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■■第二章■■

 放課後、ユアンを家まで送り届ける事は、ケリィの日課になっていた。

多くの子供はこの放課後の時間、学校や付近の野山などで思い思いに遊んで過ごすのだが、ユアンにはそれができない。なのでいつも、ユアンは子供達の笑い声を背に、校舎の建つ丘を一人で下って行ってしまう。

 その様子が余りにも寂しいので、付き添って帰るようになったのが入学した年の夏の出来事。以来、ケリィとユアンは毎日一緒に帰っている。


「…たまには、他の皆と遊んで帰ったら?」

隣を歩く友人に向けて、ユアンは嬉しいような、困ったような顔で言う。

「いいよ別に。ユアンが居なくちゃ、遊んでも楽しくないし」

 自分より年下で、尚且つ色眼鏡越しにしか人を判断しない子供達と遊ぶ事に、一体何の意味があるというのだろう。それだったら、早く家に帰って、教会の掃除でも手伝った方が随分と有意義だ。そう考えを告げたケリィに、ユアンは深い溜息を一つ、真剣な眼差しで言葉を紡いだ。

「ねぇケリィ。本当に君ってば、勿体無いと思うんだ」

ケリィに友達が少ないのは、悪い渾名に振り回されている事以外にも理由があるのだと、そうユアンは言う。

「皆、ケリィは無愛想で酷い奴なんだって言うんだよ。

 まずはこの印象からなんとかしないと」

「…別にいいよ。皆にとっては、それが事実なんだろうから」

眉を潜めて、ケリィは返す。人を信じるのが苦手なケリィにとって、友情ほど面倒くさいものはない。ユアンとの関係がこうして続いているのは、彼の存在が、ケリィにとって特別だったというだけの話なのだ。孤独に慣れているケリィにとって、他人からこうして心配される事は、少々鬱陶しく思えた。

 …そんなケリィの心情を察したのだろう。途端、ユアンは口を閉ざす。

結局、彼が次の言葉を紡いだのは、ブルーイット宅の生垣に咲くスコッチローズの、その白い花が見えてきた頃だった。


「ケリィ。きっと君は、僕が今まで出会ったどんな人よりも、優しいんだと思うよ」

真っ直ぐにケリィを見つめ、ユアンは勇気を振り絞るようにそう言う。余りにも澄んだ翡翠色の瞳に圧倒され、言葉を失ってしまったケリィは、目の前の友人の顔色が、血色良く変化していくのを見た。

「…あ、あの。今日もありがとう…また明日ね!」

そして、遂には沈黙に耐え切れなくなったのだろう。そんな中途半端な挨拶を残し、ユアンは慌てて家の中に駆けて行ってしまう。彼からの想いを伝えられたケリィは、その場に立ち尽くしたまま、暫く呆けていたが、

「ユアンは…本当に変わってるな」

そう呟き、踵を翻した。

 ケリィのことを優しいと表現する人間は、恐らくユアン以外存在しないのではないかと思う。ケリィの感情は、育ての親のモーズレイ氏ですら時折溜息をついてしまう程に淡白で、優しさや愛情というものの存在感は、限りなく零に近かった。何時からそんな性格になってしまったのか、それは本人にもわからない。ただ、両親の死を知ったあの夏の日に、涙の一滴も零せなかったことを考えれば、これは生まれつきなのかもしれない。

「僕ほど心の冷たい人間はいないのに」

足元に咲くキンポウゲの小さな花弁を見つめる黒い瞳には、諦めと虚無の炎が揺らいでいる。

 ケリィは両親の思い出がない。いや、ある筈なのだが、どうしても思い出せないのだ。

時折、記憶を辿ろうと試みるのだが上手く行かない。真剣に取り組んだところで、思い出せるのは、事故を報道した新聞記事の内容までだった。


 新大陸開拓の夢と三十名を越える専門家たちを乗せ、発進した巨大飛行船は、三ヶ月間の旅の末、大空で爆発を起こし、そのまま北東の海に墜落した。一人の生存者も期待出来ない程に、それは悲惨な事故だったのだという。


 ケリィの父親であるディアン・マシューズは、大陸でも、それなりに名の通った地質学博士だった。妻であるアデルもまた、考古学を研究する先鋭として実績を上げていた為、二人とも今回の計画に組み込まれていたのだ。

 新聞に掲載された写真には、飛行船に印字された“楽園”を意味する異国語と、その機体を包み込む爆煙が克明に写し出されていて、この事故が紛れも無い事実であることを知らせてくれる。その白黒の画は、まるでケリィそのもののように冷たく、現実を捉えて見えた。

