■■第十六章■■
動かない右足を引き擦り、なんとか校庭に出た時には、既に雨が止んでいた。
奇妙に思い、空を見上げれば青空が広がってる。どこかで見た事のあるような形の雲が空に浮かび、太陽は昼の日差しを地上に注いでいる。
「なに…これ?」
呆けて呟き、ケリィは校庭の中心へ、足を運んだ。
不意に、視界の中に燃える数字が“一”を示す。
驚いて辺りを見渡せば、そこには、一面の四つ葉のクローバーがあった。
間違いなく、ここはケリィの知る校庭ではなかった。そしてケリィは、そんな校庭の片隅に集まる人だかりに気づく。
『――おい、ケリィ!遅いじゃないか、待ってたんだぞ!』
それは、遊びたい盛りの少年に相応しい、乱暴な声である。名を呼ばれた事に驚いて、振り向けば、そこにユアンが居た。
「…!」
息が、止まる。
キラキラと瞳を輝かせたユアンが、こちらに向かって走ってくる。その背後には、楽しげに笑う子供たちの姿。皆ケリィに向かって手を振って、早くこっちに来いと催促していた。
『さぁ、ケリィ、行こうぜ!今日こそは、君を追い越してやるんだから!』
ケリィの腕を掴み、ユアンは言う。
気が付けばケリィはキボウツキの変身を解いていて、足の怪我も消えていた。
奇妙な気持ちで右足の感覚を確かめるが、そうこうしているうちに、身体は勝手にユアンに引き擦られ、地面に引かれた線の前に持って行かれてしまう。
…これは、短距離走の授業の時、教師が引く線だ。
それに気づいて、ケリィは、はっとする。
線の前に次々と整列する十二人の子供たちの顔を、ケリィはよく知っていたのだ。
ハルが居る。同じ教室で語り合った仲間が、そこに全員揃っていた。
…彼らは確か、サナトスの手により覚めない夢に封じられたのではなかったか。
「…なんで?」
ケリィは今、幻覚でも見ているのだろうか。首を傾げたケリィの肩を、ユアンは面白そうに叩いた。
『ほら、走る準備をしてくれよ。もうすぐ、先生の笛が鳴る』
そう言って、ユアンはケリィを見上げる。
日に焼けた肌や乱暴な口調は、ちっとも彼らしくなくて。なのに、その瞳の中に、本当のユアンの姿が見えた気がして…。ケリィは息を飲む。
何処からか、笛の音が聞こえた。
それを合図に、走り出す生徒たち。ユアンに手を引かれ、ケリィも走った。
「…はっ…はっ…!」
次々と、ケリィは生徒たちを追い越していく。いつものように先頭に立ったケリィに、ユアンだけが追い付いてくる。
一瞬だけ追い越され、それをまた追い抜き、二人は走る。
『…はぁ…っ…はぁ!』
そして、ゴールに着いたのは僅かにケリィが先で。ユアンは肩で息を切って唸った。
『やっぱり…っすごいや、ケリィは…!』
そう言って彼は、ちっとも美少年らしくない、くしゃくしゃの笑顔を見せる。
振り返れば、そこに他の生徒たちの姿はなかった。
ケリィとユアン。たった二人きりになってしまった青空の下で、ユアンは眩しそうに目を細めていた。
『…ああ。やっぱり僕じゃ、君には適わないんだね』
その事がわかって、嬉しい。そう言って、ユアンはケリィを見上げる。
ケリィよりも、頭一つ低い背の少年の笑顔は、何故か今にも泣き出しそうだ。
「ユアン…?」
不安で、それ以上にその身体に触れたくて、ケリィはユアンに手を伸ばす。
しかし彼は、ゆっくりと頭を振って、その手を制した。
『ケリィ、僕はきっと、君に憧れていたんだね』
まるで、自分に言い聞かせるように、ユアンは言う。
『僕は病気があるから、いつ死ぬか判らないって言われ続けてたから…
いつの間にか、生きる事を諦めていたんだ。でも君は、そんな僕に目標をくれた』
ケリィに追いつくまで、頑張って生きていたい。
そう思えるようになったのだと、ユアンは言う。その瞳は既に、涙で潤み始めていた。
『…今から少しだけ…僕は遠くに行かなくちゃいけないけど。
でも僕は君をこれからも、追いかけ続けるから、
もし次会う事があったら、その時は絶対、ケリィよりも速く走ってみせるから』
笛が、鳴る。
「――っ!ユアン!!」
『来ないで!』
ケリィの手を振りほどき、ユアンは再度、コースに足を踏み出した。
その道の先に、白い光がある。そこに辿り着いたらもう、ユアンは二度と戻って来ないだろう。
それが解ったから、ケリィは何度も名前を呼んだ。しかし、ユアンは振り向いてくれない。
『ケリィ…ありがとう。君に会えて、良かった』
震える声で呟いて、ユアンはゆっくり歩き出す。
追いかけたいのに身体が動かないのは、これがサナトスの夢の世界だからなのだろうか。それともケリィが無力なだけなのだろうか。
悔しくて、噛みしめた唇に血が滲んだ。ユアンの背が、どんどん光に掻き消されて行く。これ以上見たくないのに、目が離せない。そんな時、声が聞こえた。
「――ケリィ!」
ボロボロの姿で宙を飛ぶ、それはパラディだ。
彼女はケリィの肩を掴み、そして言った。
「早く、ユアンを追いかけるんじゃ!」
このままでは、手遅れになると、パラディは叫ぶ。しかしケリィは、ただ頭を振った。
