう…」

ようやく呼吸が整った後、ケリィはぽつりと呟く。

 ハルや周囲にいた少年らは勿論、ユアンにまで姿を見られてしまったのだ。良い具合にごまかせる術が思い浮かばなくて、頭を抱える。

 そして、そんなケリィの様子が気になったのだろうか。パラディは顔を上げ、口元の滴を拭いつつ、近づいてきた。

「――別に、何も説明する必要はなかろうて。

 そもそも、他の奴らにわしの姿は見えておらぬ」

「…は?」

わけがわからず、ケリィは上半身を起こす。パラディはケリィの目の前にペタリと座り込み、そして首を傾げた。

「…やはりお主は気付いてなかったか。わしは、普通の人間には見えぬ存在じゃ」

 天界とは、そもそも人間に見えてはいけない存在なのである。当然そこに存在する物体も、生き物も目に見えるわけがなかった。パラディに指差され、ケリィは彼女の足元に視線を落とす。彼女の言葉を裏付けるように、そこに影はない。

「…じゃあ、僕にはなんで君の姿が見えるの?」

驚きを瞬きに隠し、ケリィは問う。

 キボウツキになるまでは、サナトスの姿すら見る事ができなかった筈なのに。何故、パラディの事は最初から見えていたのだろうか。ケリィの掲げた疑問に、パラディは少し困ったような笑みを浮かべた。

「それは…わしにも解らぬ。もしかしたら、ケリィが特別だからかもしれんの?」

 そう言って、その小さな手でケリィの頭を撫でた。意味が解らなくて、思わず肩を竦めてしまったが、不思議と嫌な気分ではない。むしろ、その手の温かさが懐かしくて、心地よい気さえしてしまうのだ。

「…ね、パラディ。君、今日も僕の家に来なよ」

だから、ケリィはそう提案した。

 一晩中、サナトスを追いかけていたのだから、パラディは相当疲れている筈なのだ。少しは休んで行って欲しいと、ケリィは言う。しかしパラディは、ただ頭を横に振るだけだった。


「力を失ったスリープシスは、回復を求めて人間の魂に近づこうとする。

 ある意味、今の状態が一番危険なのじゃ」

 破片が魂を喰う危険はないのだが、これに取り憑かれた人間は、多少の生命力を奪われてしまうらしい。

「サナトスは夢喰い…つまり、人間の意識に潜む願望や妄想を喰らうんじゃ。

 その結果、人間は毎晩夢の中で苦しみ…衰弱してしまうじゃろう」

“覚めない悪夢”それこそがサナトスの引き起こす災害の形だった。もしサナトスがその力を全て発揮する事になれば、多くの人間が悪夢に閉じ込められ、孤独な死を迎える事になるのだろう。

 …そして、最も危険なのは、サナトスの核なのだと、パラディは言う。

「核…?」

「うむ。そこにサナトスの意識が詰まっておるのじゃ。

 例え破片を処分したとしても、核がある限り安心はできぬ」

他の破片とは違い、核は意思を持って人間に取り憑く。つまり、自分にとって充分な栄養になりうる“夢”の持ち主を選ぶ事ができるのだ。核が人間に取り憑く事は、そのまま本体復活を意味する。それはパラディにとって、今最も避けたい事態だった。

 …そんな理由で、彼女は昨晩からずっとサナトスを追っているわけだが、未だに核は見つかっていないそうだ。

「僕にも…手伝えるのかな?」

ボソリと、ケリィは尋ねてみた。

 事態の深刻さがわかった以上、黙って見過ごすことは出来ない。そもそも、サナトスを散り散りにしてしまったのは自分なのである。非常に申し訳ない気持ちが胸を埋めていた。

「いや…気持ちはありがたいが…」

お主をこれ以上困らせるわけにはいかない。そう言おうとしたパラディは次の瞬間、草藪から飛び出した奇怪な塊に襲われてしまう。草陰から飛び出したそれは、一見すると蛇頭の怪女メデューサのよう。しかしその正体が異なることを、ケリィは察した。