「きっと、父さんも母さんも、僕のこと嫌ってたんだろうな」

無気力に、ケリィは呟く。マシューズ夫妻はきっと、ろくな感情も持たない無愛想な我が子に呆れていたのだろう。だからこそ、幼いケリィを一人残し、危険な旅に出発する覚悟を決めたのだ。ケリィはそう確信し、軽く瞳を伏せ…そしてふと違和感に気づく。

何故、自分は、森の中を歩いているのだろう。

 どうも、ぼーっとしすぎていたらしい。ブルーイット宅に背を向けて歩き始めてから数分が経過していたが、一向に街道が見えてくる気配がない。辺りには白樺の細い枝が犇いていて、緑は香り高く大地を覆っている。うっかり横道に入ってしまったと見て間違いないだろう。

 ――マズイぞ…。

妙に見覚えのある一帯に辿り着き、ケリィは思わず足を止める。

立ち並ぶ白樺の幹の根元には、炎に舐められた黒土が未だに存在していた。

 そう、ここはあの時と同じ場所。二年前、ケリィが悪魔に出会い、取り憑かれた場所だったのだ。ケリィは、あの事件以来、この場所を通らないよう極力気をつけて歩いていた。その筈なのに、今日はつい、油断をしてしまっていたようだ。

 ――ああ…やっぱり、これはかなりマズイ。

そう額を押さえつつ、ケリィは慎重に周囲を見渡した。心臓の中に悪い予感が満ちていくのを感じる。わざと深く息を吸ってみるが、速まり始めた鼓動を抑えることはできない。

 とにかく、早くこの場を離れなくては。ケリィがそう焦る理由の一つには、勿論あの事件で植えつけられた恐怖心があった。だが、それ以上に本能が告げるのだ。この場所は危険なのだと。そして、ケリィのこうした勘は良く当たった。


 …シュっと、風を切る音が聞こえた。いつの間にやら、空には灰色の雲が走り、その切れ端は太陽に影を落としている。ゾワゾワと、背筋を這う冷たい気配を感じ、思わず身を竦ませたケリィは次の瞬間、幼い子供の悲鳴を聞いた。

「…!?」

顔を跳ね上げ、木葉のざわめきに聴覚を集中させる。続いて聞こえたのは、重たい何かが地面に衝突する音。その方角から判断するに、先程の悲鳴の主は今、比較的ケリィに近い場所にいるらしい。

 ――…まさか、あの化け物が現れたのか?

そして二年前のケリィと同様に、見えない爪の標的にされた哀れな子供がいるのだろうか。ケリィは一瞬こみ上げてきた躊躇いを飲み込んで、悲鳴の聞こえて来た方向に身体を向けた。被害者がいるのならば、助けなくてはなるまい。二年前に自分が味わった恐怖が、他人に襲い掛かっている事を考えると、ケリィの心はざわついた。

 ゆっくりと慎重に、立ち並ぶ木々の狭間を縫い歩いて行く。低い岩壁を乗り越えると、途端に視界は開けた。

 そこに広がるのは、地面を覆う羊歯の群れと、深い藍色の湖畔である。熱い夏場などは水遊びの子供たちで賑わう場所であるが、七月のイトゥリープ島では未だ気温も低く、湖畔に現れる人影はない。そう、本来ならば。


「…誰?」

 背の高い釣浮草の陰に身を潜め、ケリィは呟く。冷たい湖の淵に、見知らぬ幼女の横顔があったのだ。年の頃は四・五歳くらいだろうか。黒曜石のようなつぶらな瞳と薔薇色の頬が愛らしく、線の細いその立ち姿は、まるで森の木々に抱かれて育った妖精のようだ。

 ――…あんな子供、僕は知らない。

なのに妙に懐かしい気がしてしまって、ケリィは眉を潜める。

 …どこかで会った相手なのだろうか。記憶の中に思い当る顔はないか探ってみるが、答えは出ない。

「観光客…にしては、時期が変だし」

首を傾げ、ケリィは言う。真冬のイトゥリープ島では大きな祭りが行われる為、それを目当てに集まる人間は多い。しかし今は初夏なのである。観光する価値があるとは到底思えない。

 奇妙に思いながら見つめるその視線の先で、幼女は水辺に向かって一歩、足を踏み出したようだった。身に纏うワンピースが光の加減で銀色に輝き、広く膨らんだ袖は彼女が歩く度にヒラヒラと揺れる。ケリィには見慣れないタイプの衣装であるが、これが大陸の流行というやつなのだろうか。見る程に神秘的な姿である。


