■■第三章■■
『チカラがホしいか…』
ずしりと重い意識の向こう、誰かの囁き声が聞こえる。
――誰?
眠りの水を吸い込んで、どんどん沈んでいく身体は、既に自由が利かない。瞼を持ち上げる事すら出来ないようだ。
『力が欲しいのだろう…全ての苦難を、一人で飲み込む為の力が』
きっとここは、夢の中なのだろう。近くで、低く穏やかな声が囁いてる。まるで、遠い昔からケリィの心を見守っていたかのような、優しい声色。
――…欲しい。
だから、ケリィは応えた。
――あの女の子を守らないといけないんだ。その為の力が…欲しい。
不思議と、そこに恐怖はない。全身を覆う気だるさの中で、ケリィが唯一感じるのは安心感。幼子が母親の胸に抱かれた感覚に近いのかもしれない。気がつけば、ケリィは声の主を心から信頼していた。
『ならば呼べ、我が名を…呼ぶのだ』
声は言う。そうすれば、その力をケリィに与えんと。…当然、ケリィに逆らう意思がある筈もなかった。
――…名前を?
『そう、我が名は…』
ぼやけた意識の焦点を聴覚に集中させ、ケリィは聞く。
とにかく、この名を呼ばなくては。それだけで力を手に入れられるというのだ。これは呼ぶしかないではないか。
『我が名は――…エル☆ピス』
「呼べるか」
そして次の瞬間、ケリィはつっこんでいた。まさか未知の何かに向かってこうも大胆に発言できるなんて。自分でもビックリである。
「…ていうか、何そのふざけた発音」
一瞬、ケリィが逆立ちしても出せない程に愛らしい声を聞いた気がする。神秘的な低い声の主と同一人物とは思えないほどに甲高く、少々頭の弱そうな声質。この独特な発音にどんな意味が隠されているのかは解らない。しかしながら、これと同じような発音で名前を呼べる程、ケリィは器用ではないのだ。
…そして、そんなことを考え始めたせいだろうか。気がつけば、身体を支配していた虚脱感が消えているように感じる。徐々に冴えてくる意識に引っ張られ、ようやく瞼を持ち上げたケリィは、暗闇に浮かび上がる白い顔が、間近にあることに気づいた。
「うぎゃああああ!!」
思わず身体を仰け反らせ、叫んでしまうほどの近距離である。囁き声がやたらはっきりと聞こえると思っていたら、声の主はこんな間近に存在していたのか。しかも、この恐怖を感じる程に整った顔立ちと、切れ長の瞼に秘められた黄金色の瞳は、ケリィにとって見覚えのある代物だった。
『…っち。先に催眠が解けてしまったか』
悪魔は美しい顔を僅かに歪め、そう呟く。そして次の瞬間、その口からは謎多き発言が飛び出していた。
『折角、ケリィの愛らしい声で呼んでもらうチャンスだったのに…』
「…はぁ!?」
一体、何を言っているのだろう。この悪魔は。
眠りに落ちた当初の神秘的な雰囲気は何処へやら。今では既に、あの心霊写真と同様、ふざけたオーラしか感じられない。そんな不信感を顔に浮かべるケリィを前に、悪魔はふと、胡散臭い笑みを浮かべて囁いた。
『…フム。思ってたよりも意思が強いんだな。やはり気に入った。
このエルピスの力、与えてやろう…』
そしてケリィがその言葉を理解するよりも早く、再度その意識は揺さぶられる。
霞む視界の中で、徐々に闇に溶けていく悪魔の顔と、急速に軽くなっていく身体。眠りの海から解放されるその感覚に、ケリィは息を飲む。
――…軽い。
そう今、ケリィの身体は余りにも軽すぎたのだ。しかも…気のせいだろうか、少々寒気がするような。
「…へっくち!」
「お、目を覚ましたようじゃな」
くしゃみの反動で身体を起こせば、目の前には不安げな幼女の姿がある。
身体を覆っていた炎は既に無いのだが、その代わり、視界の隅でヒラヒラ舞ってる黒い影がある。そっと手で掴んでみれば、それが黒いマントであることがわかった。どうやら、これが今、炎の代わりにケリィの身体を覆っているらしい
「…?」
