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■■第五章■■

 白い雪が視界を覆っている。

夜が明けてようやく昇った太陽には温かさなどなく、屋根に積もった雪に鋭い光りを反射させるばかり。地面も森の木々も、見渡せるものは全て白に覆われ、吐く息すらも凍りつく。

 イトゥリープ島の冬は厳しく、そして長い。…しかしそれも終わりが近づいている事に、島民たちは気付いていた。

 どこからか聞こえてくる水音は、岩壁から滴り落ちる雪解け水のせいだろう。ひと冬の間で凍りついていた湖にも大きな皹が入り、その下を泳ぐ魚影も時折確認することができた。この頃になれば、一時期大量に押し寄せた観光客もすっかり姿を潜め、島は本来の穏やかさに息付き始める。雪は深く積もっていても、人の心には春を迎える喜びが芽生え始めているのだ。

 それは、幼い日のケリィも同じ。白い息を吐き、家を出たケリィは、足元に生えた小さな草の芽を発見し、こっそりと微笑んだ。


 ――ケリィは今、夢の中に居る。

   これは、ケリィとユアンが運命の出会いを果たしたあの日の出来事に違いない。

 

 先日十歳の誕生日を迎えたばかりのケリィは、焦げ茶色のコートに身を埋め、学校を目指して雪路を走っていた。スキー靴を履いた足元で、綺麗な弧を描き、街道から学校に繋がる林道に入る。

 そしてケリィは、黒い並木が立ち並ぶその隙間に、明るく映える蜂蜜色を見つけて足を止めた。見慣れない姿の男の子が、木の根の上で蹲っていたのだ。青いマフラーに顎を埋め、真っ赤な頬で涙を堪えているその姿は不安気で、そして脆く感じた。

人付き合いが苦手なケリィではあるが、この時は流石に、これを放っておく事はできなかったのだ。

『…どうしたの?』

腰を屈め、ケリィはその顔を覗きこむ。怖いくらいに澄んだ翡翠色の瞳が、自分を映しているのがわかった。

 …途端、ケリィの中に後悔が生まれる。

迂闊に話しかけてしまったが、自分は災害と呼ばれる身分なのだ。幼い子供とはいえ、ケリィの悪い噂を聞いている可能性は充分ある。怖がらせてしまったのかもしれない。

 そう考えて、思わず身体を引いたケリィに、目の前の子供は大粒の涙を見せた。

『よ…よかったぁ』

しゃくり上げながら呟き、そのままケリィにしがみ付いてくる。涙声で途切れ途切れに語る言葉から判断すると、どうやらこの男の子は慣れないスキー靴のせいで、足を捻ってしまったらしい。