「…もう、無理だよ」
ボソリと、そう呟く。
「これは…ユアンが自分で決めた事なんだ。僕にはもう、何もできないよ」
声が、震えていた。目の前にあるパラディの顔が、見る見るうちに怒りに染まって行くのが見える。
「馬鹿もん!お主は一体、何の為にキボウツキになったんじゃ!」
パラディは叫んだ。小さな平手が飛んで、ケリィは唖然と目を見開く。
「わしが…最初に教えたではないか。キボウツキの決意は、運命を切り開く炎を生む。
何故、それを忘れておるのじゃ…!」
「――決意の…炎?」
ぼんやりと、ケリィは口を開く。確かに、あの能力はサナトスを灰にする事ができる。
しかし、今ではサナトスはユアン自身であり、彼を攻撃する事など、出来るわけがなかった。
「…それに。僕はもう、あんな技、使えないよ」
そう呟いて、ケリィは俯いてしまう。
…空っぽなのだ。ケリィはもう、何の感情も持てなくなってしまっているのだ。
心の中には既に、炎を灯せるような熱い感情はなく、だからケリィは全てを諦めていた。
「良いんだ…これで…」
叩かれた頬に手を当てた。顔を上げる勇気もないのだ。このままユアンが遠くに行けば、それでケリィは終わる。サナトスは、ケリィの大切な人々を死滅させる災害となり、昇華するのだろう。そこに未来など存在してなくて、ケリィは自嘲気味に唇を吊り上げた。
ぽつりと、目の前で零れた滴がある。
「わしは…嫌じゃ」
「…え?」
パラディは泣いていた。そういえば彼女は、先程からずっと涙を堪えていたのだ。
引き攣る声で、パラディは言葉を紡ぐ。
「こ…これで良いわけないじゃろ。
わしはケリィもユアンも…教室の皆も、大好きなんじゃ。別れて欲しくないんじゃ…」
…だから決意してくれ。と、パラディはケリィの頬に触れる。
傷だらけで、涙の跡が情けないその顔は。それでも真っすぐに、ケリィを捉えていた。
「…何も心配するでない。お主にはわしが付いておる。
わしはいつだって、お前と共におる」
そう言って、パラディは笑う。
「ケリィ…わしは…――お主自身なんじゃ」
その言葉が、ケリィの胸を僅かに熱くする。目を見開いた。そこには真紅の炎が…
――炎に包まれたパラディの姿が、あった。
「走れ、ケリィ!」
パラディは、叫ぶ。みるみる内に燃えて行く身体を抱え、歯を食いしばって、ケリィを睨む。
「う…あ…」
茫然と、ケリィは炎に飲まれた彼女を見上げる。
…もう直ぐ、パラディが消えてしまう。
その事に気づいた時、足は勝手に走り出していた。
「 う あ あ あ あ あ あ !!! 」
走る。ケリィは走る。今までにない速度で、何よりも大切な決意を抱えて、ケリィは走る。
コース半ばを駆け抜けた時には、目を見開き、こちらを振り返ったユアンの顔が見えた。
彼の目指すゴールはもう間近。それでも、間に会ってくれとケリィは願う。
炎を纏ったパラディは、そのまま白い光へと突進した。途端、世界は爆発したように純白に染まる。眩しくて、目を瞑った。身体中が震えて、呼吸すらまともに出来ない。
――…ユアン…パラディ…!
ただ、その姿が見たくて、ケリィは必死で瞼を持ち上げる。しかしその時、ケリィが見たものは広い海原だった。いつの間にかケリィは、蒼い海を渡る白い橋の上に居て、ただひたすらに走っていたのだ。
――流れ込んでくる、この感情はなんだろう。
胸が、熱い。熱くて堪らない。
切れる息の狭間で、澄んだ青空を見上げれば、そこから落ちて来る巨大な飛行船の姿。黒い煙を噴き上げて、白い機体が海に落ちて行く。ケリィは走った。届け、間に合えと願いながら。そうして辿り着いた、飛行船の墜落現場で、ケリィはようやく立ち止まる。
沈みゆく飛行船の窓から、ケリィに向かって手を振る、二人の男女の姿が見えた。
『ケリィ…ケリィ!』
女性は言う。黒く、長い髪を高く結い、白い頬に大きな瞳は、ケリィにそっくりだ。
『ずっと、愛しているわ!…ずっとよ…!』
そう言って、微笑む女性の隣で、褐色の髪の男性が叫んだ。
『幸せになりなさい』
飛行船はゆっくりと、とてもゆっくりと海に沈んでいく。
気が付けば、ケリィもまた、手を振っていた。
瞳の縁に溜まった涙が、頬を伝って流れて行く。
あの日以来、一度も流れる事のなかったそれが、止めどなく溢れて、そして海に溶けて行った。
「父さん、母さん…!」
随分長い事忘れていた顔を、そしてその声を、ようやく思い出せた気がする。
轟音と共に、海の中に消えて行くその姿に向かって、ケリィは何度も何度も手を振った。
沈む機体には、楽園を意味する異国語"Paradeisos"の文字。
ケリィは、その文字が完全に見えなくなるまで、手を振るのを止めなかった。
――…ああ。僕はひとりになったんだ
真っすぐに背を伸ばし、遠くの海を見つめる。涙を拭えば、少しは視界が開けるかもしれない。そう思って、顔を擦った。なのに、涙は後から後から溢れ出ししまう。
「――…っ…!…!」
見上げれば、そこに広がるのは青い空。波の音だけが、穏やかにケリィを包んでいた。