今度は恐る恐る、立ち上がってみる。マントの隙間から吹き込む風が、妙に冷たい。悪い予感を胸に忍ばせつつ、ケリィはゆっくりと、視線を自らの胴体に落とした。
そこにあった筈の服が消えている。
「うげ!」
そうしてケリィが悲鳴を上げたのは、何も素っ裸になっていたからではない。むしろ、素っ裸だったらどれ程良かったか。身体を覆う黒マントの下、ケリィが身に着けていたモノは、丈の短い黒パンツと、ギリギリ胸元を覆える幅の、黒い一枚布だけだったのだ。
しかも、足元には黒のロングブーツまで装着されている始末である。どう見たって、変態にしか見えない。そんなこんなで大変なことになっている胴体を、慌ててマントで隠し、ケリィは改めて叫ぶ。
「なんじゃこりゃあああ!!」
何故だ。何故こんな事になった。考えてはみるが、混乱する頭で答えを探るなんて至難の技である。そんなケリィを宥めたのは、この状況下において、妙に冷静な幼女の声だった。
「恐れるな。これがキボウツキとしての力が目覚めた証じゃ。」
淡々と、幼女は言う。その澄んだ瞳に戸惑いはない。まるで、ケリィの身に起きた出来事の全てを理解しているかのようだ。ケリィは恐る恐る問う。
「キボウツキって…?」
聞慣れない単語である。この幼女は、一体何を知っているというのだろうか。
僅かに眉根を寄せたケリィに向かい、幼女はまるで同情するかのように優しく、答えた。
「封じられた災厄…エルピスの力を得た者の通称じゃ」
「え…エルピス!?あの悪魔…じゃあ、これはあの悪魔のせいなのか!?」
そしてケリィは、その回答に、思わず声を荒げてしまう。
原因は奴だったのか、しかし一体、何の意味があってこんな事を?…そう戸惑いを露にする様子に、幼女は肩を竦めて見せた。
「エルピスはわしの仲間じゃ。確かに見た目は怪しいが、あれでも神の僕なんじゃぞ」
わしも奴も、地上に起きる災害を未然に防ぐ為に存在しておる」
本来、二人は天界に住む立場であると、幼女は語った。神の舟に乗り、そこで地上を襲う災厄を取り締まっているらしい。…そう、やはり彼らは人間ではなかったのだ。なんとなく予想出来ていたケリィからすれば、それは差して驚くべき事実ではない。むしろ、今説明して欲しいのは全く別の件…
「――そして、お主には大変申し訳ない事をしてしまったと思っておるが…」
混乱と不満で一杯なケリィの内心を察したのだろう。困ったように、幼女は溜息をついた。
「わしらは今、少々手強い災厄…スリープシスと呼ばれる化物を追いかけておる。
これを討つ為にはどうしても、地上の人間の力が必要で、ゆえにお主は選ばれた」
…キボウツキ、それはスリープシスと戦う戦士なのだと幼女は言う。
「…戦士って。え?この格好で?」
ポカンと口を開き、ケリィは改めて自身の珍装備を見やる。戦士に選ばれた事よりも、この防御力皆無の扮装で戦えと言われた事が衝撃だった。
「キボウツキに選ばれた以上、お主は天使にすら近い戦闘能力を得ておる筈じゃ。
その格好は…エルピスの趣味の問題じゃから、気にするでない」
あくまで淡々と、幼女は説明しているが、当然ケリィは腑に落ちない。納得できるわけが無い。
「…これが趣味って、ただの変態じゃないか」
「そればかりは、わしも否定できぬな」
ポリポリと頭を掻き、幼女は苦笑する。そしてそのまま、ケリィの背後を指差した。
「ほれ、キボウツキになったお主には見えるじゃろ。
あれがわしらの倒すべきスリープシス。夢喰いのサナトスじゃ」
そう示され、ケリィは恐る恐る振り返る。低く枝を伸ばすハイマツの上、つい先程まで何の姿も無かった筈の場所にそれは居た。初めて目にしたその正体に、ケリィは思わず一歩後退してしまう。
「嘘…だろ…?」
それは一見、仔馬によく似ていた。純白の毛並みと長く優雅な金褐色の鬣、そして、濡れて輝く黄金の瞳を持ったそれは、余りにも美しい。
「あんな綺麗な動物に僕、襲われてたわけ?」