 …とりあえず、彼はケリィの噂を知らないようだ。その事に安堵の息を吐く。


『…君、お家はどこ?送って行ってあげるよ』

確実に一限目の授業に遅刻してしまうだろうが、こんな不安そうな子供を一人置いて行く事なんてできるわけない。そんなケリィの提案に、男の子は瞬きを一つ。

『でも…僕、学校に行かないと』

震える声で、そんな事を言い出した。

『折角お医者様に許してもらえたのに…こんな怪我お母さんに知られたら、

 また家から出してもらえなくなっちゃうよ』

ぼそりぼそりとそう告げられ、ケリィは首を傾げる。

 …この時のユアンには悪いが、ケリィには目の前の少年が就学に達するような年齢に見えなかったのだ。

 きっと、彼は学校に通う誰かの弟なのだろう。一人納得して、ケリィは言った。

『…学校に届け物でもあるのかな。だったら僕がそれ、持って行ってあげるから、

 君はお家に帰ろう?』

そう優しく頭を撫ぜてやった。不安を少しでも和らげてあげたいと思ったのだ。だがしかし、そんなケリィの前で、男の子は再び泣きだしてしまう。

『…ち…ちがうもんっ!ぼ…僕が学校に行くんだもん。お願い、連れて行って!』

意地になったようにそう言い放ち、男の子はケリィの腕をぎゅっと掴む。赤い頬を、幾筋もの滴が流れた。こんなぐしょぐしょの顔でダダを捏ねられては、堪ったものではない。

 ――参ったな。

ケリィは頭を掻いた。これは既に、自分の手に負える状態じゃない。

『――君、名前は?』

『…ひっく…ユアン…』

『そう。わかったよユアン、一緒に学校行こうか』

 溜息交じりにケリィは言う。とりあえず学校に行って、彼の面倒を見てくれる人を探した方が良いだろう。そう判断して、ユアンの小さな体を抱き上げ…息を飲む。

 想像以上に、ユアンの身体は軽かったのだ。白い肌と蜂蜜色の長い睫毛…いざこの腕に抱き上げて見れば、その全てが繊細な硝子人形のようで、壊れてしまわないか不安になる。

『――…どうしたの?』

すっかり動きを止めてしまったケリィを不思議がって、ユアンが問う。ケリィは無理矢理笑顔を作った。

『なんでもないよ』

そう言って、ゆっくりと道を滑り出す。

 本当は、ユアンを背負った方がスピードも出るし楽なのだが、ケリィはどうしても、その勇気を持てなかった。

 ――傷つけないように、怖がらせないようにしないと…

慎重に、とても慎重に足を進めて行く。結局、学校に到着したのは始業直前の時刻になってしまっていた。 

 …そして。教室中の冷たい眼差しを覚悟して扉を開けたケリィを迎えたのは一瞬の沈黙。その直後に飛んできた野次に、ケリィは耳を疑った。


『…よ、ケリィ王子!可愛いお姫様連れてきてんじゃん』

 誰かがそんな事を言い出して、からかうような指笛の音があちらこちらから上がる。

ポカンと口を開けたケリィの胸元で、ユアンが小さく身を捩じらせたのがわかった。

『あの…ケリィ、ありがとう。もう…下ろして?』

 見れば、耳まで真っ赤に染まった顔があって…ケリィは理解した。

自分は今、ユアンを腕の中に抱えているのだ。この体勢に“お姫様抱っこ”という俗名がある事は、ケリィも知っていた。…しかも、ユアンは島の子供にしては愛らしすぎる外見を持っているのだ。彼を抱き上げるケリィの姿は、傍から見て、大層耽美に映ってしまうらしい。

『…あ。ごめん!』

思わず赤面し、ケリィはユアンを床に下ろした。しかし時は既に遅し。

 教師から、ユアンが転校生である事を告げられ、放心したケリィの耳に、幾つもの囁き声が聞こえてきた。


『…てか、なんでユアンはケリィと登校してきたんだ?』

『あの妙な雰囲気。本当に二人、デキてるんじゃねぇ?』


 これはもう、ユアンの王子役はケリィで決定だな。と、いい加減な発言が飛び出してしまい。ケリィは頭を抱えた。

 …今思えば、それを境にケリィを新たな渾名で呼ぶ輩も現れ始めたのだった。

付けられた当初は、その渾名を呼ばれる度に赤面していたユアンを思い出し、ケリィは妙に可笑しくなる。十四歳になった彼は、むしろその渾名を喜んでいるのだが、当時のユアンにはそんな余裕、無かったのだろう。

――そういえば。ユアンもだいぶ、明るくなったよな…

 ふと、そんな事を考える。

出会った当初は、何をするにも危なっかしくてついつい助けてあげたくなったものだが、今ではそんな面影すら無い。親切で賢い彼は、子供たちだけでなく大人からの信用も厚く、困難があれば進んで立ち向かっていく強さも兼ね備えていた。


『だって、僕は相当しっかりしていないと、ケリィを守れないんだろ?』


 出会いから四年。だいぶ身長が伸びたとはいえ、その背はケリィよりも頭一つ低い。なのにユアンはそう言って笑うのだ。

 ――…成長してるんだ。

その事に気づけば、ケリィは少し寂しくなってしまう。

 …不意に、ケリィは思い出した。二年前、ケリィがユアンに渡したプレゼントを、彼はまだ持っていてくれているのだろうか?あの四つ葉のクローバーに、彼は本当に願い事をかけてくれたのだろうか?

『願い事が決まったら、真っ先にケリィに教えるね』

そう約束はしたけども、あれ以来、ユアンはケリィにその話をしてくれない。でもそれは、悲しいけれども当然の事だと、諦めている。

あれはきっと、ユアンの優しさだったのだ。ユアンはただ、ケリィが恥をかかないよう気を遣ってくれていただけなのに…ケリィは間抜けにも、あの約束を本気にしてしまった。

――やっぱり駄目だな…僕は。

ユアンと違い、全く成長出来てない自分に気がつけば、虚しさがこみ上げてくる。

…このままユアンに置いていかれてしまうのだろうか?そう考えただけで、ケリィの全身は恐怖に粟立ってしまうのだ。

 ――僕は走るのが得意だから、どこまでも追いかけて行けるから。

だからせめて、僕の辿りつける場所に居て欲しい。そう願うのは我儘なのだろうか。


 …夢の覚める気配が近づいていた。


一瞬だけ、遠くの海に落ちて行く飛行船が見えた気がする。小さく零したケリィの悲鳴は、もう何処にも届かなかった。


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