「…くそっ…どこに隠れおった!」

 両肩に垂らした艶やかな銀髪を振り乱し、幼女は叫ぶ。ケリィは、愛らしい唇から吐き出されたその余りにも汚い言葉に驚くと同時に、正面を向いた彼女のその姿に息を飲んだ。

幼女の顔面、その左半分には、獣の爪痕が赤く生々しい線を引いていたのだ。しかも、傷は一つだけではなく、古傷も合わせれば、数えるのも躊躇われる程に多い。

そのグロテスクさに、ケリィは小さく悲鳴を上げる。瞬間、幼女の鋭い眼差しに捕まった。

「にんげん…?」

 黒い瞳を大きく見開き、幼女は呟く。どうやら、その存在に驚いたのはケリィの方だけではなかったらしい。幼女が「なぜ」と言葉を紡ごうとした次の瞬間である。その背後で強風が巻き起こった。

 湖に小波を立て、幼女の銀髪を一房刈り取っていく。それはケリィにとって、体験済みの光景だった。

「げっ!出た!」

「現れよったな!」

 叫んだのは二人同時。不可視の獣はまたしてもその凶刃を振りかざし、ヒトの血肉を狙う。そして今回は、目の前の幼女がその標的にされているらしかった。その事を理解した途端、ケリィの身体は自動的に動き出す。不可視の獣に向かい、体制を整える幼女の、その華奢な身体を掬い取るように、ケリィは宙に身を投げ出した。

「…なっ!?」

幼女は驚きの声を上げる。当然だろう、突然現れた実も知らぬ人間に、その身体を掴み取られたのだ。これ程衝撃的な事もあるまい。

「と…とりあえず逃げよう!すぐ近くに教会があるから、そこまで行けばなんとかっ!」

唯一自信のある脚力だけを頼りに、ケリィは不可視の獣に背を向ける。

 …正直、自分の行動が信じられないでいた。何故、見知らぬ子供の為に命を張らないといけないのだろう。途切れる息の狭間で、ケリィは自身に問いかける。

 ――僕で止めなくちゃいけない。

意識の奥で、そんな声が渦巻いているのがわかった。辛い思いをするのは、自分一人で充分なのだ。他人を巻き込んではいけない。そんな奇妙な義務感に突き動かされ、ケリィはただ、走っていたのだ。


「…っ!」

 不意に、右脇腹を擦り抜ける気配を感じ取り、ケリィは左の茂みに倒れこんだ。目の前で切り裂かれ、落ちる木の枝を確認する。既に生きた心地はない。

「なぜ…見えておるのじゃ?」

腕の中に居る幼女からそう問われ、ケリィは震える声で答える。

「見えてない…避けられたのは運が良かっただけだよ」

立ち上がり、ケリィは再度走り出した。本当に、見えない相手との鬼ごっこ程に厄介なものはない。時折背後で巻き起こる旋風の他、敵の位置を確かめる術が無いのだ。このままでは、無事に教会まで辿りつく自信はない。その恐怖を振り切るように、無心に走り続けるケリィの胸元で、幼女はもどかしそうに言葉を紡いだ。

「い…いや、その事ではない。お主は何故――…わしの姿が見えておるのじゃ?」


 しかしケリィがその言葉を聞き取るよりも早く。二人は足元の地面が崩れていく音を聞く。

「「!!?」」

どうやら、敵は無意味にこちらを追い回していたわけではなかったようだ。先回りし、鋭い爪で傷つけられた地面は脆く、ケリィの足を飲み込んだ。土砂に自由を奪われたケリィは、耐え切れず倒れこみ、幼女は宙に舞う。そこに、不可視の獣は居た。

「ひ…っあぁあ!」

 顔を上げることすら儘成らないケリィの耳に、幼女の悲鳴が轟いた。続いて聞こえるのは肉の抉れる鈍い音、そして聞き覚えのある獣の息遣い。大地越しに強い振動が伝わり、ケリィは幼女が自ら獣に突進したのを知る。

「くそっ…!この化け物が、人間までも巻き込みおって!」


 …一体全体、先程からこの幼女は何を言っているのだろう?

ケリィは口に溜まった土くれを吐き出すと、ようやく地面から顔面を引き離した。上半身を起こし、目の前で起きている異様な光景を見遣る。幼女は戦っていた。まるで敵の動きが見えているかのように華麗に、幼女は幾度も銀色の軌跡を宙に描いた。

「嘘…だろ?」

口調こそ、妙に大人びているとはいえ、相手はケリィよりも一回りも二回りも小さい女の子である。それが何故、あれだけの傷を負いながらも涙一つ見せないでいられるのだろう。何故、ケリィですら恐怖する未知の相手に、果敢に立ち向かっていけるのだろう。何もかもが理解不能で、ケリィは眩暈すら感じる。


「…逃げろ!」

不意に、幼女は叫ぶ。

「逃げて、この事は全て忘れろ!ここはわしが食い止める!」

それはケリィにとって、聞き覚えのある台詞だった。二年前のあの時、突然現れた悪魔も似た様な事を言っていたのだ。そしてケリィはその言葉どおり逃げて生き延びて、今に至る。