荒い息使いに、血肉を喰らう下卑た姿勢。自身が知ってる不可視の獣の素性が、目の前にいる美しい生き物にどうしても当てはまらない。
「いや…騙されるな。あれは擬態じゃ」
サナトスの容姿に呆けるケリィの様子に、返す幼女の声は自然と低くなる。警戒心の足りなさを、暗に注意しているのだろう。その厳しい眼差しは今、サナトスの背後にあった。その動きに連れられて、ケリィも視線を動かし…瞬間気づく。
サナトスの美しい姿の背後に連なるどす黒い影がある。一見、巨大な黒い尻尾が揺れているように見えなくも無いが、その毛束の一つ一つに、はマムシのような頭部が付いている。あれがサナトスの本体なのだろうか…
「スリープシスは、美しい擬態を持って人間に取り入る。
遂には魂ごと持っていかれてしまうぞ」
「っひぇ…」
改めて、その禍々しさに気づき、ケリィは身を震わせた。なんでまた、こんな薄気味悪い輩と対峙しなくてはいけないのだろう。
――…グルル…
ふと、サナトスの唸り声が聞こえた。見れば、美しい筈の擬態は、その額に醜悪な皺を刻み、ケリィ等を睨みつけている。闇の中で真紅の瞳が瞬き、複数の頭部が、舐めるようにこちらを観察しているのがわかった。
「ふむ…エルピスの力を警戒できるだけの知恵はあるようじゃな。
急いで倒さねば、逃げられてしまうかもしれぬ」
「え!?それでいいじゃん!」
戦うという選択肢を持たないケリィにとって、敵の方から退散してくれるという可能性は、非常に理想的に感じた。これで助かったと、ケリィは安堵する。
…しかし幼女は、そんなケリィの言葉に、ゆるゆると首を振って返すのだ。
「――確かにこちらとて、お主の力に頼るのは本意でない。
しかし、ここでサナトスを逃すわけにはいかぬのじゃよ…」
許してくれ。そう呟き、幼女はケリィの手を引っ張って走り出す。勿論、向かう先にはサナトスが居るわけで…
「…う…うわっ!やめろっ…馬鹿!」
そう必死で抵抗するケリィだったが、敵わない。幼女の並外れた腕力に引き擦られ、サナトスの間合いに放たれたケリィは次の瞬間、黒いマムシの巨大な顎が、間近で閉じられたのを見た。サナトスの本体が、ケリィを獲物として認識したのである。
「ぎゃああああ!!」
そう悲鳴を上げたケリィを取り囲むように、複数の頭部がその長い身体を躍らせ始める。幸い、最初の一撃は逃れることができたようだ。だがしかし、これらの数の攻撃を全て避けきれるかといえば、それは不可能に決まっている。
「無理っ!こんなの無理だってば!」
右から襲い掛かる一本を、マントを翻し叩き落とす。地を這い、ケリィの足元を狙った二本は、高く飛び上がってかわした。星の輝き始めた夕空に、冷や汗が数滴、飛び散っていく。
「…充分、避けれておるではないか」
いつの間にか、そこを定位置と決めたらしい。ケリィの背中にしっかり貼りついたまま、幼女は冷静にそんなことを言う。
「ちがっ…!こんなの偶然なんだって!」
真っ青な顔で叫ぶケリィ。その横をまた新たな一本が横切った。肌に触れる直前でそれを叩き落し、ケリィはサナトスから遠ざかるように高く跳んだ。
「キボウツキに偶然はない。これは、お主が敵の動きを先読みし、
動いているだけの話じゃ」
「んなことっ!出来るわけ無いじゃん。本当、キボウツキってなんなんだよ!」
今度は、ケリィ目掛けて突進してきたサナトスの擬態を、片足で蹴り飛ばす。バランスを崩した擬態は、自らの本体に足を取られ、そのまま後方へ転倒。そして、一瞬全ての攻撃が止まったその隙を、ケリィは見逃さない。クルリと踵を返したケリィは、敵に背中を向け、走り出した。勿論、逃げる為である。
「キボウツキは…エルピスの持つ先知の力を受け継ぐ者。
予知能力くらい、使えて当然じゃ」
「つ…使えないよ!だって僕、本当普通の、ただの人間なんだもん!」
「――…だったら何故、サナトス相手に無傷でいられるのじゃ?