「…っサナトス!?」

 揺れる大量の鎌首の上で赤い瞳が光っている。擬態を失ったその姿はただ禍々しく、醜悪だった

「――…っ。こいつら、わしの持つ破片を狙って…っ!」

襲いかかる鎌首をひたすらに払い、パラディは唸る。その服のポケットの中から顔を出す黒い蛇が居た。破片同士がお互いを引き寄せているのだ。歪に絡まった鎌首たちは、そのままパラディの身体を巻き込み、そして体内へと引き擦り込む。


「…っ」


 ――気が付けば、そこに真紅の炎が生まれていた。

ケリィは、炎で鎌首を焼き払い、反対側の手でパラディの身体を抱き寄せる。

悔しさと、取りこまれかけた恐怖に耐えているのだろう。パラディは瞳に涙を滲ませ、震える唇を噛みしめた。

「ふっ…うぅ…!」

耐え切れず零れ落ちた涙が、その足元に落ちる。その様子が余りにも可哀そうに思えて、ケリィはパラディを抱きかかえた。キボウツキに変身したケリィは、そのマントで彼女を隠し、燃え上がるサナトスの塊を睨む。

怯えた破片が数体、蚯蚓のように地面を這い、草陰に消えて行くのが見えた。とりあえずは一安心と見なして良いようだ。。安堵の息を吐き、腕の中で泣きじゃくるパラディをぎゅっと抱きしめてやる。

 …また彼女に傷が増えてしまった。その事に気づけば、もうどうしようもない程に切なくなる。


『パラディ、手を離すなよ。それが奴の核のようだ』

 ふと、声が聞こえた。

宙を切り裂き、現れた黄金色の美青年は端正な笑みを浮かべ、二人の前に立つ。

「…ふぇ…うぅ…」

涙にむせびながら、パラディは握った拳を掲げ上げた。

そこには黒く輝く小さな球体があって…

「これが…核?」

そう尋ねると、パラディは涙まみれの顔で笑った。

「とった!」

そう叫んで、ぴょんと地面に飛び降りる。力が入らないのか、そのまま腰を付いてしまったが、拳だけはしっかりと握りこんでいた。

 …そう。先程の塊の中に、サナトスの核はあったのだ。身に迫る危機の中でもそれに気づく事が出来たパラディの、これは初めての勝利だった。

「す…すごいじゃん!」

 彼女の感激が移ったのか、ケリィも思わず笑顔になってしまう。クタリと力を失ったパラディの身体を、柔らかい羊歯の上に乗せ、ケリィは何度もその頭を撫でた。

 嬉しそうに、誇らしそうに瞼を伏せるパラディを前にすると、なんだか胸の中が温かくなってしまう。

 ――僕にキョウダイがいたら、こんな感じだったのかな。

なんとなく、そんな思考が頭を過る。その事が余りにも馬鹿馬鹿しくて頬が緩んでしまった。


「…さて、ケリィ。あとは我々で、サナトスの破片を回収してしまおうか」

 エルピスの提案に、当然ケリィは頷いて見せる。とにかくケリィは、パラディの負荷を減らしてあげたかったのだ。

そして…やはりパラディは疲れていたのだろう。彼女が地面に身体を預け、静かに寝息を立て始めた事を確認して、ケリィは立ち上がった。エルピスに促されて、二人で森の奥に足を踏み入れる。ふと、ケリィは、寒気を感じて振り返った。

 そこには、背を丸めて横たわるパラディが居る。しかし、その姿は、先程よりも心なし小さい気がするのだ。「まさか」と思いつつも、パラディの身体が縮んでいるような感覚が抜けなくて目を擦る。

「…どうした。ケリィ?」

「――いや…」

普段通りの笑みを浮かべるエルピスを前にすると、ケリィは自身の杞憂が馬鹿らしくなってしまう。

「なんでもないよ」

だから、そう言ってごまかした。パラディの身に起きている変化に気づかない振りをして、眠る彼女に背を向けた。


 ドクリと、パラディの心臓が跳ねる。

――…身体が動かぬ。なぜ…?

助けてくれと、そう叫びたいのにパラディは声が出せないのだ。

――どうして…しまったんじゃろ?

身体が軋む音がする。そしてそのまま、パラディは不安な眠りに付くのだった。


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