 ――これは…あの時と同じ状況なのだろうか。

呆然とした意識の中で、ケリィはそんな事を考えた。言われるままに逃げ出せば、きっとまた生き延びられる。平和な日常に戻ることができる。それが解っても尚、ケリィの身体は動かなかった。


 ――…あんな小さな女の子を放っておけるわけないじゃないか。

 そう、今は二年前のあの時とは事情が違うのだ。

もしかしたら目の前の幼女も、人間ではないのかもしれない。しかしそれでも、彼女は余りにも傷つき過ぎている。

「…っ…ぅ!」

 息を切らせた幼女の肌に、また新たな一線が刻まれた。水平に回転させた右腕が宙を薙ぐが、空振りらしい。どう見たって戦況は幼女に不利だった。ゆっくりと、ケリィは立ち上がる。

「そうだ…逃げないと」

俯き呟いたケリィに、幼女も声高らかに応じた。

「うむ。急げ!わしもそう長くはもた…ぬ!?」

そして次の瞬間、幼女は自分の身体が再度、ケリィの腕の中にあることを知る。

 ケリィは走り出していた。

「おいっ!」

幼女は、驚愕のままに小さな拳を振りかざすが、ケリィは動じない。

「だっ…大丈夫。教会にはとても親切な牧師がいるんだ。きっと助けてもらえる!」

「馬鹿か!あの化物の狙いはわしだぞ。わしを置いていけば全て済むのじゃ!

 お主は巻き込まれているだけなんじゃぞ!?」

折角の綺麗な顔を、今は悔しげに歪め、幼女は叫ぶ。

「わしは、ここで奴を食い止めたいのじゃ。他に被害者を作るわけにはいかぬのじゃ。

 離してくれ!」

「…そんなの」

 不意に、ケリィの唇から言葉が漏れる。それは、当人すら戸惑う程に冷たい響きの代物だった。

「そんなの、僕だって同じだ」


 辛い思いをするのは、自分だけで良い。それは、ケリィにとっては優しさというよりも、自身のエゴに近い感情だった。存在自体を忌み嫌われ、人間らしさすらも失い始めている自分自身に、もし存在意義が残っているのだとすれば、これが最後なのだろう。

 ケリィは苦境に慣れている。例え死ぬことがあっても、悲しむ人間の数だって乏しい。そして、だからこそ見えてくる価値もある。その唯一の価値を、他人になんて奪われては堪らないではないか。


「僕で終わらせたいんだ。頼むから、僕以外の人間を襲わないでくれ!」

 ケリィは叫ぶ。その内心を知るものからすれば、これ以上もなく自虐的な叫びに聞こえるだろう。何も知らない幼女は、目の前の狂気染みた言葉を理解できず、僅かに身を竦ませる。が、次の瞬間、幼女は更なる衝撃に目を見開いていた。

 …ケリィの身体が燃えている。


「黒い炎…じゃと?」

それは、ケリィの胸の中心、おおよそ心臓がある辺りから噴出していた。炎は見る見るうちに全体に広がり、その腕に抱かれた幼女ごと漆黒に塗り上げようとする。不思議な事に、間近で燃える炎の熱が幼女には届かない。ただ、その勢いは凄まじく、まるで悲鳴のような爆音を立て燃え盛っていった。

「う…うわっ!なんだこれ!!」

遂には視界まで到達した炎に気づき、ケリィはようやく驚愕する。自分の身体を、見覚えのある炎が覆っている。二年前、あの悪魔が放ったものと同様、不気味な色の炎だ。

 そしてそれは、敵を威嚇するには充分な威力を発揮したらしい。ケリィは、炎の向こうに居る不可視の獣が、僅かに怯えているのを感じた。少しずつ、少しずつ。獣の気配が遠のいて行く。それと同時に、炎は益々勢いを増し、遂にケリィと幼女の視界は漆黒に堕ちる。こうなってしまうと、ケリィはもう、その場にへたり込むしかなかった。

 ――…僕に今、何が起きてるんだ?

必死になり思考を巡らせるが、結果は混乱するばかりである。

「――…そうか、お主が…奴に選ばれた人間…」

鼓膜を突き破るような轟音の中で、ふと、幼女の声が聞こえる。ケリィは、その言葉の意味を探りたいと思ったのだが、叶わなかった。


『 我に応えよ 』


 唐突に、その言葉が脳内に響き渡ったのだ。

意識を激しく揺さぶられたケリィには、驚愕する暇すら与えられない。ふと気がつく頃には、眠りの海にクラクラ浮かぶ自分の姿があった。


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