このわしですら、奴からは多大な傷を負ったというのに」
「それはっ…」
本当に、ただの偶然なのだと。そう口に出そうとした次の瞬間、ケリィは気づいた。背中に掴まる、幼女の手が震えている。そして彼女は、その不安げな様子にも関わらず、淡々とした口調で言葉を紡ぎ始めた。
「サナトスを封じるよう指令が下った時、わしには沢山の仲間が居た。
しかしその仲間も、今ではエルピスしか残っておらぬ」
…一体、幼女は何の話をしているのだろう。その意図を探ろうと、耳を澄ましたケリィは、
「サナトスは…あやつは、わしの仲間を、友を…喰ってしもうたんじゃ…」
その言葉に、硬直した。
「なんで…わしは生き残ったのじゃろう。なぜ皆のように戦えなかったのじゃろうか」
ぼそりぼそりと呟く幼女の顔を、ケリィは確かめることができない。ただ、その声だけは酷く冷静に聞こえた。
不意にケリィは思い出す。傷だらけの身体で果敢に敵に挑んだ幼女の、あの姿。
「…なぜわしだけ…逃げてしまったんじゃろう」
背中に掴まる小さな身体が、今だけは重く感じる。
本当に、この幼女は、一体何者なのだろう。その事は相変わらず解らない。
…ただ、幼女の身体に刻まれた無数の傷の意味だけは、ケリィにも、なんとなく理解できる気がした。
――…悔しいんだ。
取り戻せない過去があって、自分が許せなくって苦しいんだ。その気持ちだけなら、ケリィにだって解る。不思議な事に、ケリィは今、両親が死んだ日の自分と、幼女の過去が、ほんの少し重なった気がしていた。
「…ねぇ」
だからケリィは足を止める。
「僕は…どうすればあいつを倒せる?」
だからケリィは覚悟する。この幼女の為に戦うのだと。
ゆっくりと背後に向き直ったケリィは、猛烈な勢いでこちらに迫るサナトスの姿を確認し、身構えた。
「――…決意するのじゃ。必ずその手で、サナトスを倒すのだと強く念じろ」
たったそれだけで、キボウツキの持つもう一つの能力は効果を発揮するのだと、そう幼女は言う。
「能力?」
「そうじゃ。その手で運命を切り開く力…」
――…ッズゴォオオオン!
とんでもない音が聞こえて、ケリィは咄嗟に身を伏せる。擬態の持つ鋭い爪が、背後に聳える巨木の幹を突き破ったのが見えた。
体勢を崩したケリィは、本体からの追加攻撃を受ける格好の標的になる。その筈なのに、サナトスはそれ以上、ケリィに触れようとしなかった。ジリ…と、数歩遠ざかり、サナトスは短い唸り声を上げる。
その時、ケリィの右腕から薄紫色の宵空にかけて、赤銅色の軌跡を描く、新たな光があった。
「…それが、“決意の炎”」
幼女は告げる、ケリィに与えられたその力の名を。
メラメラと弾け燃えるのは、澄んだ真紅の炎。先程の黒い炎と比べたら、ほんの少しだけ熱いような気もする。しかしそれはまるで、胸の奥に秘めた思いを込み上げるままに叫んだかのような、心地のよい熱気だ。
ケリィは一瞬、自らの生み出した炎の揺らめきに、呆然となってしまった。
「僕の力…なの?」
震える唇で、そう呟く。なんて美しい炎だろう。恐怖も悲しみも、何もかも忘れてしまえそうな程に、澄んだ色の炎である。
そして、息を飲んだケリィの耳に、幼女の声は響いた。
「…行け、キボウツキ!」
その言葉に、迷いなど生まれる筈が無い。
気がつけば、ケリィは走り出していた。自分のものとは到底思えない雄たけびが、喉を、鼓膜を揺らしている。
…まずは、恐怖に凍りついた擬態を狙った。
素早く間合いに踏み込み、敵がこちらの動きを把握するその前に、左手で金褐色の鬣を強く掴む。腕力に任せ、その華奢な擬態を引き擦り倒した。擬態の口から細い悲鳴が上がり、その次の瞬間には、背後の本体が巨大な波を作り、ケリィに襲い掛かる。
「…!!」
炎の燃え盛る右手を振り上げ、ケリィはそれを制する。宙に千切れ跳んだ炎の欠片が、数個の頭に燃え移り、頭部を砕いて闇に散った。
明らかに、サナトスが怯えているのがわかる。圧倒的な力の差に気づいているのだ。
身体能力が極限まで高まって感じるのは、恐らく気のせいではないだろう。これも、キボウツキの力なのだろうか。
――…勝てる。
だからケリィは確信した。
左手は擬態を掴んだまま、ケリィは右手で手当たり次第にサナトスの首を握り締める。その拳の中で、面白いくらい簡単に、頭部は砕けていく。自分に与えられた 力に驚くと同時に、ケリィは奇妙な快感を抱いていた。こんなに清清しい気持ちになれたのは、一体何年ぶりだろう。思わず笑い出しそうになる表情を、僅かに残った理性だけが、辛うじて引き止めていた。
「…当然じゃ。単体のスリープシスが、キボウツキに勝てるわけはない」
不意に、背後から幼女は言う。一方的に痛めつけられているサナトスに、まるで同情でもしているかのような声色だ。
そしてその声で、ケリィはようやく、サナトスが息絶えていることに気づく。
「…あ」
慌てて擬態から手を離す。ゆっくりと後ずさったケリィの前で、擬態はサナトスの本体を引き擦り、重い音を立てて地面に落ちた。
意識の無い相手をいたぶって楽しんでいた自身に気づけば、吐き気さえ覚える。ほんの一瞬とはいえ、狂気に取り憑かれていたとしか思えない行動だ。
――…僕は…何を
息を飲み、ケリィは目の前の光景を見遣る。
地面に力なく落ちたサナトスの身体に、ケリィの放った炎が猛烈な勢いで燃えている。真紅の炎は、周囲の木々に移ることなく、サナトスの身体だけを丁寧に灰に還していった。
「し…死んだの?」
恐る恐る、尋ねてみる。幼女はケリィの肩からひょっこりと顔を出し、答えた。
「いや。スリープシスに死はない。灰に変えたところで、
いずれまた再生してしまうじゃろ」
「…じゃあ…どうすれば?」
どうすればサナトスに、完全なトドメを刺すことができるのだろう。ケリィのその問いに、幼女はニッコリと微笑んで返す。
「うむ。今こそ封印の箱の出番じゃ。さ、早くお主の持つ箱を出せ」
「――…は?」
…箱?箱ってなんだ?あからさまな疑問符を顔に浮かべたケリィの様子に、幼女の笑顔はたちどころに消え去った。
「は?…じゃなかろうて。エルピスが封印されていた箱のことじゃ。
奴がここに居ると言う事は近くにあるんじゃろ。
わしはてっきり、お主が箱を持ってるものだと思っていたが…」
あの箱は、スリープシスを封印する事が出来る唯一の道具なのだと、そう幼女は言う。その口調の緊迫感に、ケリィも慌てて自身の記憶を辿った。
――…箱。あの悪魔が封印されていた箱だって?
そんなもの、自分は開けただろうか。二年前のあの事件を思い返してみるが、そんな箱なんてどこにも…
「…あ」
あった。確かに箱は存在していた。その事をケリィは思い出す。それはきっと地面に落ちていたあの、小汚い箱のことである。箱に皹が入った瞬間、エルピスが飛び出してきたことを考えれば、辻褄は充分に合うではないか。
――…いや、まてよ?
ここで、ケリィはとある問題点に気づく。その事が、余り良くない事態のような気がしてならない。
「…やっと、思い出したか。一体どこに置いておるんじゃ?
サナトスの再生までにはまだ時間もあることじゃし、
今から取りに行っても充分間に合うぞ」
様子の変わったケリィに安堵したのか、そう口にする幼女の表情は柔らかかった。
手を引っ張り、箱の置き場所まで案内しろと促してくる。しかしケリィは、その要望に応えることができなかった。
「あの…ごめん」
そう、まずは謝らなければならないだろう。
そして、きょとんと首を傾げる幼女に向かい、追い討ちをかけるよう、告白する。
「その箱なんだけど、エルピスが出た瞬間、燃え尽きちゃったんだよね…」
あの日、エルピスの放った炎の最初の犠牲者。今思えば、それがあの箱だったのだ。
あまりにもあっさりと消滅したものだから、ケリィは今の今まで、あの場所にあった箱の存在を忘れていたのである。
「な…」
幼女は言う。小さな唇を、今ではこれ以上もなく大きく開け、腹の底から絶叫する。
「な ん じ ゃ と ぉ !?」
震える空気、飛び立つ数羽の小鳥。この小さな身体で、良くここまでの大声が出せたものである。思わず耳をふさいだケリィの目の前で、幼女は放心したようにその半身を揺らし…そしてそのまま地面にへたりこんだ。
「これは、困ったことに…」
そう頭を押さえる幼女の前で、サナトスの最後の一欠けらは今、ゆっくりと宙に溶けて消えた。